人それぞれの道を自分の力で歩いて行くしかないけれど
他の人の人生まで背負うことって難しい。自分の親であっても子供であっても。その人の人生はその人にしか進めない。
だから考え過ぎてもどうしようもないんだ。私がコントロールするものではないし、できない。責任があってもすべてを一緒に歩くなんてできないもの。時々寄りそって時々支える。あっちへ駆け寄り、こっちに駆け寄り。私はそんな自分の人生を愛おしくも思う。
それでも息子の心を思うと、ついついずうっとそばで支え続けたくなる。多分はたから見ると、サッパリしているように見えているかもしれないけれど、多くの親がそうであるように私だってずっと心配だ。
親子はその個性が、たとえ似ていてもまったく一緒ということはない。
同じ場面や状況で同じように笑い、泣いているとして、その時の感情はまったく一緒ではない。どう感じたから笑ったのか泣いたのかはちがう場合もある。
心のメカニズムもある。こういう過程があるとそうなる。その過程を経るとたいていあんな現象が出る。こういう言葉を発する。
少しは勉強したから知っているけど、だからってそれをコントロールするのは至難の業よね。
さらに発達障害と呼ばれるものの特性は厄介で、その他大勢の人たちと動きや心の構造が同じわけではない。
「こうしたら」そういう反応が出るわけでもない。
「ああしたら」順調にいくわけではない。
それを知らないと、人の介入を甘やかしとか、コントロールができていないとか、コツがわかっていないとか色々言ってくるよね。
孤立しがちな親の心細さを、子供の学校生活でも泣きたいほどに体感してきたけど、子供自身の心細さはもっとはかり知れないものなんじゃないだろうか。
私には分かち合える夫がいて、支えてくれる友達たちがいる。
子供にはそこまでを言語化して通じて支える人はいるのだろうかと心配になる。
だからカウンセリングに通っていると知ってホッとはする。
息子を励まそうとしても、私の思いは見透かされる。
そんな状況をついつい良くしようとする母親としての思いは、子供としては「わかってくれない」につながってしまうようだ。
いろんな人の人生を語ってみても「そんな人たちがいるのは理解するけど、だからって今の僕の気持ちがラクになるわけではない」と言う。
長い目で見てほしいと伝えても「今、ラクになりたいくらいつらいんだよ」と言われる。
自分の力不足を思い知らされる。
今の私は息子の立ち上がる力を信じるしかできない。
大丈夫なはずなんだ。
多分その特性ゆえ、もっと物理的に支える外側の力は必要で、私はもう少し介入していこうと思う。
親の保護の下は窮屈だし、親から離れたい、という時期は過ぎたようだ。自分でも「助けてほしい時には前よりもっと声をかける」と言うようになった。
手を出し過ぎるとうっとうしがられ、手を出さなさ過ぎると支えを失うように転がってしまう。難しいんだよな。一言で片づけるのが歯がゆいくらいに「難しい」んだよな。
息子の苦悩を一日に何度も思い返してしまい、私までつい苦しむ気持ちをどうにかやり過ごしながら暮らしている。
夫と話し、笑う。
親と話し、笑う。
友達と話し、笑う。
皆さんのnoteでその生活や思いを知る。
それだけでも私の気持ちは助かっているなあとしみじみする。今日もまた読みに来て、気分が変化するのがありがたい。
ちょっとしばらく重たい内容でごめんなさい。
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。