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【第11話】ヨットマンの覚悟 『彼方なる南十字星』

日本の高度成長期。自作ヨットを操り、命がけで太平洋を渡り、南十字星を見に行った3人の若者の実話にもとづく冒険物語。***


2年で100万円を貯めた。現在では300万円ほどの価値がある金額だ。

とにかく、戦いだった。自分自身との厳しく辛く、途方もなく長い長い戦い。
毎月毎月、給料の3分の2を貯金するということ。この努力は、簡単な言葉では表せられない。

爪に火をともすように、とはこのことだろう。

裕太や翔一とは、手紙や会社の電話を使わせてもらって、時々連絡をとっていたが、会うことはあえて避けた。会うと必ず散財する。残念だが、今の僕には遊ぶ余裕も美味しいものを食べる余裕もない。

彼らが遊ぼうと誘ってきたら、断る自信がないのだ。

この2年間は、本当に辛かった。


高砂に来て半年経った頃だ。河合百合子から手紙が届いた。河合は、京都の女子大学に通っている。小学校の先生を夢見る女子大生だ。

「安藤くんへ。元気にしていますか?…」こんな書き出しから始まる河合の手紙は、とても美しい文字と美しい文章で溢れていた。

内容は、大学での出来事や授業の内容、友人との交流に関する話が主だったが、就職し、働いているばかりの僕には、とても新鮮な手紙だった。

河合からの手紙は、1ヶ月に一度ほどのペースで届いた。もちろん、僕は必ず返事を書いた。文通というやつだ。

しかし僕の手紙は、河合にとってきっと面白くもない内容だったに違いない。
字も下手だった。字が汚いことは、50年経った今でも変わらない。
内容はといえば、どんな船を作って、どんな作業をして、などというものだったからだ。

僕は20歳になっていた。20歳といえば、今の時代は社会に出るための様々な見識を広める若者が圧倒的に多いと思う。

しかし、当時の僕には、夢の実現に向けた“ガマン”と“辛抱”の記憶が圧倒的に締める。

とにかく、遊ぶ余裕などなかった。

もともと、明石ヨット造船に入社した目的は、まずお金を貯めたかったこと。そして、ヨットの造船技術を身に付けたいからだった。

正直言って、純粋とはいえない入社目的だと今でも思う。

しかし、濱田社長は僕のことを認め、応援してくれていた。本当に暖かく寛大な経営者だ。濱田社長も根っからのヨット好きだ。

「安藤、うちの会社でヨットの仕組みや工法をよく学んでおけ。それは、お前が夢を叶える時に絶対に役に立つ。」と事あるごとに言ってくれた。

何の因果だろう。僕は本当に恵まれていた。

若い頃、素敵な生き方をしている大人に触れ合ったことは、僕の大きな財産となっている。何より生きる手本のような人たちだった。

明石ヨット造船は、僕が入社した頃が最もピークだったような気がする。社員は若い工員が中心で、10人以上在籍していた。他には、パートの女性社員が6〜7人。

明石ヨット造船という社名だが、ヨットの受注はほとんどなかった。当時は、まだまだヨットの需要が少なく、漁船やFRP製の釣船などを主に製造していた。

社員の皆さんは、とてもいい人たちだ。

濱田社長のことも好きだったが、経理責任者の宮原さんからも本当にお世話になった。

この頃の僕は、とにかく食欲がすごかった。当たり前だろう。20歳なのだ。宮原さんは、会社近くの食堂や安い居酒屋によく連れて行ってくれた。

「安藤。お腹いっぱい食べろ。とにかく食べて、大きな男になれ。」

宮原さんは僕を食堂に連れて行ってくれた時、日本酒をコップで飲みながらいつも笑顔で話しかけてくれた。宮原さんからは、決して説教じみた話はなく、会社の愚痴も全く出てこなかった。

正確な年齢は聞いていないが、40代半ばだったと思う。

宮原さんに食事をご馳走してもらう時、僕は決まってとんかつ定食の大盛りを注文していた。この頃の僕の食事の中で、一番のご馳走だった。

パートの女性に聞いたのだが、宮原さんは一人息子を交通事故で亡くしたらしい。

「安藤くんのことが、息子みたいでかわいいのよね、きっと。」

宮原さんの目尻が下がった優しい笑顔は、今でもまぶたに焼き付いている。

こうして、様々な人たちに応援してもらい、支えてもらいながら2年。
100万円という貯金額を区切りに、夢を形にしていくことを考え始めた。


2年間で貯めた100万円。

ある時、次兄から連絡があった。次兄の英彦は、東京の不動産会社で営業の仕事をしていた。何でも独立して事業を始めた先輩が、お金に困っているから、50万円でいいから貸してくれという相談だった。

次兄の英彦は、とにかく人がいい。僕とは6歳違いだったから今は26歳。若い頃はヤンチャだったが、母親からは、不動産の営業をよく頑張っていることを聞いていた。

幼い頃から、僕にとっては優しい兄だった。人がいいだけに、騙されているんじゃないかと不安はあったが、この時はキッパリと断った。

「これまで2年間。僕を支えてきたのは、この100万円なんだ。もしこのお金が半額になってしまうと、心が折れる。もう頑張ることはできない。」

次兄に心情を吐露すると、分かってくれた。そこはやはり兄だった。
「ごめんな。変なお願いして。がんばれよ。」

就職して2年。給料も2万円ほど上がった。

1973年には田中角栄首相が「日本列島改造論」を掲げ、日本人の所得がどんどん上がって行った頃だ。2万円の昇給は本当に嬉しかったが、僕にとっては貯金額が2万円増えただけだ。

生活は相変わらず極貧。服も買わず、遊びにも行かず、美味しい食事も我慢した。

しかし、このままお金だけ貯めて行っても夢は形にならないな…。一歩を踏み出すにはどうしたらいいか…。散々考えたが、「よし、ヨットを作り始めよう!」と決めた。

僕たちの夢。手作りヨットで太平洋を横断し、南十字星を見にいくという壮大な夢。その第一歩だ。

ヨットを作り始める。夢を形にするのに、こんなに分かりやすい方法があろうか。

早速、大阪で働いている裕太と翔一に連絡した。電話連絡する時の、とてつもない高揚感は今でも忘れられないが…。

「そろそろヨットを作り始めようと思っているんだ。いくら貯めた?」

二人の仲間とは、就職する時に夢を叶えるための計画を話し合っていた。そして、まずはお金を貯めていくことを約束していたのだった。

裕太も翔一も、二人ともに何か言い訳していたが、受話器の向こうから聞こえてくる内容まではっきりとは覚えていない。

ただ、「貯金はゼロ…」という声だけは聞こえていた。

ショックという言葉は、このような時にある言葉だと思う。それほど残念だった。ただただ残念だった。

僕たちの夢は、それくらいの価値なのか?まさか二人ともに貯金ゼロだとは…。

「このままでは夢が終わる。」僕が考えたのは、そのことだけだ。

この危機感は、僕にある決断を誘導した。

あの夏。夢が誕生して5年経った。もしかしたら、仲間それぞれの価値観や夢への想いが変わったのかもしれない。変わっていたとしても、誰があいつらを責められよう。

仲間の二人がその想いを続けられなくなっているのなら、一人でもやり遂げる。

僕には、この夢しかなかった。

父親が死んだ目の前で叫んだ、「僕が医者になるよ!」という誓い。
いつのまにか、勉強が嫌でなおざりにしたまま誕生したこの夢。

「自分がやりたいこと、思ったことさえやり遂げられないような男を、父さんは絶対認めてくれないよなぁ。」
それに、僕のこれからの人生も知れてるな…。

10月のある日曜日。僕は裕太と翔一を高砂の僕の部屋に呼び出した。

〜第11話「ヨットマンの覚悟」完  次回「夢の歯車が動き出す」

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