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【第8話】初恋とヨットと… 『彼方なる南十字星』

日本の高度成長期。自作ヨットを操り、命がけで太平洋を渡り、南十字星を見に行った3人の若者の実話にもとづく冒険物語。***


高校2年生の冬になった。

12月のある日。僕は河合百合子に声をかけられた。

10月の座礁事件以来、河合とは何となく気まずい雰囲気になっていたから、もう話しすることはないと諦めていた。

それに、河合は2年生から進学クラスに入っていて、普段から話す機会はほとんどなかったのだ。

僕はというと、当然のように就職クラスだ。当時は、進学クラスに入る生徒は、大学進学を意図してカリキュラムが組まれていたらしい。

「安藤くん。まだヨットに乗ってるの?」河合は、校門の手前で偶然出会わせた僕に、声をかけてくれたのだ。

ヨットに夢中になっていたとは言え、僕はまだ密かに河合のことを想っていた僕は、思いがけない出来事にかなり動揺を隠せなかったが、平常心を必死に装い答えた。

「あの時は、本当にごめんね。お父さんからかなり叱られたでしょ?」

「ううん。ヨットに乗りたいって言ったのは私たちだから。」河合の心遣いに、僕はますます惹かれていく。

「今でも週末は必ずヨットに乗っているよ。海は怖いけど本当に楽しい場所だ。」
海やヨットの話になると、僕は話が止まらなくなる。これは50年経った今でも変わらない。

「いいな。夢中になるものがあるって。」河合は言った。

「私ね。大学に進学するの。親から言われるままにね。でもそれが、私の夢につながっているか分からないの。」

「河合は、勉強もできるから大学に行ったほうがいいよ。」僕は言った。

「何のために大学に行くのかな?私は、ヨットに夢中になっている安藤くんたちが羨ましい。」

何のために…?この時河合から発せられた疑問に、僕は何と答えたか、今では全く思い出すことはできない。ただ気の利いたような、彼女を安心させられるような、言葉を送ることができなかったことだけははっきりしている。

「またヨットに乗りたいな…。」この時の河合の願いを、僕はついに叶えてあげることができなかった。

12月ということもあり、日が暮れるのが早い。その日僕は、河合の家の近くまで送っていった。

さすがに家の前までは行けなかった。警察官のお父さんと鉢合わせするのが怖かったのだ。


1973年の年が明けた。

1月から2月にかけて、冬の風が強く、ヨットセーリングは違う楽しみ方がある。

冬は海が時化がちだ。だが、太平洋を横断するには、時化た海を絶対に経験する必要がある。僕たちは、冬の海などもろともせずにドルフィン号を操った。

高校3年生になった。仲間内では、進路のことが話題に上らない日は無くなった。夏休みを過ぎる頃には、皆切実な問題として、進路のことを考えるようになっていた。

この日もドルフィン号を天草4号橋まで走らせていた時だ。裕太が言った。

「俺、高校を辞めて、大阪に行くことになったぜ。」

「えっ?」僕も翔一も声を合わせた。「なぜ?」

「親父の仕事の都合に合わせて、家族で引っ越すんだ。」

「うそだろ?」僕が言う。

「嘘ついてどうする。」普段陽気で喜怒哀楽が分かりやすい裕太だけに、表情を見れば、本当なのが分かる。

「だって、卒業までもう少しじゃないか?」真面目な翔一が心配する。

「お前たち、俺がどんだけ勉強好きか分かってんだろ?」どこまでも裕太はひょうきんだ。「高校での勉強なんて、ヨットでの楽しさに比べりゃ、屁だぜ。」

僕と翔一は、どこまでも明るい裕太の様子に助けられたかのように、気分を取り直した。

裕太のお父さんは、小さな印刷会社を経営していた。

1973年は第一次オイルショックが起こった。印刷会社で使う紙が不足し、価格が上がった。裕太の会社は、この煽りをモロに受けたようだ。仕事が入らなくなり、原料代も高くなった。金融機関からの借金も増えたらしい。

裕太のお父さんが、大阪の建築会社に作業員として就職したと聞いたのは、ずっと後の話だ。

ドルフィン号を桟橋にもやい、3人で帰路についた。

秋の夕暮れ時だ。オレンジ色に染まった港を横目に歩きながら、裕太は言った。

「離れていても、夢は諦めないぞ。」

「ああ、もちろんだ。」僕も翔一もうなずく。


10月のある日、裕太は大阪に向けて引っ越して行った。

3年生の秋になり、僕も自分の将来を真剣に考えるようになっていた。とはいえ、大学進学などする気はさらさらなかった。

母親との会話では、「大学に行って欲しい。」というニュアンスを感じていた。

その期待には答えられないという申し訳なさから、僕はますます家を留守にすることが多くなっていた。ドルフィン号に寝泊まりした日は、数えきれないほどだ。

二人の兄はすでに家を出ていて、それぞれ就職していたから、僕は母親と二人暮らしだった。

あの時、父親の臨終の時。宣言した「僕は父さんの跡を引き継いで、医者になるよ!」という言葉。その言葉は、僕の将来を考える上で大きな影響を及ぼしていることは否めない。

母親が、三男坊の僕が医学部に進学して、医院をついでくれることを期待していることは間違いなかった。

父の開業医院は、臨時に父の後輩ドクターが務めてくれていたが、長くしないうちに辞めて、自分で開業したい旨を母に伝えていたようだ。このままでは、父の病院は閉めざるを得ない。母としてはきっと断腸の思いだろう。

高校3年生になってからも、僕は勉学に対するモチベーションは全く上がらなかった。というより皆無だった。ヨットに夢中になっていたことも理由としてあるが、勉強そのものが好きではなかった。

散々悩んだが、やはり医学部を受験するという選択肢はあり得なかった。というより、大学進学そのものを選ぶことを避けた。

同級生が、大学受験に懸命に取り組んでいた頃、僕は担任の先生に呼び出された。

「安藤、このままでは就職先も紹介できないぞ。」先生は、露骨に面倒臭そうな表情で僕に注意した。そりゃそうだろう。成績は落第ギリギリだったし、自称学外ヨット部を名乗っていたために、学校の部活動にも所属しない、度を超えた劣等生だったから。

その頃、僕の愛読書といえばヨットの月刊雑誌「舵」だった。その日も、自室でコカコーラを飲みながら「舵」を眺め読みしていた。ふと、求人広告欄が目に留まる。

兵庫県明石市「明石ヨット造船株式会社」。工員募集の広告だ。
兵庫県か…。大阪には裕太がいるな。裕太の存在はやっぱり大きい。

翌日、学校から帰宅すると、僕は電話の受話器をあげた。明石ヨット造船に連絡するためだ。「ええい、ダメもとだ!」心の中で叫びながら、意を決してダイヤルを回した。

「はい。明石ヨット造船です。」

電話応対の年配らしき女性の声。とても丁寧な応対に僕の緊張は、幾分ほぐれた。

「あの〜。熊本県から連絡しています。安藤と言います。雑誌の求人広告を見て…。」

求人担当の責任者らしき人に替わってもらい、求人に応募したい趣旨を伝えた。
最初は、熊本から高校生が直接連絡してくるなどと、思いもしていなかったらしいが、すぐに面接の許可をくれた。

「面接試験に、明石市まで来てもらえますか?」

もちろんそのつもりだ。

「はい。ぜひよろしくお願いします。」僕は、面接試験の日時を決めて、電話を
切った。

〜第8話「初恋とヨットと…」完  次回「旅立ちの時」

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