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【第30話】ニアミス! 『彼方なる南十字星』

日本の高度成長期。自作ヨットを操り、命がけで太平洋を渡り、南十字星を見に行った3人の若者の実話にもとづく冒険物語。***


太平洋横断も半ばに入り、かなり緯度が高くなった。曇りの日が多くなり、外でのワッチ(当直)は寒くて辛い。
時にホライズン号の周囲は濃い霧に覆われる。100メートル先までも見えない時も珍しくなかった。

どのみち霧で前が見えない。ワッチは、たまにコンパスを覗き込み、方向を確認する程度にした。

僕たちはウィンドベーン(自動操船装置)を調整するくらいで、キャビン内でくつろぐことが多くなった。

ある日の午前中だった。3人とも起きてキャビンのテーブルにトランプを広げて、ポーカーに興じていた。

最近では、暇な時はデッキよりもキャビン内にいることが多い。トランプは良い暇つぶしだ。

ところで僕は、ポーカーは負けない自信がある。勘が働くというか、来て欲しいカードを念じると、かなりの確率で手に入るのだ。

この日も、裕太の一人負けだった。僅かばかりのお金をかけている。裕太は、はっきり言ってポーカーが弱い。すぐ表情に出るためだ。ポーカーフェイスができなければ、勝負にはならない。

少し負けが込んだ裕太が、やさぐれモードに入った時だった。

突然、ヨットが大きく揺れた。

「な、何だ?」裕太の大きな声がキャビン内に響く。

翔一は声も出せず、目を見開いている。

裕太が、輪を掛けたような大きな声で「あーっ!」と叫び、キャビンの窓を指差した。

窓を見ると、いつも霧で白く見えるアクリルが灰色に覆われている。
僕は慌ててハッチを開け、外に出た。

見ると、ホライズン号の左舷側数十メートルに灰色の船体が、今まさにすれ違おうとしていた。貨物船らしい、いやタンカーか。
その凄まじいほどの大きさに、3人とも絶句した。

先ほどの大きな揺れは、その巨船の船首が作り出した引き波から来たものだった。

声が出ない。

そして、その巨大な船から聞こえる機関の音だけが響いてくる。

顔が凍りつくとは、こんな時のことを言うのだろう。呆然として、しばらく動けない。

やがて灰色の巨大な船は、白い霧の中に溶け込むように消えていった。
時間にして10数秒のことだったと思う。巨船が去った後は、元の白い世界が広がるだけだ。

夢を見ているようだった。僕たちは寒さも忘れて、発する言葉もなく佇んでいた。
信じられない。

もし、この時少しでも接触していたら、小さなホライズン号は船体を引きちぎられ、何分も浮かんでいられなかっただろう。
僕たちは辛うじて閉じ込められずに、ヨットから逃れたとしても、この北太平洋の冷たい海では、長くは持つまい。

「助かった。」僕はやっと声を出した。

「ああ、助かったな。」裕太も声を出すのがやっとだ。
翔一の頬にはなぜだか涙が伝い、ただただ呆然としている。

もしかしたら、あの船はニアミスさえ気付いていなかったかも知れない。
汽笛も鳴らなかったし、ブリッジから人が出てくることもなかった。

もちろん国籍も分からない。

もし、衝突していたとしても、彼らはきっと流木か何かに当たった程度にしか思わなかっただろう。
そうなると僕たちは、人知れず海の藻屑と消えたとしても不思議ではない。

「日本の若者が乗船したヨット、太平洋上で行方不明?ある日から定時交信が不可能に…。無線機の故障か?」などといった言葉で皆に知れ渡り、時間と共に思い出の中に消え去ったかも知れないのだ。

僕は確信があった。絶対に相手は気付いていない。
レーダーには映っていなかったのだろうか?それともレーダーの画面すら見ていなかったのか?

この時の出来事を、後に笑って話せるようになるのには、ずいぶん時間を要した。

ホライズン号の中での食事の後は、バケツで掬った海水の中に食器を入れて洗う。
だが、手が切れるように冷たい海水を感じる度に、このニアミス事件を思い出し、海に投げ出された時のことを想像して体が震えたものだ。


巨大船とのニアミス事件後、天気が回復しているときに天測をした。

ここで、天測(船の位置出し)について説明しておこう。

天測というのは、太陽やいくつかの目立つ星を対象にして、その天体が見える方向と水平線からの角度から、おおよその船の位置を割り出す方法だ。

六分儀という、レンズと鏡と分度器状のものを組み合わせた機器を使う。

測定した時間と角度を元に、天測表と天測略歴といった何冊もある分厚い本から、数字を抜き出して計算すると、海図上に一本の線が引ける。

例えば太陽を一度天測すると、海図に一本の線が引けて、その線上に自船があることになる。

2時間経って再び天測すると、また海図上に一本線が引ける。
太陽の方位が変わるため、元の線を進んだ方向に時速4ノットで走っていたとすると、2時間で8マイル平行移動したことになる。

その線と後の線の交点が船位と言うことになるのだ。

夕暮れ時に水平線が見えるうち、方向が違う星を3つ選んで天測すると、海図上に三本の線による三角形が引ける。
そして、その中心が推定船位と言うことになる。

三角形が、小さければ小さい程、精度が高いといえるのだ。

しかし、あの頃GPSがあったら、どんなに楽だっただろう。

僕たちは、太平洋横断時は、主に太陽を正午と午後2時に計り、その日の船位を出していた。

目的地がシアトルではあったが、それまでは島もない。そこで、経度がある程度分かっていたらよし、ということにした。

今思うと、かなりアバウトな天測をしていた。

しかし後に島を目的地にした時は、星を目標に3点天測して精度を高めた。


ニアミスした時のことを3人で話し合った。海図を見ながら、様々な意見を交換した。

おそらくだが、ホライズン号は大型船舶の航路に入っていたのではないか、というのが僕たちの結論だ。

あれから、タンカーや車両運搬船など、大きな船舶を数々目撃したのだ。

気をつけなくてはいけない。

まさか、太平洋の真ん中で大型船舶とぶつかりそうになるなど、思いもしなかった。
航海にも慣れてきて、知らず知らずのうちに、油断が生まれていたのかも知れない。

〜つづく   

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