【第10話】夢を育む若者 『彼方なる南十字星』
日本の高度成長期。自作ヨットを操り、命がけで太平洋を渡り、南十字星を見に行った3人の若者の実話にもとづく冒険物語。***
第2章 ⚓️夢の成長⚓️
目覚ましが鳴る。朝の7時だ。
6月下旬の朝はすでに明るく1年の中でも比較的過ごしやすい季節だ。
顔を洗い歯を磨く。1階に降りて、食堂に行き冷たい味噌汁を温めるためガスコンロに火をつけた。
兵庫県高砂市で一人暮らしをスタートさせて、3ヶ月が経とうとしていた。
今朝はラッキーだ、昨晩社長の奥さんがやってきてご飯と味噌汁を差し入れしてくれた。夢を追いかける僕にとっては、満足な朝食だ。
作業服に着替えて、出社する。
明石ヨット造船株式会社。今現在、僕が勤める会社である。本社は明石市にあるが、つい最近高砂市に借りたレンガ倉庫を造船工場に改装した。
僕が入社した時には、すでにFRP(繊維強化プラスチック)製の漁船やヨットが製造されていた。日々組み立てられていく船の数々を眺めるのが、何より心地よかった。
レンガ作りの造船工場に隣接して、会社は2階建ての民家を借り切って寮にしていた。寮は2階に3部屋があり、それぞれ新入社員が入った。僕以外は20代後半の人たち。18歳の僕からは、ずいぶん年上に思えた。
だが、二人とも入社3ヶ月も経たない内に、早々に会社を辞めてそれぞれの田舎に帰っていった。
だから、寮に一人暮らしで風呂もトイレも独占できるというわけだ。家賃は要らないし、風呂もタダで使える。食事が最も散財の元だが、昼食は弁当が支給された。
明石ヨット造船の濱田社長は、若い僕のことを公私にわたり本当に可愛がってくれた。
人から可愛がられることの大切さ…。感謝の気持ちがその源になるということを、僕は早いうちに学ぶことができたと思っている。
大学生になった同級生には、きっとまだ時間がかかる貴重な学びだと思う。
それに時々だが、濱田社長の奥さんが寮に食事の差し入れを持ってきてくれた。
これは本当にありがたかった。
だが、基本的に朝食は寮の近くのお店でパンと牛乳を買い、夕食は自炊して凌いだ。
僕の月給が残業代を含めて6万円と少し。大学生の初任給がだいたい同額の頃だったから、高卒の僕としては満足できる金額ではあった。普通に暮らしていればの話だが。
僕はおよそ6万円の月給の中から、必ず4万円を貯金することを決めていた。
給料支給日は、毎月5日と決まっていたから、まだ2回しかもらっていない。つまり8万円を貯めたことになる。給料のうち、削れるのは食費ぐらいだろう。
残業は進んでやった。とにかく稼ぐのだ。すべては夢のため。
仕事の内容はというと、主にFRPの吹き付け作業だ。FRP製法は、当時の造船技術の最先端をいく製法だった。
ある意味、造船業界におけるイノベーションだったと言っても過言ではない。
それだけに、この製法は未知の部分も大きかった。
例えば、吹き付け作業中にガラス繊維が工場内に舞う。それを吸い込むことは、絶対に健康上良くない。また、FRPをカッターで切断する時に、空気中に飛んだガラス状の粉が皮膚につく。するとこれがたまらなく痒くなるのだ。きっと軽いアレルギーを起こしていたのだろう。
当時は、就労時の健康などあまり気にせずに、経営がなされていたと思う。作業や製造などを担う就労場では尚更だった。
自分の健康は自分で守れ!これが当たり前の時代だった。
僕はもともとあまり皮膚が強い方でなく、できるだけ肌を露出しないようにして働いた。
もうすぐ本格的な夏に突入しようとしていたから、きっと暑さが辛いに違いない。
僕が作業している工程はFRPの吹き付けで、今は漁船を製造している。隣では同じFRP製のヨットが造られていた。48フィートの大型ヨットだ。こんなヨットを買う人はどんなお金持ちだろう。
製造工程はすでに内装に入っており、職人さんたちが黙々と作業していた。日に日に美しく仕上がっていくヨットを眺めていることが、僕はたまらなく楽しかった。
〜第10話「夢を育む若者」完 次回「ヨットマンの覚悟」
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