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【第3話】出逢い・恩師 『彼方なる南十字星』

日本の高度成長期。自作ヨットを操り、命がけで太平洋を渡り、南十字星を見に行った3人の若者の実話にもとづく冒険物語。***


数日後、熊本日月新聞の夕刊に記事が載っていた。思ったよりもスペースを割いてくれており、新聞一面の4分の1の大きさだった。

記事の見出しは「南太平洋へ夢の冒険航海」だ。

僕たちは小躍りした。英雄気分とはよく言ったものだ。
まさにこの時は、僕たちは英雄気取りだった。

僕がひそかに片思いを寄せていたあの子からも「すごいね!」と言ってくれるだろうか?学校の先生はきっと驚くに違いない。他の友人たちも、きっと僕たちに一目置くはずだ。

そんな思いは虚しく、夏休みだったこともあり、大した騒ぎにはならなかったことが今でも心残りだ。


遠藤記者から僕の家に電話があったのは、それから数日後のことだった。

なんでも、記事を読んだヨットオーナーのお医者さんが、「ヨット に乗りに来ませんか?」というお誘いがあったというのだ。
僕は新聞という情報手段のインパクトに驚き、また遠藤記者がつないでくれた縁というものに心から感謝した。

そしてもうひとつ、熊本市内でディンギー(キャビンがない小型のヨット)を持っている人からも「遊びに来ませんか?」とお誘いを受けていることを聞いた。このお誘いが、ことのほかトントン拍子に話が進み、僕たちは熊本マリーナに自転車で向かった。

お誘いしてくれた人は、島野さんという方で小さな会社を経営されている方だった。口髭を蓄え、ベレー帽をかぶって颯爽と現れた姿が今でも忘れられない。ダンディという言葉がぴったりの大人の男だった。

「ヨットは本当に初めてなのかい?」島野さんは、微笑みながら聞いてくれた。
「はい。全く乗ったことありません。」
僕が言うと、裕太も翔一も正雄も一斉にうなづく。
「ははは。そうか…。きっと夢中になるよ!」
島野さんの言葉は、大当たりだった。この日が僕たちのヨット記念日だ。忘れもしない。

1971年8月22日の日曜日。僕にとってだけ、悔しさが残る日になったのだが…。

島野さんのディンギーは4人乗りで、思ったより小さい印象を受けたが、初めてヨットに乗るんだという興奮に僕たちは酔いしれた。が、昨日から僕はお腹の調子を悪くしていて、ちょうど4人乗りだったこともあり、マリーナで一人待つことになったのだった。

1時間ほどして、3人が帰ってきた。3人はすこぶる興奮していて、海の素晴らしさ、風の匂い、ヨットのスピードと操縦方法などを詳細に口走っていた。だけど興奮のためか早口すぎて、僕には何を話しているか皆目分からなかった。

ただただ、ディンギー体験ができなかったことだけが悔しく、今だにこの時の悔しさを忘れることはできない。


夏休みが終わり9月に入った。9月と言っても暑い日が続いていて、僕たちはそれぞれの学校で2学期をスタートさせていた。

記事を読んで誘ってくださった、お医者さんのヨットに乗せてもらう段取りがついたと、遠藤記者から連絡があった時は、僕は今度こそヨットに乗れるという期待感で包まれた。

9月の第二日曜日。僕たち4人は待ち合わせ場所の熊本駅に向かった。

しばらくして白くて古いベンツが現れた。
出てこられたのは、城田耕作先生という熊本市内で開業医をされているお医者さんだった。

前にも言ったが、僕はおよそ半年前に父を亡くしていた。
父も開業医だったから、城田先生には父のような感情を抱いた。城田先生は、小柄だがとても低姿勢で、「城田です!」という僕たち高校生に対する丁寧な挨拶からも、器の大きさが伺えるような大人だった。

ディンギーに乗せてもらった島野さんといい、城田先生といい、海の男ヨットマンとはかくあるべしという勝手な価値観が、僕の中でこの時はっきりと形成されたように思える。

「さあ。車に乗って。少し待っていてくれないか。」
城田先生は、僕たち4人をベンツに乗せて、一人熊本駅で駅弁を買ってきてくれた。自分の分と合わせて5食分の弁当を、大切そうに抱えて歩いてきてくれる城田先生を見て、今まで僕たちが出会った大人とは全く違う、謙虚さの威厳というものを感じた。

先生が買ってきてくれたのは、当時有名だった駅弁屋「音羽家」の特上弁当だ。めったにありつけないご馳走を、ひょっとしてヨットの上で食べることができるのかという期待感は、この時マックスになる。

〜第3話 「出逢い・恩師」完  次回「Dolphin号」

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