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【第29話】強制接舷を切り抜けろ 『彼方なる南十字星』

日本の高度成長期。自作ヨットを操り、命がけで太平洋を渡り、南十字星を見に行った3人の若者の実話にもとづく冒険物語。***


メルカトル図法というものを、聞いたことがあるだろう。

例えば、普段見る世界地図は、メルカトル図法で描かれている。
地球は丸いために、メルカトル地図で直線を引いた線が最短距離という訳ではない。

最短距離というと、地球儀で出発地と目的地を糸で結んだ線が最短距離ということになるのだ。

一般的に見るメルカトル世界地図では、最短距離は弓なりに曲がっている。

海図も、メルカトル図法で描かれている。
今回の太平洋横断のコースは、西宮からアメリカのシアトルまで最短距離を引くと、かなり北上することになった。

つまり、アリューシャン列島に近い、北緯45数度近くを航海することになるのだ。
もちろん大型船も燃料節約のため、多くはこの航路を通る。

そのため、ホライズン号のコースを決めるとき、西宮から太平洋に出ると黒潮に乗ってしまう。大型船の航路は極力避けたい。

そこで北上はするが、東経160度程まで東側に進み、北緯40度東経160度の地点から大圏コース(地球上の2点間を弧で結んだ最短コース)をとることにしたのだ。

大型船の航路を外すためだ。この方がいくらか安全だろうということで決めた。安全第一だ。


男3人の航海は、時に性欲に悩まされる。ましてや僕たちは、20代半ばの健康な男だ。性欲の高揚による、焦燥感に悩まされることがよくあった。

そんな時は、ひとりトイレにこもって自慰行為におよび、昂る気持ちを解消する。
持ち込むのは大人の雑誌、つまりエロ本だった。

これは、西宮ヨットハーバーを出航する時に、平川先輩からもらった餞別だった。
「一人1冊の3冊だ。結構高かったんだぞ。」などと訳の分からない冗談を飛ばしながら、嬉しそうに差し入れてくれた。


その時の、お皿を逆さにしたような平川先輩の目は、出航前の緊張をほぐしてくれた。
このエロ本に、僕たちが救われることになろうとは。人生とは本当に分からない。

この出来事は、今思い出しても恐ろしくなる。

アリューシャン列島の下あたりに差し掛かった時だった。様々な国の貨物船らしき船影を確認できた。ただ、距離はあるから、ぶつかる確率は限りなく低い。

そんなある日だった。ホライズン号の右舷に、貨物船と思われる船舶が見えた。
ハーフマイル(800m)ほど離れているだろうか。

こちらから航行の邪魔をするつもりはない。距離を保持しながら、進路を変えずに進んだ。しばらく静観していたが、どうも向こうから近づいているように思える。

僕は、キャビン内の裕太と翔一を呼んだ。

「どこの船だ?」僕は二人に聞いた。煙突に赤い星のマークが確認できた。

「ソ連(現在のロシア)ではないな。」翔一が言う。

「じゃあ、中国か北朝鮮か。」

裕太はさっきから呆気にとられて、黙り込んでいる。

あまり気持ちのいいものではない。僕たちはそれでも、知らないフリをして航行を続けた。

とっさに僕は、無線でなにがしかの通信をしている様子を演じた。この状況をどこかに報告している風に装った。
キャビンのハッチから上半身を出し、手にはマイクを持った。

城田先生との朝の定時交信はとっくに終わっていたが、誰かと話しているジェスチャーで切り抜けようとしたのだ。

それでも貨物船は、ホライズン号の後ろに回り込んだ。そして、バックで船尾に接舷しようとしてきた。

貨物船とは数メートルしか離れていない。船尾のドアが開き、乗組員らしき男が2、3人出てきた。
何やら話しかけてくる。東洋人ということは分かったが、言葉がさっぱり分からない。

とうとう接舷した。

中国語ではなかった。おそらくハングル語だ。

「どうする?」翔一が不安そうに僕に聞いた。

「とにかく友情を示そう。何かプレゼントできるものはないか?」

「何にもないぞ。なけなしの金だけだ。…そうだ、これなんかどうだろう?」裕太がキャビンから持ってきたのは、2冊のエロ本だった。

裕太は、エロ本を男のひとりに手渡した。するとリーダーらしき一番偉そうな乗組員がそれを受け取り、そそくさと船内に消えていった。

それで彼らは満足したのか、乗組員は全員扉の向こうに入っていき、貨物船は離れていった。

北朝鮮の日本人拉致事件が、明るみになるのはこの出来事よりもずっと後のことだ。
しかし、拉致事件そのものは1970年代から80年代に多発している。

あの貨物船が、工作船だったかどうか定かではないが、今考えると僕たちも拉致されていてもおかしくはなかったと思う。

ともあれ、僕たちは平川先輩からもらった2冊のエロ本に救われた。運命とは本当に分からない。

後年、僕たちはこの時の話を回顧する時がある。
笑い話である一方で、一歩間違えれば拉致されていたかもしれない、あまり思い出したくない出来事だ。

これまで、海で遭遇した人たちからは、ありがたい心をいただいてきた。千葉県千倉町の漁船、海上自衛隊の艦艇。
それは、日本人だったということが大きいと思う。

今回の北朝鮮らしき貨物船からは、恐怖だけもらったようなものだ。正直、怖い体験だった。

貨物船が遥か彼方に離れたのを確認して、僕たちは夕食の準備を始めた。

裕太が「あの人たち、何もくれなかったな。」と呟く。

「そうだよ。こっちは大切なエロ本をあげたのに、何もくれなかった。」

「大切な?か?」翔一がからかう。

この後3人で大笑いしたのは、言うまでもない。

〜つづく

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