【映画】「ちょっと思い出しただけ」ちょっとって、可愛い
※ネタバレ
今回は、3週間も会えなかったらしい。
募って募って、簡単に言葉に出したくはないと心に決めたのに、久々に会った彼はやっぱり死ぬほど愛おしくて、直ぐに言葉に洩れた。
高速道路の事故渋滞、ただでさえ退屈でけれど幸せなバスの時間が1時間半も長引いた。
渋谷から五反田を乗り継いで、彼の家に着いて、息をつく。洗濯物を畳んだり、お皿を洗ったり、彼の家が私の手によって悦んでいく。
一緒に居られる時間が減るのが、遠距離になってから堪らなく辛くて、バスの遅延はしょうがないにしても、独りで家事をしている間、ずっとスマホでグノシー読んでる彼に泣きそうだった。
それでも、死ぬほど愛おしかった。
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「ちょっと思い出しただけ」
サークルで1番女の子を喰ったと揶揄されるほど、後輩の子達と卒業前に焦るかのように遊んでいた私が、有り得ないほど懐いてくれたセンスのいい2個下と観にいった映画。
その内容があまりによくて、言葉にしきれない何かに気づいてよらいたくて、
遠距離になってから2ヶ月が経った今日、エスターの次にお口直しとして一緒に観るべきだと彼に主張した。
「ちょっと」で、「だけ」。
その言葉が、そうやって重ねることが、どんなに残酷で美しいか。
小さなケーキを食べながら、周囲を見回すさとる。老夫婦、親子、仕事人、浮浪者、人が写り替わり、自分の小ささと世界の美しさを教えてくれる、大好きなシーン。この作品は、とある男女を描いているのではなくて、とある男女によって世の中の全ての人々を、その中に流れる時間を、映し出しているのであった。
だからこそ、「ちょっと」思い出した「だけ」。
一瞬一瞬が、生活の一コマが、重要なようで重要でない。
なんだかとても、掬われたのだった。
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彼と、帰りのバスが来るまで残り1時間しかないのに、ちょっと大人なバーに行って、ワインを1杯ずつ飲んでチーズフォンデュと鴨肉をがっついた。
場違いなことを互いに理解しながら、有線のイヤホンを分け合って、残りの30分くらいをにやにやしながら見た。
キスシーンで店員さんが注文取りに来てくれて、2人で気まずさに笑った。
このエモさは、確かに映画の中の斎藤工と伊藤沙莉に似ていたけれど、映画の中では既にその普遍性は証明されていた。
私はそれでも彼が私を伊藤沙莉に、その顔の丸さから似ていると言ってくるのが嬉しくて(花束みたいな恋をした、でも似たようなこと言ってた気がするけど)映画の良さを感じる彼がやっぱり好きだった。
ちなみに私の使うエモという言葉は、私の中に明確に当てはまる感情があって、この言葉は語彙力がないから適当に使っているわけじゃない。
ワインを飲みながら、奥にいる男女の笑い声と、場に似つかわしい綺麗な佇まいを見る。
この世にはあまりにも、映画のような出会いが多すぎる。私と彼の出会いもきっと「ちょっと」と「だけ」で構成されているのだろう。
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記憶力の悪い私には、こりゃすごい、この先忘れることは無いだろう、と思えることが多すぎて、やっぱり結局全てがぽろぽろと抜け落ちていく虚しさを毎日のように感じている。
人より多く摂取したその寂しさも、いずれ忘れて、私になる。
ちょっとで、だけ、の記憶もきっといつか忘れ去られる。
私たちはその記憶を、記憶とすら呼べない感情を、蓄えてそして確かに進んでいるんだろう。
私たちの一瞬はかけがえのないものだ。
「ちょっと思い出しただけ」を2時間にした映画をみて、きっと誰もが気づくのはそんなごくあたりまえみたいなこと。
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