従順と非服従——太田靖久『ののの』について
フランスの小説家ジャン・ジュネに『シャティーラの四時間』という作品がある。イスラエルによる支配からパレスチナを解き放とうと奮闘したフェダイーンと呼ばれる若い兵士たちのキャンプを訪れたジョネと彼らとの交流の日々を綴った平和なパートと、イスラエル軍の後ろ盾があったとも言われるキリスト教系の武装集団にフィダイーンを含んだ難民キャンプが襲撃され、女性や子供を巻き添えに無差別な殺戮が行われた事件が起き、たまたま現場の近くに居合わせていたジュネがジャーナリストを装って難民キャンプに足を踏み入れ、事件直後の現場をルポタージュする凄惨なパートとが対比的に描かれた作品である。このなかでジュネは難民キャンプの人々が悲惨だとは書かない。むしろ彼らの陽気さは不幸を突き抜けていたと証言する。なけなしの食料を老いたフランス人に気前よく分け与え、そのことに誇りや喜びを抱くのである。社会がどう見做そうとも彼らは幸福だった、というか社会における幸/不幸という概念の埒外にいた。
晩年のジュネが受けたあるインタビューのなかで、彼は次のように発言する。質問者が「我々はパレスチナの戦闘のニュースがあたり前になってしまったために、現実でなく非現実と感じているように思う、そのことについてあなたはどう思うか?」と尋ねると、ジュネは、「むしろ私にしてみれば、すべてを非現実に変えてしまうあなたがた(マスコミ)のことを強調しておきたい。」と答える、「あなたがたがそうするのは、そのほうが受け入れやすくなるからだ。現実のキャンプに本物の手紙を運ぶ女よりも、非現実的な死者、非現実的な虐殺の方が結局は受け入れやすいものだ。」
この「非現実」という言葉を「物語」と読み換えてみよう。テレビや新聞の報道は現実を伝えるのではなく現実を「物語」に変える。「物語」に変換されパレスチナ問題の悲惨な被害者というわかりやすいイメージに覆われた途端に、ジュネが目撃したフィダイーンの明るさは消えてしまい、現実はフィクションになる。ジュネがインタビューで語っているのは、「物語」化という物事をわかりやすくする行為がいかに暴力を孕んで現実を蝕むかということだ。しかもその暴力は人々の死角に溶け込み、自分が暴力に晒されているとは気づかせないようにする力があるのである。
この隠蔽された暴力を可視化する試みが、新潮新人賞を受賞した太田靖久の短編『ののの』である。
テンプレートな会話
自転車の通学許可証を首に下げた中学生の男の子が風に煽られ、バランスを崩して倒れた拍子に道端の木の枝に許可証の紐がひっかかり、首を締め上げられて絶命するという事故からはじまる冒頭は、人の死を描いたにしてはどこかぶつ切りな印象があり、死の悲惨さを演出する意図もなければブラックユーモアに傾く感じもしない。事故死した中学生が語り手の兄だということを思い合わせればこの冒頭は出来事に対してかなり距離のある書き方になっていると思われるのだが、このような書き方を通して、読者は出来事のゴロッとした感触を直接手渡されることになる。作者の「物語」化されていない生の現実をそのまま語ろうとする意図が作品の早い段階から明示されるのである。
作者の姿勢は一貫している。この作品には稚拙に思えるくらいテンプレートな会話が氾濫しているのだが、それはそのような物事を「物語」化する暴力的な言葉が語り手の意識を蝕んでいく様を批判的に描くための手段であり、作者の倫理の現れなのである。たとえば兄の事故死につづいて葬式の顛末が語られるのだが、ここで話を分断するように唐突に本が現れる。葬儀屋の横にあるフェンスで囲われた国有地のなかに、白い本の山が野ざらしにされて捨てられているのである。葬式で交わされる会話はテンプレートなフレーズが氾濫するもので、このような言葉こそが「物語」化を生むのだが、葬儀の会話を断ち切るようにして唐突に現れるこの白い本は「物語」化を生む言葉の象徴であるように思われる。参列者はテンプレートなフレーズを使うことで一人の人間の死を定型表現に落とし込めてしまうことをどこかで自覚しながら、ちょうど野ざらしになった白い本の山を無意識に無視しているように、自分たちの言葉が中学生の事故死を受け取りやすい現実に歪めていくことから目を逸らす。登場人物のこのような姿勢は一貫しており、語り手の兄の命を奪った木が人々の間で「人殺しの木」と呼ばれ、伐採が検討されるくだりで、「大罪は命をもって償わなければならない」「木が人を殺すなんて生意気だ」「あの子には輝く未来があったに違いない」といったいかにもな言葉が飛び交う。当然のように中学校では自転車の通学証明書を首からさげることは校則で禁止されるのだが、語り手はこのような規則が「生涯つきまとう規制で」、「唐突に施行されたり、廃止されたりする不確定なものだったらどうなのだろう」と考え、若干の恐怖を覚える。
この恐怖は野々山という同級生が家に引きこもるようになった語り手を外に出そうとして訪ねてくる場面の会話に具体的な形で表現される。兄の死後、台風の日に川が氾濫しそうになり、語り手の父親がショベルカーで立ち向かう。土砂を積んで川の氾濫を止めようとしたのだ。しかし、父親は操縦を誤ってショベルカーごと横転し、川に呑まれて帰らぬ人となってしまう。兄につづいて父親までをも失った語り手は家の外に出られなくなるのだが、ここに野々山が訪ねてくるのである。語り手ははじめ訪問してきた野々山を追い払うつもりでいたのだが、彼の高圧的な態度に怯んで思うように行動できなくなってしまう。さらに、気遣うような言葉を投げかけてくる野々山を警戒しながら、心は否応なしに動かされ、慰められたような気持ちになり、挙げ句の果てには涙が出そうにまでなってしまう。ここで野々山は語り手の不登校の理由を父の命を奪った川が怖いからだと決めつけてかかるのだが、彼の言動に不快感を覚えながらも、彼の言葉の持つ力に引っ張られ、語り手は「本当に自分は川が恐いということを理由に学校に行けなくなっているのではないかと思わされてしま」う。語り手が他者の言葉に対して見せるこの反応の仕方は少し特殊だ。素直というか、従順に過ぎる。思えば死んだ兄との会話でも語り手はこの従順さを発揮しており、彼が人の言葉に従ってしまう性質を持った人間であることがわかる。「僕の中で曖昧な感情や想念として渦巻いていたものに付けられた不本意な理由」が、他者の「物語」化を促すテンプレートな言葉によって歪められてしまうのをどうしようもないのである。人の言葉に対するこの従順さがある限り、不確定な他者の言葉で自分の意思や感情を左右されてしまう恐怖からは逃れられないだろう。野々山との会話はこの恐怖が現実のものとなっていく過程なのである。
教育勅使の暴力性
営業の女性が商品を売るコツは相手が持つ理想の女性像を瞬時に感じとり、そこに自分を当てはめることなのだという。作中に登場する電話営業の女性、海原知恵はテレアポのコツをこう語るのだが、これは男女関係なく該当するものなのかもしれない。語り手もまた様々な職業を遍歴した末にテレアポの仕事に就くのだが、そこで客が言葉によっていかに惑わされ、不当に高額な商品であってもイメージを上手く提示すれば買ってしまうことを知る。言葉が「物語」化を促して人を蝕む事態を目の当たりにするのである。語り手はかつて言葉の被害者だったが、成長した彼は反対に加害者の立場を経験し、再び家に引きこもる生活に入る。用事がない限り外に出なくなった彼のもとにときおり営業の電話がかかり、語り手に様々な商品を買わせようとするのだが、勧誘の言葉を彼はのらりくらりとかわす。野々山と対峙した頃の彼からは考えられない身振りである。「物語」化の暴力を伴う他者の言葉に従順だった語り手は、テレアポの仕事を経験したことをきっかけにその性質を変化させているのだ。具体的には単行本三十三ページの「★」で章が区切られる箇所の前後で語り手が性格を異にする。『ののの』を読む上でこの点には注意が必要だ。
語り手の変化を象徴するエピソードとして、単行本の三十五ページに「ずっと昔に見たアニメか絵本の挿し絵の影響」でカラスはくちばしだけが黄色いと思い込んでいた語り手が、道端のカラスを見かけて自分の思い違いに気づくという場面がある。幼い頃の彼ならイメージに負けてカラスのくちばしを黄色だと見間違えただろうが、現在の彼はイメージに捕らわれているのではないかと自らの認識すら疑う姿勢を持っているのだ。この批判精神は海原知恵にも共通して宿るものであり、特に語り手と連れだって明治神宮を散歩する途中で「教育勅語」の口語訳の冊子をもらう場面にそれが如実に現れている。海原は「教育勅語」の記述の一部に強い異和を感じる。それは友達と「お互い、わかってるよね」と言い合える仲になることを推奨する箇所なのだが、彼女によればこの「わかってるよね」には「二人の人がいて、お互いがお互いに対して抱くイメージに少しの狂いもないような感じ」があり、たとえば上司が部下に「わかってるよな」の一言で自分のイメージを押しつけてくるような、「二人の関係においてわずかでも有利な立場にいる側が、その言葉を押し付ける権利を有しているとでもいうよう」な暴力性を秘めているのである。
彼女の鋭い指摘に襟を正されたついでに調べてみると、作中には引用されていないが、教育勅語には次のような箇所がある。「もし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい」——この記述からは嫌でも戦争を連想してしまう。否応なしに出兵させられた人々の面影を宿した暗い一文に見えるのである。このような言葉に対して従順でいれば、結果として、批判する意思を奪われ、戦争に参加させられ、命を落とさなければならない状況に追いやられることになるのかもしれない。それを回避するためにも、人は従順であることを乗り越えて非服従の姿勢に至るべきなのである。少なくともそれが『ののの』という作品において作者が示した倫理だ。
この倫理観は作品そのものが特定の物語に収束することを拒絶する身振りとして具現化されている。たとえば作中には語り手と海原との恋愛に発展しそうなにおいを見せる箇所や、殺人があったことを疑わせるような描写などが見受けられるのだが、作者はわかりやすい物語に筆を進めることはしない。特定の展開に発展しそうなそぶりを見せるとその都度テキストに亀裂を走らせ、物語化を防ぐのである。この姿勢は、ジュネがマスコミに対して指摘した「物語」化や人を戦争に駆り立てる言葉に対して、非服従を貫く倫理的な意志の現れである。このような姿勢によって、難解になる犠牲を払いつつも、『ののの』は安易な言葉が氾濫する現代にあって、いかに生きるべきかを模索した倫理の書となり得ているのである。
別の可能性
最後に、作中で特に筆者の印象に深かったシーンを紹介しておきたい。単行本六十一ページに代々木公園で語り手が時間を潰す場面がある。ここで彼の眼前にくり広げられるのは、言葉のいらないジョギングというスポーツ、人間の言語とは別の世界を生きる犬、幼い子供といったもので構成された言葉以前の風景であり、誰も他者に従順さを強いることのない楽園である。当然、語り手はこの景色に感動する。「物語」化を促す暴力的な言葉が跋扈するこの世界にあって、作者は、子供と犬(動物)にはまだ希望があると信じている。子供も犬も言葉に対しては従順ではありえず、非服従を衒いなく実践するからだ。語り手が一度は言葉に関する加害者を経験しなければ従順さから抜け出せなかったというのは見方によってはこの作品の欠点なのではないかと思うのだが、作者はそのようなルートとは別に、子供や犬といった言葉以前の存在に希望を託しているのである。彼らをよく見、観察することにより、加害を経なくても非服従に至る道があるかもしれない、と。六十一ページの風景は、フェダイーンが明るく陽気なように大人の目に眩しく輝いている。この作品にあって例外的に風景描写の濃厚なこの場面は、作者が意図して書き出したものというよりふとした拍子に生まれてしまったもののように見える。だからこそ、「言葉以前の楽園」という言葉(これ自体も「物語」化を促す言葉だ)では括りきれないもの、具体的には「靴擦れをして皮が捲れた夫のかかとに絆創膏を貼っている老婦人」や、「お互い不機嫌な顔」をした「ベビーカーを押す若い夫婦」が書きつけられる。これらは年齢こそ隔たっているが夫婦という共通項があり、たとえばテレアポでその場限りの会話を重ねるような関係とは違って、どちらも深い関係性をにおわせる描写なのである。語り手はテレアポという仕事で加害者を経験した末に非服従に至った。想像だが、「お互い不機嫌な顔」を晒し合うような夫婦は、その関係のなかで加害と被害を激しく循環させながら濃いつながりを生み出しているはずである。思うに、「物語」化を促してくる暴力的な世界にあって、そのように個人と個人が深い関係を結ぶことを希求する心が作者にこの作品を書かせたのではないだろうか。であれば、海原を終盤で退場させず、恋愛とは別の形で、語り手と彼女との関係性を突き詰める方向もあったのではないかと考える。彼女との関係は語り手に重い不快を引き起こし、場合によっては物語に亀裂を走らせる作者の姿勢に反する展開が待っているのかもしれないが、しかしそれでも、思うようにならない他者から逃げて親しみやすい死者に身を委ねるのは、「物語」に従順であることとそう変わらないはずである。「お互い不機嫌な顔」を晒した末に、他者との関係において「物語」への従順さを乗り越えたところに、真の非服従がある。もちろんこう唱える筆者の言葉も作者に対して『物語」化を促しているだけであり、作中で批判されている陳腐でテンプレートな揶揄の域を出ないのかもしれない。しかしその批判を受けたとしても、他者との関係において生きたいと願う心が筆者にはある。それが筆者の考える倫理なのである。
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