家族、忘るべからず。ときにさわがしく、ありえないほど近い。
お風呂がさわがしい。
・・・を通り越して、うるさいと言ってもいい。
わたしは、冷え性。
寒波にのまれている京都はキンと冷えて自転車に乗ると耳が痛いくらい。
一日の終りのお風呂は、
ゆっくりと湯船に浸かって ぼうっとしていたい。
なのに、このさわがしさよ。
子どもたちは
お風呂の壁に、お風呂用のクレヨンでお絵かきをして
シャワーかけごっこをしたり、
あっぷっぷーっとにらめっこをしたりしている。
同じ湯船の中で、である。
子どもとはいえ、湯船に3人はさすがにせまい。
足の置き場がない。
追い焚きもしたいけど、子どもが熱がるしなぁと
ややぬるめのお風呂につかりながら、ふぅ、とため息をつく。
お風呂くらい、ゆっくり浸かりたい。
静かな生活、整ったインテリア、
趣味や友人との時間、ゆっくりディナーすることに憧れる。
30分ルールも取れやしない。(くわしくはこちらの記事を↓)
こんなさわがしい日には
ちょっとガマンしているのかな、と思うこともある。
いやいや、それでも、と思うのだ。
それでもわたしはこれがほしかったんだなぁと思う。
世の中には、いろんな選択肢がある。
選びきれないくらいに、ある。
どれが一番、とか損だとかはない。
隣の芝生が青く見えてるだけで、ただのないものねだりだ。
いろんなドアがあるなかで、このドアを選んだのはわたしだ。
子どもたちがいて、
にぎやかな空間がよくて、
お風呂から上がったら、こたつでみかんを食べる。
そういうのがしたくて、
心のなかでは切望していて、
それがいま叶っているんだよなぁ。
自分が選んだドアを意味づけしているのは、他の誰でもない、
自分だ。
自分が開けたドアの先に広がる物語は、自分で面白くしていいこうじゃないか。
ときにさわがしく、ありえないほど近いもの。
わたしにとってそれは、夫であり、二人のかわいい子どもたちである。
そして今のわたしと同じような思いをしたであろう両親もしかり、
ともに育った弟たちもだ。
このにぎやかさに動じず自分の趣味の話する夫ってすごいなとか、
子どものころ姉弟ケンカばかりでうるさくしててお母さんごめんねとか、
こたつで足が当たるとか、もうちょっとあっち行ってとか言いながら、
もう二度と来ない今日という一日に、ありがとうを添えて終えることにします。
では、また明日。