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父親のことや家のこと 人間の生き方

自分はあまり普通ではない人生を送ってきたと思う。

自分の名字がその土地の地名になるような、大地主のお金持ちの家に生まれ、

小学校低学年で両親が離婚し、その後、家が破産し、一転して大貧民になり、

小学校は全寮制、中学生になってから一人暮らしの自炊生活、

高校生になってからは働いて給料を貰う様になっていた。

その後は好き放題に、やってみたい仕事を転々としたりして、ずっと貧乏のままで、

40歳頃には会社を作って結構儲かってプチ贅沢な暮らしをしたけれど、

病気を得て会社をたたんで現在に至っている。


大地主の家なので、家に居る大人はみんな、特に働きに出る訳でも無く、

おばあちゃんは日本舞踊の名取で趣味で踊りを教えている様な家だった。

家に舞台の有る部屋が有って、毎晩お弟子さんたちが来て、夜は賑やかだった。

家は、立派な広いお屋敷で、広い庭も有った。

すごく立派な犬小屋が有った。6畳間くらいの広さを金網で囲ってあって、

その敷地の中に木造の犬小屋が建っている、庭付き一戸建てみたいなものだった。

犬小屋自体もとても大きくて、人間が中に入って犬と一緒に座れるのだった。

ちょうど、サウナの中みたいに座れる段差が有り、人間が3人くらい座れる広さだった。

なのでいつも、自分が犬の家に遊びに行く、という状態だった。

犬と二人で座って、窓から庭を眺めていた時の事を良く覚えている。

家にはいつも、犬や猫やリスや鳥が居て、動物が大好きな子に育った。


自分が生まれた頃から家の経済状態が徐々に悪くなっていたのだろう、

庭にアパートを建てたりしていた。

さらに、父親は趣味を仕事にしてしまって、庭に工場を建てて写真関係の会社を作ったりしていた。

父親も自分もお上品に育てられたお坊ちゃまで、ガツガツしていない、おっとりした、

とても良い人なのだった。

親戚の女の子が家に住んでいた事が有ったのだけれど、

「ワタシ」と言うと「ワタクシと言いなさい」と叱られていたのを覚えている。

小学校低学年の女の子が「ワタクシ」と言うのが面白く、

ただいまー、と学校から帰って来ると、

「あ、ワタクシが帰って来たよ」なんて言って

みんなで笑ったりしていたのも覚えている。

大地主だから百姓なのだろうが、名字帯刀を許されていた様な家で、

武家みたいな躾をされたものだった。

男は黙って素早く食事を済ませなさい、だの、バスや電車では男は立っていなさい、

だのと躾けられて育ったのだった。


父親は誰からも好かれる様な人で、友達も多く、しょっちゅうみんなで旅行に行ったりしていた。

そんな感じなので、趣味でやっている様な会社がうまく行くはずも無く、

結局は破産して、家屋敷も全部無くなったのだった。

全寮制の小学校を卒業して東京に帰って来て見たら、

線路わきの木造アパートの六畳一間が自宅になっていたのだった。

当時の安いボロアパートは、トイレは共同、風呂は無しだ。

線路わきなのでしょっちゅう電車が轟音を立てていた。

父親は会社の寮に住んでいて、自分はアパートで自炊生活をして中学時代を過ごし、

高校生になった時には新聞販売店に住み込みで働くようになった。

お坊ちゃま育ちなのに、貧乏生活を苦にするわけでも無く、

住み込みで働こうと思ったのは、やっぱり素直な良い子で、

状況を素直に受け入れたのだろうと思う。

中学高校と一人暮らしで学校をサボったりタバコを吸ったりしていたけれど、

いわゆる「グレる」という事は一切無かった。

お坊ちゃま育ちの人間の良さというのは、

悪い事を嫌う良い子タイプになる事ではなかろうかと思う。


そういう訳で、自分は親と一緒に住んだのは小学生低学年までで、

その後はずっと1人暮らしだった。

父親との付き合いも高校生の時に独立してしまってからは、殆ど会う事も無く、

小学生の頃からずっと、親が居ないのが普通だったもので、

何の疑問も持たずに一人暮らしをしていたのだった。


なので実は自分は父親が死んだ事を後になって知らされたのだった。

親戚が全部やってくれたのだそうだが、

長男である自分に苦労させたという引け目が有っての事だったらしい。


でも自分は父親の事を嫌いになった事も無く、親を恨んだりした事も無く、

ただ単に別々に住むのが普通になっていて、父親の事などすっかり忘れていた、

という感じだったのだ。

考えて見ると、自分の父親は、やっぱり良い人だったな、と思う。

親戚の人に言われた事が有った。

「あんたんところはね、お金の計算が出来ない血筋なのよ」と。

まあそういう事だろうと思う。

お坊ちゃま育ちでお金は使いたい放題みたいだったのだから、稼ぐ能力が無いのだ。

そのかわり、とても優しい性格で朗らかで温和なのだ。

そういう幼少期を過ごした後に、大貧民の暮らしも経験出来た、というのは、

ちょっと傑作な、素晴らしいバランスのとれた人生なのではないだろうかと思う。

なので、そういう意味でも父親には感謝している。

父親が破産して、貧乏しても楽しそうに生きていたのは本当に良かったと思う。

クルマが大好きだったので、タクシーの運ちゃんをするのが楽しそうだった。

「最高傑作が出来たね」と言われたイケメンの自慢の息子が、

高校生でありながら自分から住み込みで働いて自分で学費も払っているのを見て、

嬉しかったんじゃないかと、今の年齢になってみてしみじみと想像できるのだ。

社会的に出世したりした訳ではないけれど、貧乏な一人暮らしをさせてもグレたりせず、

自分から働く事を決めた息子というのは、

やっぱり親としては嬉しかったのではないかと思う。

一緒に暮らした時間は短かったけれど、そんな意味で父親には親孝行が出来たのかな、

と思ったりする。


離婚した母親は一人で商売を始め、結構なお金持ちになった。

自分が20歳になった時、親戚が母親の居場所を教えてくれて、

会いたいなら会いなさいね、と言ってくれた。

子供の時から母親が居ないのが当たり前だったので、

特に会いたいという事も無かったのだけれど、たまに会う様になった。

母親が1人で自宅で死んだ時、身寄りが無いので自分に連絡が来た。

なので、一人で黙々とお寺の事や、家の処分の事などをしたのだけれど、

家などは既に売却してあって、特に相続する様な財産は無かった。


人間はこうやって、寿命を終えて死んでゆくのだな、と思う。

特に大きな意味も無く、ただ淡々と、時間が過ぎて生まれては死んでゆくのだと思う。

だから、人間の一番大事な仕事は子供を作って育てる事なのだ、と、

この歳になって強く思う様になった。


江戸の郊外、目黒村の一角に自分が生まれた家が有った。

そこは今でも自分の名字が地名になっている。




おもひでぼろぼろ

もういいよ 私はそこには居ません

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