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読書│『人間の大地』『三人姉妹』にみる生き方の問題

 2月も終わりという頃に読んだこの2冊の本(サン=テグジュペリ『人間の大地』、チェーホフ『三人姉妹』)は、社会の大海原を目睫にひかえた18歳の僕にとって、きわめて多くの示唆に満ちていた。
 それは、生きるとはどういうことなのか、という本質的な問いへのひとつの解答だ。西洋的ともいえるその考え方は、いままで生き方の問題への明確な答えを出せずにいた僕にとって、新たな思考の側面を切り開いてくれた感がある。だから、この文章は、その視点が失われることのないように、未来の自分に宛てる備忘録だといえる。一方で、この問題が孕む普遍性は、すべての人々にとって切っても切れないものだ。ゆえに、この文章は、自分以外のすべての人に宛てたひとつの問いかけでもある。

「職業」にみる生きる意味

 思うに、この2冊に共通する点は、「職業」を、生きることと強く結びつけて考える点にある。この「職業」を別の言葉で言い表すなら、「勤労」「生業」「役割」「目的」などだろう。いずれにしても、僕はこの2冊を通して、職業に専心することで、真に「生きる」人の姿を見出した。
 さっそく例として 次の2文を引いてみよう。参考までに、サン=テグジュペリは20世紀のフランスの人、チェーホフは19世紀のロシアの人だ。

 どんなにささやかな役割であってもかまわない。僕らは自分の役割を自覚して初めて幸せになれる。そのとき初めて、心穏やかに生き、心穏やかに死ぬことができる。人生に意味を与えるものは、死に意味を与えるものだから。

人間の大地┃サン=テグジュペリ 渋谷豊訳

 やがて時が来れば、どうしてこんなことがあるのか、なんのためにこんな苦しみがあるのか、みんなわかるのよ。わからないことは、何ひとつなくなるのよ。でもまだ当分は、こうして生きて行かなければ……働かなくちゃ、ただもう働かなくてはねえ!

三人姉妹┃チェーホフ 神西清訳

 西洋に特有の考え方のひとつとして、職業召命観というものがある。これは、自分の職業を神に与えられた天職と考え、日々まじめに働くことが神の意志にかない、救いの道に通じるという考え方だ。これは、16世紀、宗教改革のさなかのスイスで、神学者カルヴァンによって唱えられた。つまり、それまで卑賎なことだと考えられてきた労働や蓄財を、神の名のもとに認めたのだ。西洋における燦然たる職業人の姿は、ここにはじめて打ち立てられた。
 そして、マックス・ウェーバーが指摘したように、このカルヴァン主義は、今日に至るまでの資本主義、ひいては近代主義の精神的基盤になったとされている。この説については論争もあるが、勤労者たちの間にカルヴァン主義が浸透したことは事実だ。
 僕がこの2冊にみた生きる意味は、そうした西洋的職業観とも重なる。この文章はあくまで読書録の域をでないから、サン=テグジュペリやチェーホフの宗教観や職業観を論じるつもりはない。だが、キリスト教の影響を色濃く受けた西欧の大地にあったからこそ、時と空間を超えたこの2人の作家は、働くことに生きる意味を見出したのだといえる。
 いままで、僕は、生きるということはもっと深遠な、哲学的な、形而上学的な、ぼんやりとした大きなものによって支えられるのだと思い込んでいた。だがそれは、僕が18年のうちに、誰に教わるともなく、なんとなくそう思い込んでいただけのことだ。生きることの意味を計り知れないところに求める必要は、必ずしもなかったのだ。

パイロットとしてのサン=テグジュペリ

 ところで、サン=テグジュペリの作家としては異色ともいえる経歴を知ることで、彼の文章に記された生きる意味を、より深く考察することができるかもしれない。
 彼には、小説家としての顔のほかに、飛行機のパイロットとしての顔もあった。そのことは、彼のファンでなくとも、著作のタイトルを眺めるだけでたやすく知ることができる。『南方郵便機』、『夜間飛行』、『戦う操縦士』など。タイトルだけでもロマンに満ちた気高きパイロットの姿が想像される。それらの作品の中で最も著名な作品が、『星の王子さま』だ。そして、この小さな童話の中にも、飛行機のパイロットが主人公として登場する。物語で、彼は子どもの純真な想像力を失わずに生きる大人として描かれている。これは、パイロットとして厳しい任務を果たしながら、美しい物語を紡ぎ続けた作者サン=テグジュペリ自身にも重なる。
 そして、『星の王子さま』を執筆する3年前に刊行したのが、この『人間の大地』だ。この中では、彼のパイロット時代のさまざまな思い出が、深い哲学的な思索や箴言とともに記されている。もはやこの本は、エッセーという域を超えて、彼の生きる上での哲学そのものを伝えてくれる。
 僕が思うに、サン=テグジュペリの美しい言葉の源となる純真な精神や、深遠な考えは、パイロットとしての体験によって培われたのだろう。彼は、『人間の大地』の冒頭に、こんな言葉をのこしている。

 大地は僕ら自身について万巻の書よりも多くを教えてくれる。なぜなら大地は僕らに抗うからだ。人間は障害に挑むときにこそ自分自身を発見するものなのだ。

人間の大地┃サン=テグジュペリ 渋谷豊訳

 サン=テグジュペリがパイロットとして活躍した20世紀前半、航空機事業はまさに開花・発展のときにあった。彼が3歳のとき(1903年)、ライト兄弟が人類初の有人動力飛行を行い、ここに飛行機の歴史が拓かれた。さらに彼の青年時代は、航空機産業が著しく進歩した第一次世界大戦の真っただ中にあった。その後、彼は、郵便事業のための定期便運航に従事することとなる。まさに飛行機と共にあった人生と言えよう。
 ここで注目すべきは、当時の社会における「パイロット」という職業の進取性である。なにしろ、たったの50年前には、パイロットという職業そのものが存在しなかったのだ。おそらく、パイロットという仕事は、当時の多くの人々にとって、まさに雲の上の存在だっただろう。そして、一家の没落や海軍学校の受験の失敗などの苦難を経たサン=テグジュペリ自身、ようやく得ることのできたパイロットという仕事に誇りを抱いていたに違いない。
 いまや、飛行機という存在はごく細かい点まで計画・管理され、パイロットも運航の安全性や正確性を第一義としている。だが、当時のパイロットによって行われていたのは、空の開拓とでもいうべき仕事だった。すなわち、南米大陸の長大な山脈を越えて定期路線を運航できるような航路を探索したり、アフリカ大陸の広大な砂漠地帯を十分といえない計器とともに横断したりすることに、彼らは仕事の多くを費やしていたのである。そんな任務を負うた孤独な夜、パイロットの胸にはいったいどれほどの誇りと勇気が去来していただろうか。
 サン=テグジュペリは、初フライトの朝、自分の内部に「王者」が生まれつつあるのを感じたという。当時、空を駆けた男たちは、まさに王者のごとき気高さをもって操縦桿を握りしめていたのだろう。
 ただし、これらのことから、サン=テグジュペリが生きる意味を認めた「職業」とは、あくまで先駆者としての誇りに満ちた、自己実現に結び付くようなものだとわかる。実際、彼は小都市の役人のことをなかば同情のまなざしで見ているほか、『人間の大地』の終章にて、こんな言葉を記している。

 あらゆる職業を連結させる歯車装置の中に組み入れられ、先駆者の喜びも、信仰の喜びも、学究の喜びも味わえずにいる人たちもいる。(中略)すべての人が、程度の差こそあれ、漠然とでも本当の人間になりたいと望んでいる。ただし、気をつけなければいけないのは、その解決法の中には人を欺くものもあるということだ。

人間の大地┃サン=テグジュペリ 渋谷豊訳

 この本に多大なる影響を受けた作品のひとつに、スタジオジブリ制作のアニメ映画、『紅の豚』がある(宮崎駿はサン=テグジュペリの大ファンで、堀口大學訳の『人間の大地』の表紙イラストを手掛けるなどしている)。この作品中には、なかばミームと化すほど有名となった台詞がある。豚のパイロットであり主人公のポルコ・ロッソの、「飛べない豚はただの豚だ」という台詞だ。この言葉にはサン=テグジュペリの人間観が端的に表されている。すなわち、(職業によって)自己実現できないことへの虚しさが表されているといえる。
 さて、サン=テグジュペリは、『人間の大地』の末尾において、「虐殺されたモーツァルト」というたとえを用いた。つまり、人々、とりわけ子供たちの中には、将来モーツァルトのごとき偉業をなす者もいる。だが、そういった人々の多くは見出されることなく、「あらゆる職業を連結させる歯車装置」によって、彼の内なるモーツァルトを虐殺されてしまうのだ。
 いったい、こんなたとえを持ち出されてしまっては、「内なるモーツァルト」の自覚のかけらもないような僕も、この社会に生きる道を見つけだす自信などなくしてしまう。なにしろ、このビューロクラシーの浸透した現代社会において、職業に自己を実現できる人間がどれほどいるというのだろう。この無知なる18歳の眼には、この世界などほとんど隅々まで開拓されつくしたようにすら映るのだから。
 やはり、生きる意味などそう簡単には見つからないようだ。少なくとも今の僕にできるのは、希望を絶やさずに、実現しない幸福のために生き続けることなのかもしれない。
 そして、この「実現することのない幸福」について、次項で記していきたい。思うに、この悲観的な幸福は、『三人姉妹』の根底を流れるひとつの哲学であるようだ。

「幸福」というイデアへの限りなき思慕

 はじめに断っておくと、僕がチェーホフの作品に触れたのは(同じ本に収録されていた『桜の園』に続いて)これが2作目で、それどころか戯曲を読んだ経験もほとんどない。だから、特にこの項に関しては、あくまで単なる読書録として眺めてほしい。
 さて、僕がこの作品に認めたのは、運命に対する無常観をはらんだ、きわめて悲観的な「幸福」の姿だった。そのことについて語る前に、大まかなあらすじをみておこう。面倒なので日本大百科全書から。なお、純粋に作品を楽しみたい人は、先に本編を読むことを勧める。

 地方都市に暮らすオリガ、マーシャ、イリーナの3人姉妹の人生の夢は、かつて住んでいたモスクワへ帰ることであった。オリガの弟アンドレイは、未来の大学教授という一家の期待にもかかわらず、俗物女ナターシャと結婚してから、つまらぬ男になってゆく。この町に駐屯する連隊の将校たちが毎日のように一家を訪れる。マーシャは夫ある身だが、モスクワから赴任してきたベルシーニンと恋に落ちる。しかしこの恋は悲劇的な結末に終わる。末娘イリーナはモスクワへ行きたい一心からトゥーゼンバッハ男爵と婚約するが、彼はイリーナをひそかに愛する恋仇ソリョーヌイと決闘し、殺されてしまう。やがて連隊が町を去って行き、3人姉妹は愛も夢もすべて失う。それでも3人は肩を寄せ合い「生きていきましょう。働かなくては」と励まし合う。

日本大百科全書(ニッポニカ)

 要するに、悲劇的な運命をたどる人々の姿を、群像劇として描いた作品と言える(もっとも、チェーホフはこの作品を喜劇と主張して人々を驚かせたというが)。作中に登場する人々は、総じて人生に対する悲観や不安、諦念といった感情を抱いており、そんな運命に生きる意味を見出そうとする。
 まず僕の心に残ったのは、3人姉妹の次女マーシャとかなわぬ恋に身を燃やす軍人、ヴェルシーニン(ベルシーニン)のこんな台詞である。

 われわれには幸福なんかありはしない、あるべきはずがないし、この先もありようがない(中略)われわれはただ、働いて働きぬかねばならんので、幸福というものは——われわれのずっと後の子孫の取り前なんですよ。

三人姉妹┃チェーホフ 神西清訳

 先ほどから述べてきた、「実現しない幸福」「悲観的幸福」による人生観は、ここに端的に言い表されている。
 もちろん、ここで「子孫」という言葉に注目して、二重革命(産業革命と市民革命)に立ち遅れ、ナロードニキ運動(青年層による農民への自由主義啓蒙運動)にも挫折した当時の帝政ロシアの知識人の態度を見出すことも可能である。
 だが、僕はあえて、この言葉に現代にも通じる普遍的な意味を考えたい。つまり、この世には実現可能な幸福など存在しないのではないか。もっと言うと、幸福とは、プラトン哲学でいうところの「イデア」、それも、「人生(人類)のイデア」なのではないか、という考察である。
 イデア論に軽く触れておくと、この学説は古代ギリシアの哲学者プラトンによって唱えられたもので、われわれが肉体的に感覚する事物・事象はすべて「イデア」という感覚不可能な真の存在の影にすぎない、という考えだ。たとえば、人は直線を作図する際、たとえ定規を用いたとしても、完璧な直線を描くことはできない。それどころか、コンピュータで出力しても、本来線分は面積をもたない一次元の存在であるから、完璧な直線にはなりえない——。そこで、「直線のイデア」というものが存在するとする。僕たちは、「直線のイデア」を頭の中で感覚することができるから、直線を用いることができるのだ。
 幸福とは、たしかに幅広い存在だ。ある人は風呂に入るときに幸福を感じるだろうし、ある人は戦争の終結に幸福を感じるかもしれない。だが、「幸福を実現する」という言い方をしたとき、はたしてそれは可能なのだろうか。風呂を出れば、また寒い夜が待っているかもしれない。戦争が終わっても、そこには荒廃した土地と精神が待ち受けているかもしれない。つまり、私たちが日常、あるいは人生で感じる幸福とは、鉛筆で描いた直線と何ら変わらないものなのかもしれない。もっと有体にいえば、完璧な直線が存在しないように、永遠不朽の完璧な幸福など、この世にはないのかもしれない。
 つまり、僕たちは、常に完璧な幸福を思慕しているのだ。ここで、前述のヴェルシーニンの台詞を振り返ってみよう。彼は夢見ている。完璧な幸福が約束された世界の到来を。だが一方で、あきらめの感情をも抱いている。
 作中で彼は、再婚して子供をもうけたはいいものの、妻のたびたびの狂言自殺に疲れ果て、同じく既婚者であるはずのマーシャとの恋に身を焦がす男として描かれている。そして、終幕では、連隊の移動にともないそのマーシャとも別離する。結婚、2度目の結婚、マーシャとの恋愛——。幸福の足音はそのたびに近づいたが、毎度姿を見せないまま踵を返してゆく。だからこそ、彼のこの台詞も切実な意味をともなって響いてくる。
 そしてもちろん、あらすじにあるように主人公の姉妹3人も、幸福を実現できないまま生き続けることとなる。いったいチェーホフは、この劇を通じて何を伝えたかったのだろう。
 僕が思うに、彼が伝えたかったのは、悲劇的な運命にあっても、なお、生き続け、働き続ける人間という存在の崇高さではないか。人間とは、この広大な世界に対しては矮小で、はかない存在だ。だが、そんな存在でありながらも、人は生きることの意味を求め続け、つましくも懸命に生活を送ってゆく。奥深い山地で、絶海の孤島で、雪に閉ざされた土地で、そんな人々がそれでも生活を営んでいる。その事実は、たしかに僕の生活をも励ましてくれる。そして、彼らが生きることを諦めずにいられるのは、幸福というイデアへの思慕があってこそなのだ。

 数年前、僕は『ドライブ・マイ・カー』という映画を観た。作中で、主人公の舞台演出家・家福(かふく)はチェーホフ『ワーニャ伯父さん』の演出を手掛ける。思えば、僕がチェーホフを知ったのは、この映画がきっかけだったかもしれない。この映画のラスト近く、舞台『ワーニャ伯父さん』のラストシーンを演じる場面は、いまだに僕の心に深い感銘を与え続けている。そこでは、家福演じるワーニャ伯父さんの過酷な運命に打ちのめされた様子に、姪のソーニャが(手話で)こう語りかける。

 ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう。運命が与える試練にもじっと耐えて。安らぎがなくても、今も、年を取ってからも、ほかの人のために働きましょう。
 そして、最期の時がきたら、大人しく死んでゆきましょう。そして、あの世で申し上げるの。あたしたちは苦しみましたって、泣きましたって、つらかったって。
 そうしたら神様は、あたしたちを憐れんでくれるわ。そして、伯父さんとあたしは、明るくて、すばらしい、夢のような生活を目にするの。
 あたしたちは嬉しくて、うっとりと微笑みを浮かべて、この今の不幸を振り返る。そうして、ようやくあたしたち、ほっとひと息つくの。
 あたし、そう信じてる。強く、心の底から信じてるの。その時が来たら、ゆっくり休みましょうね。

ドライブ・マイ・カー┃濱口竜介(監督)

 この言葉は、様々な苦難を経た家福たちへの救済の言葉のようにも思える。いずれにせよ、この浄土思想にも似たチェーホフの人生哲学は、彼の作品を貫く重要な主題であったようだ。
 彼の哲学では、常に「生きること」と「勤労」が表裏一体の存在として言及される。それはこの文章のはじめに引用した『三人姉妹』でもそうだし、『ドライブ・マイ・カー』のこの台詞からも見て取れる。「生業」という言葉があるように、生活と勤労とは切っても切れない関係にあるのだ。そのような点から、チェーホフの描く人々は、幸福への満たされぬ思慕を抱きつつ、勤労にこそ生きる道を見出していたといえる。

運命を「見上げる」のか「見下ろす」のか

 前述したように、サン=テグジュペリは20世紀フランスの人、チェーホフは19世紀ロシアの人だ。この2人に関連があったとは思えない。確かに、『人間の大地』と『三人姉妹』を並べて論ずるのはいささか突飛にすぎるかもしれない。だが、それでも僕が2作品を比較する価値があると思うのは、この作品間に、運命や人間に対する視点の大きな転換が感じられたからだ。
 それは、端的に言えば「見上げる」視点から「見下ろす」視点への転換であり、もっと具体的に言うと、「陸」の視点から「空」の視点への転換である。

 チェーホフは、人間の背負う運命の強大さを強調している。それは、『三人姉妹』で、登場人物のほとんどが悲劇的な境遇を迎えることからも明らかだ。作中で、運命とはいわば覆いかぶさる存在として描かれ、人々はそれを見上げることしかできない。運命とは動かしがたく、人知を超えた存在なのだ。これを空間的な比喩でいえば、「陸」からの視点と言える。さらに、この「陸」という視点は、『三人姉妹』に描かれる世界から理解することもできる。
 第1に、チェーホフの時代に飛行機は発明されていなかった。大きなターニングポイントであるライト兄弟の有人飛行は、チェーホフの亡くなる1年前の出来事だった。当時の人々にとって、世界とは(鉄道はすでに存在したが)地に足ついて初めて知ることのできる存在であり、俯瞰的な視点はまだ一部の知識人にしか備わっていなかったように思える。人々の生活は常に「陸」とともにあったのだ。
 第2に、当時のロシアの封建的な風土に着目したい。先に少し述べたが、チェーホフの生きた時代はロシアの改革の時代だった。彼が生まれた翌年(1861年)、農奴解放令が公布された。だがこの改革は、皇帝アレクサンドル2世の「下から起こるより、上から起こるほうがよい」という態度からも見てとれるように、国家的な統制のもとで行われた。農奴は領主から有償で領地を買い取る必要があった上、解放された農民は、村団という組織に所属させられ、国家に直接組み込まれることになった。彼らは依然「土地」ひいては「陸」という巨大な存在に縛り付けられ、自らの無力さを自覚するほかなかったのだ。さらにチェーホフが青年期を過ごす60、70年代には、「大改革」の不徹底やナロードニキ運動の挫折により、帝政ロシアの封建的・伝統的構造の根強さが浮き彫りとなった。
 こうした陋習が濃厚に残るロシアにあったからこそ、チェーホフは人間の無力さ、運命の強大さ、を自覚し、それでもなお生活し続ける人々に仄かな希望を感じ取ったのだろう。
 ただし、念のために述べておくと、チェーホフの、『三人姉妹』を喜劇とする主張を勘案してみれば、こうした悲観的な視点はチェーホフの最も伝えたかったところとは異なるかもしれない。これはは、新潮社版『桜の園・三人姉妹』の解説に詳しいが、彼は、運命に踊らされる人々の姿を、「滑稽な」存在ととらえていた。あるいは、作中に時代の変革を予感させる台詞が多々あることからも、彼はこの作品を改革の予感のもとで作り上げたことが想像される。そして、彼の予期した開かれた時代こそが、次に述べるサン=テグジュペリ的な「空」の視点を備えるものであるといえるだろう。

 『人間の大地』を読んで深く感じたのは、「人生とは人の手で切り拓くもの」というサン=テグジュペリの信念だ。ここにおける「人」とは必ずしも自分自身に限定されない。それは、「虐殺されたモーツァルト」の項からも読み取ることができる。彼は、子供たちの内なるモーツァルトを育て上げるために「庭師」が必要だと訴えた。美しい花を咲かせる小さな芽を慈しみ、手塩をかけて育て上げる存在が、社会に欠けていると彼は言ったのだ。それはもちろん、2つの大戦に直面し当時の社会だからこそ生れ出た考えともいえるが、この「庭師」の視点を失ってはならない。
 そして、逆説的に言えば、「庭師」が子供たちの才能を認めることで、子供たちの運命はいかにでも変わる。あるいは、前述したとおり、人は天職を得ることで自己実現の道が拓ける。サン=テグジュペリにとって、運命とは、(それなりの奮闘が必要ではあるが)人のコントロール下にあるものなのだ。このさい、運命という言葉よりも「人生」という言葉の方が適切かもしれない。いずれにせよ、彼は運命(人生)を「見下ろす」視点から眺めていた。
 この、「見下ろす」という視点は、まさにパイロットの「空」からの視点とも重なる。彼は『人間の大地』のなかで、この広大な地球、あるいは宇宙の中の、人間という存在の奇跡をたびたび強調する。砂漠地帯の広さや山地の急峻さを知る彼からすれば、人間がこの大地に生きていることこそが一種の奇跡なのだ。そうした視点は、人間の運命に対する希望的考察にもつながる。大地に生きる人間の奇跡を感じるとともに、彼はこの広大な大地に、人間の無限の可能性を見たに違いない。

普遍的存在としての「職業」

 注目すべきは、この視点の転換が、19世紀から20世紀という時代の転換とともに訪れたという点だ。封建的制度の崩壊、あるいは飛行機という産業の革命は、人類に人生を眺める新たな視点を与えた。では、インターネットやグローバル化に象徴されるであろう21世紀に、人はどのような視点を獲得するのだろうか。
 あるいは、こうした転換のなかに、変わらない存在もある。それが、「職業」すなわち、働くということだ。チェーホフもサン=テグジュペリも、真に生きるために、働き続けることを前提とした。思えば、人類がこの世界に生まれてからというものの、食糧獲得、賃金収入、美の追求など、その目的は移り変わってきたものの、勤労は、普遍的な存在として人々の生活の中心にあり続けた。生きる意味を考えるにあたって「職業」「勤労」といったキーワードは、きわめて重要な要素であり続けるだろう。
 一方で、現代社会において、どのようにして職業に生きる意味を見出すかは、明確に結論を出せない。チェーホフ的な悲観的な人生観であれば、どのような勤労にも人生の意義を見つけられるかもしれないが、まだ悲観的になりきれない僕がいる。なにしろ、この文章は、冒頭の通り備忘録、あるいは問いかけにすぎないのだ。なにも、ここで答えをひねり出す必要はない。
 大切なのは、「職業」という存在をおろそかにすることなく、「陸」、「空」をはじめとした、多様な視点で世界を眺め続けることだろう。

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