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ものごとは影響力のある誰かの主観によって左右されやすいという典型的な例


2016年に公開された『君の名は。』が、作者不詳の『とりかへばや物語』からヒントを得て制作されたという話は(一部では)有名です。

初耳だというひとには、もうWikipediaのページをそのまま読んでもらったほうが早いのですが、基本的な情報のところだけ引用します。


『とりかへばや物語』(とりかえばやものがたり)は、平安時代後期に成立した物語である。作者は不詳。「とりかへばや」とは「取り替えたいなあ」と言う意の古語。


関白左大臣には2人の子供がいた。1人は内気で女性的な性格の男児、もう1人は快活で男性的な性格の女児。父は2人を「取り替えたいなあ」と嘆いており、この天性の性格のため、男児は「姫君」として、女児は「若君」として育てられることとなった。

男装の女児である「若君」は男性として宮廷に出仕するや、あふれる才気を発揮し、若くして出世街道を突き進む。また、女装の男児である「姫君」も女性として後宮に出仕を始める。

その後、「若君」は右大臣の娘と結婚するが、事情を知らない妻は「若君」の親友宰相中将と通じ、夫婦の仲は破綻する。一方、「姫君」は主君女東宮に恋慕し密かに関係を結んで、それぞれ次第に自らの天性に苦悩し始める。そして、とうとう「若君」が宰相中将に素性を見破られてしまうことで、事態は大きく変化していく。

Wikipedia『とりかへばや物語』より引用


えっ?これって『源氏物語』みたいな平安ロマンな日本の古典文学?って思ったひと、ほぼ正解です。

『とりかへばや物語』は「作者不詳」なのですが、『源氏物語』に触発されてちょっと書いてみたら結構な長編小説になっちゃいました♪的な見方もあるようです。

では、この作品がこれまで一般にはあまり知られていなかった理由を知っていますか?

じつはそれもWikipediaにあるのです。


また、古くから読み続けられてきた作品ではあるが、近代の一時期批判的に扱われていた。明治時代の国文学史上では例えば藤岡作太郎から「怪奇」「読者の心を欺く」「小説になっていない」「嘔吐を催す」などと評される事もあったが、近年ジェンダーの視点から再評価された。

Wikipedia『とりかへばや物語』より引用


「藤岡作太郎?誰やねんそいつ」って思ったひと、わたしもそう思いました。

昭和生まれがまだ子供と若者しかいなかった頃には、こういうアタマが固くて古くさい明治生まれの偉ぶったおじさんがウヨウヨいたようです(歴史はくり返す?)


で、なぜ唐突に『とりかへばや物語』なんていうSFでもなんでもない物語を持ってきたかというと、その理由は「乞食」にありました。

じつはハインラインの作品に乞食(仮の姿だけど)が出てくる物語があって、それについて書くはずだったのですが、ふと「たしか乞食って禁止ワードじゃなかったっけ?」と思って調べてみたところ、noteに書いておきたいことがうじゃうじゃ出てきたので先にこっちを書くことなったのでした。


今度は『王子と乞食』です。


日本語訳は、1899年(明治32年)巖谷小波らにより『乞食王子』の訳題で文武堂から、1927年(昭和2年)村岡花子により『王子と乞食』の訳題で平凡社から公刊された。なお、題名の「乞食」が差別用語に当たるとして、近年の日本語訳(特に児童向け)は、「こじき」と平仮名表記したり『王子と少年』の表記もある。

Wikipedia『王子とこじき』より引用


『王子とこじき』は好きなお話だけど、Wikipediaにこんなこと書かれるぐらいなら、そのものズバリなタイトルじゃなくても良かったのに…。

どうせならもっと日本語オリジナルな「とりかえばや」みたいな言葉を使うとか、いくらわかりやすさが最優先の児童文学でも、もう少しひねるかアレンジするかしたタイトルにすればよかったのに…と、思ったわけです。

ここで『とりかえばや物語』に引っかかって、Wikipediaを読んでるうちにいろんな疑問が浮かんできたんですね。



SFに話を戻すと、じっさい古いSFの日本語訳タイトルは、原題とは別物だったりすることもあるのです。

このnoteで紹介した『レッド・プラネット』の旧題は『赤い惑星の少年』ですが、『ダブル・スター』なんて『太陽系帝国の危機』というダサダサなタイトルだったのですから。

そうかと思えばマーク・トウェインの作品は、原題『The Prince and The Pauper』をそのまま『王子と乞食』としています。
Pauperは「貧困者」で、だから少年は乞食をしていたのですが、これはこれでストレートすぎませんか?

昔も今も、日本語訳された作品の邦題のつけ方の基準はどうなっているんでしょうね?
ハインライン先生はこういうことまでご存知だったのでしょうか?
それに、きっと英語にも差別用語問題はあるはずで、この種の問題は作家本人のほうがずっと大きな関心を寄せていたはずだとと思われるのですが……。

「乞食」という言葉がなぜダメなのか、『乞食はダメでこじきならOK』というその根拠とは?
そもそも乞食という言葉の出典は仏教用語だったらしいです。
それを【誰がどういう理由で差別用語に認定】したのか、ネットでちょっと調べたぐらいじゃわかりませんでした。

さらには、「ただし、仏教上の乞食は活動が信教の自由に基づく」だの「僧侶による正当業務行為である」などという言い訳じみた説明も見つかりました。
「パフォーマーが投げ銭を求める行為もパフォーマンスに対する対価として支払われる点から適法」とか…はぁ?何いってんの?って感じのことまで書いてあったんですよね。

いったい誰がこういうことを決めたり明文化しているのか、本人から直接聞いてみたいと思ったのはわたしだけじゃないと思うのですが…。

お次はこちら。


ネット乞食(ネットこじき)とは、インターネット上のサービスを利用して以下のような行為をする人のこと。

生活費や娯楽費を目的としてホームページ(ウェブサイト)上で情報やサービスなどを一切提供することなくカンパを呼び掛けたり、プレゼントなどの提供を閲覧者に請う行為。実社会の乞食行為になぞられた用語である。
海外では路上のホームレスがインターネット上に拠点を移す例もある。
他人の著作物を無断転載し、広告バナーやアフィリエイトを併記することで金銭を得ようとする個人(アフィリエイト乞食とも)

Wikipedia『ネット乞食』より


「ネット乞食」なんて、十中八九まで21世紀になってからのワードの可能性大ですよね。
一部のネット民にあまり言葉を選ばない人々が多いのは事実だけど、だからといってWikipediaで普通に使われているのはすごく違和感があります。

たとえその言葉が『ネット民がネット上でしか使わない』からという理由で、スルーしてよしと判断されたのだとしてもちょっと納得できません。
どこで誰が使おうと差別用語は差別用語ですから。

もし乞食が「差別用語」だとして使用禁止ワードに認定されたのなら、ひらがなの「こじき」だってダメなはずです。
ひらがなならOKというのでは、「言葉」じゃなく「漢字の問題」だということになりますよね?

ならば差別用語とされた問題の焦点は、漢字の『字面』や『見た目の雰囲気』にある、ということなのでしょうか?
ますますわけがわかりません。



残念ながらこういう類いの疑問は、時間と労力を費やして答えを見つけようとしても、骨折り損に終わることのほうが多いものです。

だからこれから書くことは、わたしの推測(妄想)だと先にお断りしておきます。


ある物語が明治以降、正しく評価されずにいた理由として考えられるのは、『とりかへばや物語』を主観的に「小説になっていない」とか「嘔吐を催す」などとして批評する価値もない作品と決めつけた、明治時代のおじさんやそのお仲間のせいだと思うのです。

このおじさんが当時の文壇か文学界の重鎮だったり、重要人物だった可能性は高く、公的な場で意見したり、議論をする際の発言力や影響力を持っていたと考えればどうでしょうか。

それまで昔からずっと読まれ続けてきた古典文学が、それを「気に食わない」と思う人物の鶴のひと声で、論評にも値しない作品として埋もれかけたわけです。

もしそうならば、この問題の根本にあるのは作品の内容でも歴史的意義でもなんでもなく、単に『明治のうるさ型おじさんの個人的な好き嫌いにあった』という結論になってしまいます。

このことをふまえて考えるなら、おそらくは差別用語の場合も、似たような背景やそれに近い事情が関係している可能性があると考えるのが妥当だと思われます。


乞食を差別用語とするならば、「こじき」も「物乞い」もまた同様でなければ意味がありません。
では、物語の登場人物の職業が差別用語となってしまったら、一体それをどのように形容、表記すればいいのでしょうか?

Wikipediaで調べてみるまで知らなかったのですが、『日本において乞食行為は、日本国憲法第27条のもと、軽犯罪法や児童福祉法で禁止されている 』そうです。

では登場人物の説明には『日本国憲法第27条のもと、軽犯罪法や児童福祉法で禁止されている職業』の従事者、と書けばいいのでしょうか?
ハインラインはアメリカの作家なので、確実に日本の憲法や法律なんか気にしてなかったと思いますけど?

結論。『ふざけるな!』と思ったのはわたしだけではないはずです。
でも世の中って、こういうことが多すぎるんですよね。


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