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暗黒のニート時代 - リアル脱出ゲームに至る道

前回書き忘れたのだけど、会社を辞めた理由はフィッシュマンズのボーカルの佐藤伸治が死んだことも大きな理由だった。
学生の頃から狂ったようにフィッシュマンズを聴いていて、ライブが関西であれば必ず足を運んだ。
ライブでの一体感はすさまじかった。狂ったように身体を揺らしながら音が入ってくるのを感じていた。
すべての音に意味があって、どうしてもそこになくてはならない音楽だった。
会社を辞めようかどうか迷っていたときに突然佐藤伸治が死んだというニュースが流れてきた。
もうフィッシュマンズの音楽は聴けないのだと思った。
待っていてももうすばらしい音楽は鳴り出さない。
ならば僕がつくらなくてはならない。
フィッシュマンズ以上に心を動かす音楽を、僕が。
そう思ったとき、会社を辞める決心が明確についた。



会社をやめてそこから暗黒のニート時代がはじまる。
24歳で会社をやめた僕はそこから5年間ぼんやりした生活を送る。
今から思うとなんで5年もぼんやりできたのか。信じられない。
親も特に文句言わず僕を眺めてた。
正確に言うとまったく何もしなかったわけじゃない。途中で契約社員になったり、編集プロダクションで働いたり。
まあとはいえ、基本的には根無し草みたいな生活がはじまって、無職になって、不安に包まれた日常がはじまり出します。

この5年間はもうめちゃくちゃに怠惰で。

最初の一年は本当に何もせずにごろごろしてギター弾いて、ライブやって、酒を飲んで貯金を少しずつ食いつぶした。
曲は作ってたけど、就職していた時期のほうが良い曲がつくれていた。身近に強いプレッシャー(仕事)があるほうが深く潜って良い曲がつくれたのかもしれない。
毎日ダラダラと彼女と遊んだり、ライブハウスでお酒をおごってもらったり、中古ゲーム屋で買ったゲームをしたりしてた。漠然とした不安は常に身体に纏わりつくみたいにあったけれど、特に不足は感じなかった。
欲しい本が好きなだけ買えないことだけが少しつらかったけど。

ライブ録音をテープにダビングしていくつかのレコード会社に送った。
良い返事が来るのを待ったけれど、良い返事は来なかった。
ごくまれに「個性的な楽曲だけどボーカルが力不足」みたいな一行だけの感想が書かれた返事が来たりした。
まだこの頃は郵便で返事が来る時代で。
僕は明け方に眠って昼過ぎに起きていたのだけど、郵便屋さんが郵便を届けてくれる音がガタンと玄関からすると、レコード会社から連絡が来たのかもしれないと思って見に行った。
そしてほとんど毎日うちひしがれて玄関から立ち去った。
当たり前だけどレコード会社からの連絡は来なかった。
ごくまれに来る返事は「厳正なる審査の結果選ばれませんでした」と書いてあった。
身体から残っている熱が少しずつ消えていくような感覚だった。
また選ばれなかった。
理由もわからないまま選ばれなかった。
なにに向かってがんばればいいのかわからなかった。
ものすごく間違った場所に向かって進んでいるのかもしれない、という不安を必死で否定し続けた。

そんな日々が何年も続いた。

一度だけYAMAHAの新人発掘担当の人がライブを見に来た。
僕は人生を変える日かもしれないと思って必死でライブをした。
彼がライブ後に言った感想は「君は目がちょっと怖いから帽子かぶったりしたほうがいいな」だった。こいつ何しに来たんだよ、と思ってむかついて喧嘩した。
音楽の感想は一言も言わずに帰っていった。

なにして時間をつぶしてたのかよく思い出せないけれど、そういえばしょっちゅうパチンコに行ってた。
目が覚めて最初にすることはパチンコに行く時間を決めること。一度行ったら6時間とかはいたと思う。
完全に依存症だった。
勝ったり負けたりだったけど、まあそりゃ負けるほうが多かった。
貯金はほとんどパチンコに消えていったんだと思う。
とにかく狂ったように行っていた。
狂ってたのかもしれない。
負けたら悔しいからまた行く。
勝ったらうれしいからまた行く。
何千回も「次で最後にしよう」と思って行くんだけど、いつまでもその最後はやってこなかった。

2年ほど経ったら貯金が尽きたので、新聞の求人広告を見て、ちょっと興味があった雑誌を作る仕事をし始めた。
リクルートのホットペッパーという雑誌の仕事をしてたけど、最初の三か月だけ研修として15万円もらって、翌月からは基本給5万円になり、それプラス歩合制だった。
営業に行って契約出来たらそのお店の写真を撮って宣伝の文章も書く。
前の会社を辞めるときに「これからは自分の作品以外では稼がない!」と誓ったけれど、この雑誌の仕事は一応自分で書く仕事でもあったからぎりぎりセーフってことにした。
でも結局ちっとも働かなかった。
働けなかった。
週に一回朝10時から全体会議が行われたけれど、それも寝坊してほとんど行けなかった。営業もまあ週に一回くらいはふらっと出かけて目についたお店に入ったりはしたけれど、それもほとんどうまくいかなくて、まあなんかほんとひどかった。
でも何も結果を出せなくても5万円もらえるのは正直うれしかった。
5万円あれば全然生きていけた。
実家に寄生して生きていた。

リクルートは明るい会社で、そこに所属することは結構楽しかった。
社員はみなやる気に満ちていて、明るく社交的だった。
毎月ちょっとした飲み会があって京都営業所の30人くらいで飲んだ。
社員と契約社員とバイトがいて、みんなが和やかにのびのびと仕事しているように見えた。
みんなで旅行に行ったりもしたし、仲良かったんじゃないかな。いろんな働き方があって、いろんな契約の仕方もあって柔軟だった。
営業マンのための講習会みたいなものも頻繁に行われていて、僕もそこで名刺の渡し方や飛び込み営業の仕方やその他のさまざまなテクニックを教わった。

一方この頃はハラッパカラッパという学生時代から続けていたバンドをぬらぬらとやってた。
結局音楽は一度もやめなかったな、そういえば。
コツコツ活動していて、なんとなく京都でライブすれば30人くらい集まるなあってくらいにはなってた気がする。
ライブが終わった後にライブハウスの店長さんに「お前らはもっと世の中に出ていくべきだ」みたいなことを言われてその気になったりもした笑。
一回ごとのライブに一喜一憂したり、いい曲ができたと喜んだり、アレンジがうまくまとまらずバンドが険悪になったり。
この頃からはちょっとしたツアーにも出たんだった。
名古屋に呼ばれて行ったり、大阪でも定期的にライブを始めたり。
そんな中で、沖縄芸術大学の学生さんが僕らのことを学園祭に呼んでくれた。
じゃあそのついでになんつって、ライブハウスでのライブもブッキングしてもらった。
格安チケットで沖縄に飛んで明日がまず学園祭でのライブって時に、せっかくだから路上で宣伝ライブなどをした。
当時のバンド編成が、ギターボーカルの僕と、パーカッション、アコーディオン、ベースっていう編成だったので、ベースの奴はその辺でアコギを借りて、国際通りの道端で演奏した。そしたら意外と人だかりが出来て、おおなんだなんだと。ちょっとしたお小遣いをもらったりもして、その金でみんなで飲んだ。バックパッカー向けの安宿に泊まってたんだけど、そこに止まってた人たちも翌日の学園祭には「いくよいくよ」などと言ってくれてやけにいい感じだった。
学園祭は広大な広場にポツンとあるステージでやったので、ガラガラ感はあったけれど、それでも200人くらいは見てくれたんじゃなかったかな。路上ライブを見て気に入ってくれた人たちも見に来てくれて。
みんなが指笛で応援してくれたりして。なんか沖縄だった。

それでその翌日のライブハウスでのライブもこりゃうまくいくぞと思ってたんだけど、ライブのスタート時間になっても一人もお客さんが来ない。その日は三つバンドが出るうちの僕らは三番目だったのだけど、とにかくお客さんがゼロで。ゼロってどういうことだ。しかしもううんざりするくらいゼロだった。
さらに不思議なのはお客さんがいないだけではなく、出演するバンドすらいなかった。時間になってもちっともライブがはじまらない。どういうことだとお店の人に聞いてみたら「ライブはお客さんが来たら始める」とのこと。
そんな話があるのかとは思ったが、これも沖縄の流儀なのかと一旦納得はしてみた。
しかしライブはちっとも始まらない。対バンの人たちは来ない。来てもちらっと顔出してお客さんがいないのを見るとどっかに言ってしまう。まじか、すげえなと思っていたら、ぽつぽつとお客さんが入ってきて、なんか飲み会みたいなものがはじまりだす。
結局二時間くらい遅れて一つ目のバンドの演奏が始まった。
そのころは10人くらいのお客さんだった。まあこんなもんかあと思っていたけれど、お店の人は「もうすぐバスが終わる時間だからそれに合わせてもう少し来ると思うよー」と言い出した。そんなことあるのか。終バスで帰るのではなくて、終バスで出かけるのだ、みんな、自由だ。素敵だ、と思った。

23時ごろになってやっと僕らがライブを始めるときはライブハウスは超満員で60人くらいの人たちがひしめき合っていた。そしてすごい盛り上がりだった。なんというかそれはすごく幸せな時間だった。

で、そのライブを見に来ていた沖縄のIT企業に勤めている青年から誘われてブログを書き始めることになる。
ブログは結構がんばって書いてた。それが2001年の出来事。
https://keeponmusic.com/katotakao/

このブログはここ数年はあまり更新してなかったけど、15年間くらいはこつこつ書いてた。膨大な量のテキストがある。感情のゴミ捨て場みたいに見えるかもしれないけれど僕には大切な場所だった。

無職のころに曲を作ることと、ブログを書くことと、お酒を飲むことと、パチンコの他には何もしなかった。

ひとつ強烈に覚えているエピソードがあって。

そのころちょっとした文章を書いていて、それをどこかに応募しようと思っていた。
だけど、自分が書いた文章をパソコンのディスプレイで見るとよく推敲できなかったので、一度プリントアウトして読んでみようと思った。プリントアウトしようとしたけれどA4の紙がないので買いに行こうと思ったがそれはもう深夜の3時とかだった。じゃあもう無理かと酒を飲んで明け方に寝た。
翌日目が覚めたのは昼過ぎで、ボーっとしてて、今日もすることないなーなにしよっかなーと思っていて、ああそうだA4の用紙を買いに行くのだと思い出したのが夜の12時とかで。ああまた今日も紙を買いに行けなかったなあと思って酒を飲んで寝る。翌日も目が覚めたら昼過ぎで、またぼーっとしてたら文房具屋さんの閉まる時間になっている。みたいなことを一週間くらい繰り返した。
A4の用紙を買いに行くのに一週間かかった。
ようやく買ったA4の紙に印刷された僕の文章は別に全然よいものじゃなかった。
自己憐憫に満ちた地面をひっかくような文章が綿々と綴られているだけだった。

あの時霧のかかったような頭の中で「これはさすがにいよいよまずいかもしれんぞ」と思った。生活のリズムがおかしくなりすぎていることと、記憶障害みたいなのが起こってることと、とにかくもう体が動かなくて外に出ることが億劫になりすぎていて、生きていく理由みたいなものが目減りしているように思えた。明日に望むことが何もなく、何かに携わる理由もなく、そこには生きるために生きる以外に何も残っていなかった。
死なないために生きていた。

これは二つの作用を僕に及ぼした。
一つは自分の愚かさとだめさに打ちのめされて何もできなくなるという悪循環。どこにもたどり着けず、たどり着く方法もわからなくなるうちに「たどり着きたい」とすら願わなくっていった。
その渦の中心にはよどんだ闇しかなくて、覗き込むと吸い込まれそうだった。

二つ目はそれでもなお死を選ばなかった自分への安心感みたいなもの。
こんな状態でも死にたくならずちゃんと三食食べてる俺ってすごいなーみたいな。
生きるために生きてた。
それって実はすごいことなんじゃないか?
死なないために生きるって生き延びる理由として最強っていうか、成功のために生きるのでも幸せのために生きるのでもなく、生きるために生きるのであれば自ら死ぬことはまあねえだろっていう自信みたいなものが謎に芽生えた。
最底辺まで沈んだからこそこっそり持ち帰ることができた哲学だった。
まあ僕が沈んだ最底辺など、傷つきやすい青年が自己愛のもとに沈んだ気になった浅い大陸棚だったのだと今は思うけど、それでもそのささやかな砂金みたいな哲学はその後も僕に力を与え続けたし、僕がその後何かを作り続ける原動力にすらなったと思う。

このころはお金を稼ぐというよりはつかわないという方向にすべてがシフトしていってた。
オシャレなんかする気は一切なかったし、服なんか少しも欲しくならなかった。あまりに服がぼろぼろすぎたら、ライブの前にときどき買ったかなあって感じ。
外食など一切なく、お酒は量販店で買って鴨川のほとりでみんなで飲んだ。もしくは誰かの家で酒盛りした
それでもずっとイライラしていて、結構やな奴だったんだろうなとは思う。バンドメンバーには当たり散らして、彼女にもよくイライラをぶつけた。
このころはインプットもほとんどしていない気がする。
新しくマンガを買ったり本を買ったり映画を見たり旅行するお金もなかったので、時々レンタルビデオをみるとか、友達から借りたゲームをやるとか。
古本屋と中古ゲーム屋にはしょっちゅう行ってたな。なるべく安く時間つぶしのできるコンテンツを探していた。
フレンズっていうアメリカのコメディが好きだった。
ゲームも時々FFやドラクエの新作が出たらやる程度。
あとは繰り返し同じ本を読んでた。村上春樹とかポール・オースターとかボリスヴィアンとかなんかそういうやつ。

音楽はフィッシュマンズのボーカルの佐藤伸治が死んだあと何かをちゃんと聴いてファンになった記憶がない。
フィッシュマンズ以降にミュージシャンを心から好きになったことはない気がする。
ボ・ガンボスも好きだったけど、このころボーカルのどんとが死んで、自分が好きになるとボーカルが死ぬんじゃねえかとか思ってた。あとは忌野清志郎とかソウルフラワーユニオンとかのライブには行っていた。
今振り返ると僕は自分で作って人前で披露するっていう意味では音楽をとても愛していたけれど、リスナーとしては少しも成熟しなかったし、研究者にも探究者にもなれなかった。
音楽を分析することもなかったし、売れてるやつらはみんな汚い手を使って売れてるんだとすら思っていた節がある笑。
自分に何が欠けているのかを省みることはまるでなかったし、自分の強みがなにかもわかっていなかった。
だから戦略なんか立てられるはずがないし、無駄にイライラと尖っていたから、それを忠告してくれる人も周りにはいなかった。
僕は誰に教えられるでもなく、誰に促されるでもなく、まったく誰にも求められていない音楽をひたすら毎日作り続けていた。
そして半年に一回くらいライブを適当にMDで録音して、その音源をいろんなレーベルやレコード会社に送り付けた。
レコーディングなんかお金がないからしたことがなかった。
ライブ音源をパッと録音して送ればそれでいいと思っていた。

まあそんなふうに引きこもってダメダメになりながら日々を生きるために生きていた僕に転機がやってくる。
それは思いがけないことだったけれど、決定的だった。
そのころ、日本でいくつかの哀しい事件が起こった。
犯人は30代無職の男性だった。
連日そのニュースがテレビで報道され続けた。
その時僕は28才だった。
もうすぐ30代無職男性に自分がなることに恐怖した。
自分は社会から無視されるだけの無意味な存在ではなく、社会に対して有害な人間になろうとしている。
そんな不安感が強烈に襲ってきた。

それがたぶんきっかけだった。
耳の奥でパチンと何かがはじけて、動き出すための合図のような気がした。
そこまでにも何かが少しずつコップにたまっていっていたのだと思う。
その時やっていたハラッパカラッパというバンドは少しずつだけどお客さんの数を増やし、ブログでは少しずつリアクションも増えてきた。
少しずつできることが増えていく中で、外に出る自信みたいなものを蓄積したのだと思う。
そしてなにより「外に出なくてはならない」という不安も蓄積されていた。

ブログが僕と世の中を繋いでいた。
更新するとぽつぽつリアクションがあって、それがすごくうれしかった。
バンドのコアなファンがコメントしてくれるだけだったんだけど、それでも。
そんな風に文章を書くことを仕事にできないかなあと思うようになってきた。
そんなことを周りに相談していると「じゃあ編集プロダクションを紹介してあげるよ」と言われて、出会ったのがTさんという太ったおじさんだった。
このおじさんから文章を書く仕事をもらったり、しながらまたずるずると生きていくんだけど、その話はまた今度。


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