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予測からの逸脱:どう生きるか、自分で考える

私たちはすぐ目の前のこと、少し先のこと、そして将来のことを、ある程度考えながら日々を過ごしています。先のことを予測する能力を私たちは持っています。予測から外れた時にはそこから対処したり、次の予測のために学習したりするために感情が動くようになっているようです。

そして、予測が大きく外れることを嫌うため、私たち自身の行動も、過去のパターンに束縛されやすくなっています。ある程度慣れてしまったことを変えようとすると、予測からの逸脱とみなされて、感情的な抵抗感が湧き上がってきます。

私個人としては、このメカニズムを理解して、自分の心を管理できるようになりたいと考えてきました。頭で考えた上で、従うべき時は心に従い、変えるべき時は変えていく。そうやって自分の生き方を決められるように、工夫をしてきました。

この記事では、予測能力から見た脳と身体、そして理性と心について、私の解釈を説明した上で、それを生き方に結びつける工夫について書こうと思います。

■脳の役割としての予測

知能は予測をすることが大きな役割です。

予測が大きな役割ですので、予測と現実がずれた場合、脳は強く反応をします。ネガティブな反応だけでなく、ポジティブな反応もあります。

ネガティブな反応の例は、以下です。

予め予測できている衝撃では、あまり痛みを感じません。しかし、予測していない不意の衝撃には、激しい痛みを感じます。

止まっているエスカレータに乗ると、バランス感覚が崩れて違和感を覚えます。

ポジティブな反応の例は、以下です。

複雑な動きをするものを使った遊びやトレーニングは、楽しいものです。例えば、サッカーボールのリフティングや、テニスの壁打ちなどは、ある程度慣れてきてもなお予測のつかない動きをします。それが楽しくて夢中になります。

こうした遊びやトレーニングを通して、身体的な学習が行われます。予測とのずれが学習に結びつくものは、脳がポジティブな反応を示すのかもしれません。

小説や、映画、お笑いなどのエンターテイメントは、予測からのズレによって面白さが成立している面があります。これも、人間や社会の事を学習する機会として、脳がポジティブな反応をしていると解釈できるでしょう。

■予測のズレと感情

予測と現実がずれた場合、脳の中に感情を誘発する物質が出ていると考えられます。この種類によってポジティブとネガティブが区別されます。

放出された脳内物質が、痛みや驚きを強調し、感覚を増幅させる効果があるのだと思います。それが同じ衝撃でも痛みの感じ方が異なる原因でしょう。

また、脳の神経細胞が、予測と現実のズレを利用して学習をします。脳内物質が伴う事で、この学習の強度が上がると考えられます。

■予測からの逸脱

予測する役割を持つ知能は、自らの行動も予測しています。繰り返し行って慣れている行動は、予測を利用して無意識に行うことができます。

この時、あえて自らの普段の行動とは異なる行動を意図的に行おうとしても、大きな抵抗を感じます。たとえ、普段と異なる行動を取ることが、自分の幸福や価値観に対して合理的な選択であったとしても、抵抗を感じます。

これは、慣れている行動を変えたくないという慣性的な心の作用と理解されていますが、予測している自己を変えることが難しいという解釈もできます。

つまり「予測からの逸脱」であることが、抵抗感の原因であるという考え方です。予測することが脳の大きな役割であるため、自ら予測と異なることをすることが脳は嫌いなのです。予測がつかなくなるため脳を不安にさせるのかもしれません。

これは、他者が「予測からの逸脱」をした場合にも、怒りや悲しみなどの激しい感情が湧き上がることと同じ仕組みと言えます。たとえ自分が直接的に被害を受けていなくても、予測していた規範的な行動から相手が逸脱すると、裏切られたと感じます。有名人のスキャンダルの多くは「予測からの逸脱」でしょう。

■予測からの逸脱と「心」

合理的な思考は、純粋に脳の神経細胞のニューラルネットワーク上でのシミュレーションに基づいて行われます。いわゆる理性です。

一方で予測は、頭だけで行っているわけではありません。身体も、予測を行っています。生物は、神経細胞を獲得する以前から、身体的な予測を行う事で生存能力を高めてきました。人間も、脳のような神経系だけでなく、身体系における予測も行っていると考えられます。

この身体系を含めた予測を逸脱することは、合理的な理性での判断だけでは難しいのです。予測からの逸脱に対して、身体的な抵抗を受けることになるためです。逸脱に対して身体性を含めた反応が「心」の作用だと考えられます。

たとえば、私は近道をしようとしていても、そこに花が咲いていれば踏まないように避けます。その代わりに、花の咲いていない草を踏みます。私の心は、草と花を、明確に区別してしまっています。

どちらも平等に生きている植物だと、頭では理解できています。しかし、花を踏むことが、どうしても私にはできません。想像だけで、心が痛んでしまうのです。

■イメージの堆積としての心

花を避けるイメージが、私の中に定着しています。これまでの経験、慣習、絵本や物語、周囲の人たちの行動や言説など、それを見聞きして、花を大切にするべきだというイメージを持っているのです。

誰も見ていなくても、その花がやがて枯れるとしても、同じです。イメージの中の自分を逸脱できないのです。

こうした数々のイメージが私の中に堆積しています。これが、私の心を形成しているようなのです。

■どう生きるか

あくまで私自身の場合ですが、自分の心をできるだけ自分の理性で正しく管理したいと考えています。私は、現実主義者、実用主義者です。このため、理由のなく何かを尊重したり価値を置いたりするよりも、自分の人生にとってプラスになるような物事に価値を感じます。このため、自分の心も、理性によって正しく管理したいのです。

従って、心が抵抗しても、合理的に私の人生のために正しいことであれば、その選択を選べるようにすることが、私にとっての理想です。そのためには、私は、私の心の仕組みと働きを理解する必要があります。

私は、自分の心をないがしろにするつもりはありません。文化や慣習、周囲の人達から教わったイメージの堆積である心の中には、理性で合理的に考えても、自分の人生のためにプラスになることが多くあります。

周囲の人に思いやりを持って接すること。健康に良いものを食べること。楽しいと思えることに時間やお金を使う事。これらは私の心にフィットしていますし、合理的に考えて自分のプラスでもあります。

説明責任を果たすことが大切です。無闇に変える必要は全くありません。花を踏むことができる人になる必要などありません。私がそんな人になったら、周囲の人は悲しむでしょう。だから私は花を避けて歩きます。

心の声をただ素直に聞くのではなく、きちんと合理性を持って、理性と心、頭と身体、そして私の人生を、私の意志で形作りたいのです。

■予測からの逸脱の練習

もちろん、自分の人生のために必要な部分は変える必要があります。

臆病で引っ込み思案な性格でしたが、人生にマイナスにならないように、理性で管理できるように努めてきました。そのためには、心の抵抗に打ち勝つ必要がありました。

若い頃のある時期、ちょっとした習慣を変える練習をしたのです。普段は選ばない明るい色の服を買う、食堂の真ん中のテーブルに座る、店員さんに笑顔でお礼を言う、落ちている空き缶を拾う、などなど。

誰にも迷惑をかけることはありませんし、むしろ良いことも含まれています。そう頭ではわかっていても、抵抗を感じるようなちょっとした選択をあえて行うように心がけました。今思えば、予測からの逸脱をする練習です。予測からの逸脱に、心を慣れさせたのです。

こうすることで、少しずつ自信を持つことができ、心の抵抗を乗り越えるコツを掴むことができました。

■さいごに

この記事では、脳と身体が、それぞれ調和的な予測能力を持っているという解釈を紹介しました。そして、予測と現実のズレが感情の反応を生み出したり、自ら逸脱することが心理的抵抗を生じさせるという経験的な観察について書きました。

私は、合理性に囚われすぎると、結果的には非合理になってしまう恐れがあると考えています。自分の目先の利益を追うと、長期的には損をするものです。また、自分の心に素直になる事は大切ですが、心にばかり信頼を置きすぎると、周囲の人との乖離につながってしまう恐れもあると思っています。理性も心も、人生を豊かにするためにバランスよく活用すべき能力だというのが、私の考えです。


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