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「立憲共産党」批判は時代遅れだ

おはこんばにちは、断じて立憲民主党の仲間になるつもりがない、渡邉坊です。

今回は、本日否決されました「内閣不信任案」について、見解を述べてまいりたいと思います。

まず、内閣不信任案とは、言葉通り、内閣、つまりは現在の岸田内閣を信任しない(支持しない)ことを決するための決議案であります。

細かい説明は避けますが、賛成多数であると、内閣が退陣になったりもします。そのため、伝家の宝刀などとも言われて、野党として、政権を倒すための切り札であると認識されています。

会期末の恒例行事

しかし、この内閣不信任案には批判も多くあります。というのも、可決の見通しが立たない状況の中で、数に劣る弱小野党がこれを打って、数で優れる与党によって、そのまま否決されるということが目立つからです。

もうすぐ参院選挙ですが、そのアピールとして利用しているんじゃないかと思う人も多くいます。

可決になる見込みもないのに内閣不信任案を打つのは、「税金の無駄遣い」だとか、「サボり」だとか、「選挙目当てのパフォーマンス」だとか、すこぶる印象が悪いのが、この内閣不信任案です。

維新、国民民主の「反対」

そして今回も、結果的には内閣不信任は否決(岸田内閣の信任)となりました。
まさに先述の通り、結果的には岸田内閣を倒す効果はなかったわけですから、今回の内閣不信任案提出は無駄足であり、所詮はパフォーマンスに過ぎなかったと断ずることも不可能ではないと思います。

また、野党である維新の会や国民民主党も、今回の採決では「反対(内閣の信任)」に回っており、賛成したのは立憲や共産などを代表する、いわゆる「左派野党」しかいないことから、野党間連携の不備が際立った結果ともなりました。

構図の三極化

これにより、構図は明確になったと見ることもできるかと思います。
政権批判のパフォーマンスに終始する、「立憲共産党」と、自民公明の「連立与党」、そして、パフォーマンスには与しない「新しい野党」である、維新と国民民主党の3ブロックです。
新しい野党を期待する人としては、歓待すべき事態なのでしょう。

ここまでが、常識的な見解

という上述の見立てが、多くの人が考える、今回の内閣不信任案に対する見立てであり、常識的な見解であると思います。

しかし私は、ここでは止まらない。
常識を踏まえつつも、未知なる境地を探求するのが、この私であります。

内閣不信任案の「共同提出」

まず、私の真の見解を語るうえで、欠かせない前提条件があります。
それはかつて、立憲民主党が内閣不信任案を出す際に、他野党との「共同提出」をしていた面であります。

この記事にもある通り、この当時の立憲民主党も内閣不信任案を提出していましたが、それは「共産党」を含めた共同提出でありました。

この一点において、この当時の立憲民主党は共産党との協調を図っていたことは明白であり、野党共闘の深化を示す、絶好の根拠となると思います。

内閣不信任案の「単独提出」

しかし今回はどうでしょう。立憲を批判する人の中で、この点を言及する方は少ないように見えますが、今回の立憲民主党は、「単独」で、内閣不信任案を提出しています。

「採決は共産党と同じく「賛成」じゃないか」という風にお感じになる方もいるでしょうが、それはそう、「結果としては」立憲は共産と「内閣不信任案賛同」で一致しました。

しかし本質的には、昨年の内閣不信任案提出と今回の内閣不信任案とでは、事情が全く異なります。
昨年の内閣不信任案が「立憲の共産依存の象徴」ならば、今回の内閣不信任案とは、「立憲の脱共産化の象徴」であるかと思います。

共産党との一致は「結果」に過ぎない

まず過程として、立憲民主党は共産党を含む他野党に「共同提出」の呼びかけを行いませんでした。これはまさに、今回の内閣不信任案とは、立憲民主党の主体的なアプローチであることを示すものかと思います。

共産党と仲良くしたいからとかではない、立憲がそう思っての、「単独提出」というわけです。共産が同じく賛同に回ったのは、あくまでも結果としての話であって、立憲としては、共産の賛否に関係なく、不信任案の提出を行ったものであります。

微々たる変化ですし、小さな一歩です。
しかし立憲としては、かつてのように、共産を含む野党との共同提出に踏み切らなかったのは事実であって、野党共闘の退化を示していることは、火を見るよりも明らかであると思います。

それがどうした?

しかし、その程度の変化がどうしたと思う人がいるかと思います。
それもまあ、理解できます。
変化とは言っても、微々たる変化でありますし、素人目には違いなどは分からない程度の、か細い変化です。

あなたの立憲批判に矜持はあるか?

しかしこれまで、立憲民主党に対して、共産党と同化していることをもって「立憲共産党」などと批判が飛び交ってきました。

その中で、いくらか細くても、いくら小さな一歩でも、立憲民主党が共産からの脱却の兆しを見せ始めたことはまさに、期待通りの変化の傾向があるということです。

むろん、個々人の批判のスタンスは自由ですが、いままで批判してきたこと対して、少しずつ変化の様子が見られる以上は、それを頭から批判するのは、批判者としての矜持に反するものであって、まさに立憲民主党に対する「批判のための批判」ではないかと私は思います。

以上、私の見解を述べさせていただきました。

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