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「民主集中」は共産党だけの問題なのか?

こんにちは、ぼ-です。
久しぶりのnoteとなりますが、今回のポイントは「民主集中」です。

共産党の代替わり

先日、日本共産党の委員長が代替わりを果たし、田村智子新委員長が誕生しました。
田村氏と言えば、共産党の閉鎖的な体質を改善してくれるのではないかと、期待していた方も多かったように思いますが、その期待は裏切られてしまいました。
彼女もまた民主集中の影響からは逃れ得なかったのです。
彼女が党大会で行ったのは異端に対する公開処刑と言えるものでした。

そもそも、彼女が民主集中からの脱却を図るような人物なのであれば、彼女が委員長に選ばれることは無いと思いますし、仮に脱却を口にしようものなら、彼女は委員長の座から引きずり降ろされるのではないかと思います。

彼女もまた民主集中の操り人形として委員長という役割を負わされたにすぎないのです。

共産党は確かに問題だが……

ただ私は、共産党を批判したくて記事を書こうと思ったわけではありません。
この共産党の問題は確かに問題ですが、私としては優先度が低いと考えています。
別に、共産党が好きでそう言っているわけではありません。
確かに民主集中は問題ですが、共産党の理屈は一貫していると思うからです。

最も大きいのは、共産党は政党助成金を受け取っていないという点です。
政党助成金というのは間接民主制という文脈において機能している制度であるわけですが、共産党はこの受け取りを拒否しています。

公器であることの担保としての政党助成金

政党助成金は、毎年約320億円の税金を各政党で山分けする仕組みです。国民は支持していない政党にも強制的に寄付をさせられることになり、「思想の自由」を踏みにじる憲法違反の制度だと日本共産党は考えています。

もっと日本共産党/政党助成金なぜ受け取らない?/国民本位の政治貫くため (jcp.or.jp)

共産党の言葉を借りれば、政党助成金とは支持していない政党に対しても寄付を強いられる制度です。

間接民主制の考えにおいて、国政政党とは公器としての性格を持ちます。
政党は支持者や党員だけの私物ではなく、公の為に身を尽くすことを求められるわけですが、その担保が政党助成金であるわけです。

政党は支持者以外からもお金を貰っているわけですから、支持者以外からの批判を甘受する必要がありますし、支持者や党員の視点だけで党運営を行うことは間接民主制の原則からは逸脱する振る舞いと言えます。

共産党の理屈は一貫している

しかし共産党は、そもそも政党助成金を受け取っていません。
担保を受け取ることを拒否している以上は、共産党の党運営に公の価値観を持ち込むこと自体がお門違いとも言えます。

あえて断言します。
共産党は政党助成金を受け取っていないのだから、民主集中から脱却する必要性は無いのです。
政党助成金を受け取ったうえで民主集中をやっているならば問題ですが、そうではない以上、共産党の内輪の論理が優先される正当性はあると考えます。

勿論、民主集中という組織論自体は問題であると考えますし、賛同しませんが、一つの理屈としては十分に成り立っていると私は捉えています。

サークル化する国政政党

さて、ここからが本題です。
私は先述の通り、共産党の民主集中を強く問題視していません。
立場は同じくできないものの、一つの論理構成としては成り立つと考えます。
むしろ問題なのは、政党助成金を受け取りながらも内輪の論理に終始する政党です。

と言っても、内輪の論理に終始する政党など、我が国には五万とあります。
いやむしろ、内輪の論理に染まるのがわが国におけるデフォルトとすら考えています。

馬場集中体制などと批判される日本維新の会もそうですし、カルトなどとも言われるれいわ新選組もそうです。
参政党などもそうだと言えますし、かつて枝野個人商店と言われた立憲民主党もその気風から完全に脱却できたとは胸を張って言えない状態であり、過渡期とも言える感じです。

このように、内輪の論理に終始する政党一つ一つを言及していたら、いくら時間があっても足りません。
ということで今回は、あえて一つの政党を槍玉に上げさせていただきます。

最近ではサークル政党などとも表現される国民民主党です。

国民民主党支持をやめました!

まずは近況報告です。
上の記事の通り、昨年、国民民主党の代表選挙に参加するために私は国民民主党のサポーターになりましたが、今はもう国民民主党の支持をやめました。

厳密にはまだサポーター扱いなので、事務的にしっかりと辞めたわけでもないのですが、心はもう離れたと言っても差し支えありません。

なぜ支持を辞めたか?

支持を辞めた最大の理由とは、まさに先ほど記載したような国民民主党のサークル化を確信したからです。

あの代表選挙の後、色々あって前原さんたちが国民民主党から離党しました。
私はこの瞬間、公器としての国民民主党は死んだと確信しました。

非主流派としての前原さんの存在があってこそ、公器としての国民民主党が辛うじて成り立っていると考えていました。
公器としての免疫とも言える非主流派の損失は、国民民主党のサークル政党化を確定づけると思いました。

離党した前原さんに対する仕打ちは共産党と類似している

この記事では冒頭、異端に対する公開処刑を行った共産党について言及を行ったわけですが、それは国民民主党と共産党の類似性を問題提起したかったからです。

離党した前原氏に対して国民民主党の幹事長である榛葉氏が取った対応は、まさに異端に対しての糾弾でありました。

私は前原さんの離党とは、国民民主党の公器としての機能不全、間接民主制の機能不全、代表選挙の失敗という具合に、特定の構成員の問題としてではなく、党としての構造問題であると捉えています。

しかし国民民主党の幹部である榛葉氏や所属議員である伊藤氏を始めた国民民主党の政治家は、離党を構造問題とは捉えず、裏切り者である前原氏に対する糾弾に終始していました。

一緒になって前原氏を糾弾した国民民主党支持者たち

また、ツイッターの支持者レベルにおいても、前原氏への論難は見るに堪えないものがありました。
自分たちが裏切られたと狼狽するばかりで、離党に至った構造問題に対して目を向けられる方は、私の目にする範囲では少なかったように思います。

このかつての姿はまさに、共産の田村新委員長による公開処刑を正当化する共産党シンパの姿を見るとフラッシュバックするほどであり、内輪の論理が強すぎると私は感じてしまいました。

どこまでも対立を忌避した代表選挙

先ほど、前原氏が離党するに至った理由の一つに代表選挙の失敗を上げましたが、これは具体的に言うと、玉木氏や支持者をはじめ、限りなく真正面からの対立を避けようとするマインドが変わらなかったことを以て、代表選挙は失敗だったと論じています。

「反自民・非共産」

前原氏は全身全霊を以て玉木代表にぶつかったわけですが、玉木氏はそれを正面から受け止めていなかったように思います。
どこか糠に釘であり、表面的には話を聞いていても本質的に前原氏の批判に向き合っているという感もありませんでした。

また、前原氏が主張する「非自民・非共産」という言葉を何故だか「反自民・非共産」と表現するなど、玉木氏は前原氏の主張を正確に引用しないということが見られました。
これもまた、前原氏を直視していなかった証左です。

うわべだけのノーサイド

代表選挙後、玉木氏はノーサイドを演出しましたし、玉木氏を支持した党支持者もノーサイドであるということをやたらと強調していました。
前原氏が離党した際には寝耳に水のような反応をしていましたが、私とすれば前原氏が離党したのは自然であり、なんの不思議もありませんでした。

代表選挙後、玉木氏はますます自民党を介した政策実現に傾倒してゆきましたし、結果としては前原氏の代表選挙における批判の通りに、政権与党に翻弄されることともなりました。

また、自民党の裏金問題の発覚によって、現在の国民民主党はその立ち位置に苦慮しているわけで、前原氏の批判の意味を正確に受け止めていたら生じ得ないことが、代表選挙後に生じているわけです。

これのどこがノーサイドだったのでしょうか。
真にノーサイドならば、前原氏の観点が並び立つ形で代表選挙後の党運営が為されていたはずで、表面や形ばかりのノーサイドであったからこそ、現に前原氏は離党を決断し、新党を立ち上げたわけです、

「対決慣れ」していない国民民主党

あの代表選挙において正しく間接民主制が機能し、対立軸が明確化され、前原氏の論点を含めて玉木路線の再構築が為せていたならば、現在のようなこちにはなっていないのではないでしょうか。

正面からの対立を避けようとするマインドや、対決から新しい答えを作り出すという技術や意識が欠如していればこそ、あの代表選挙は失敗だったと言えるのです。

国民民主党は建前上は公器である

私は先ほど、国民民主党は公器として死んだと記載しました。
しかし国民民主党は共産党とは異なり、公費を以て党運営が成り立っている政党です。

である以上は、間接民主制の理念に基づいて、あまねく有権者の意見や視点を取り入れることが求められると思いますが、現在の国民民主党は内輪の論理に終始し、共産党と同様に異端者に対しての糾弾にリソースを割いています。

国民民主党が共産党のように政党助成金を貰っていないのであれば、私はこれを問題視しません。
ただ先述の通り、国民民主党はその点を徹底していないわけなので、内輪の党運営を行う正当性は持たないと思います。

私が国民民主党を肯定できる前提はこの二つ

私は頭から国民民主党を否定しているのではありません。
前提条件によっては、国民民主党を肯定することやぶさかではありません。
その前提条件を書いて、この記事を締めたいと思います。

前提条件➀ 共産党と同様に政党助成金を受け取らないこと

繰り返しになりますが、私は共産党の内輪の論理を大きく問題していません。
国民民主党が共産党と同様、公器としての担保を放棄するのであれば、私は国民民主党を批判できなくなります。

民主集中やサークル政党を否定するが、国民民主党の論理構成は否定しないという共産党と同様の状態が成り立つのです。

前提条件②間接民主制の理念を志向すること

国民民主党がそもそも、サークル政党から脱却するという場合においても、私は国民民主党を肯定できるようになります。

この場合、政党助成金を受け取っているに足る政党であると、間接民主制の観点から肯定することができます。

私自身、民主集中を否定する間接民主主義者なので、国民民主党が間接民主制の理念に徹し、非主流派との共存であったり、対立からの再構築という代表選挙をやれる政党を目指すということならば、国民民主党を否定することはありません。
むしろ、再び国民民主党を支持できますので、私はそれが望ましいと思っています。

完璧を求めているわけではない

私はあくまでも、国民民主党に完璧を求めているわけではありません。
いきなり党を変えるのは難しいと思いますし、一朝一夕でどうにかなる問題でもないと考えています。

私は国民民主党の現在の状態を責めているわけではなく、国民民主党が間接民主制の論理を足蹴にし、サークル政党化を自己批判しない姿勢に苦言を呈しているのです。

国民民主党が間接民主制を目指して歩んでいくということであれば、全く問題が無いと思いますし、それは素晴らしいことだと思います。
私は甘い人間です。私はあくまでも状態を責めません。間接民主制を軽んじる現在の志向を責めているに他ならないのです。

この志向が変わったとなれば、私はコロッと国民民主党を肯定すると思います。
私はあくまでも、間接民主制という理想に向けて歩んでいく国民民主党の姿を、望んでいるばかりなのです。

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以上、「民主集中」は共産党だけの問題なのか?でした!
ここまでお読み頂いまして、ありがとうございました!


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