文章が苦手でも書くことに意味はある
noteを始めてから、ちょいちょいいろんな方のいろんな作品を目にするなかで、今まさに苦しみの真っ只中にいるという人が結構いるなと感じた。
もちろん、全体で見れば少数派かもしれない。
いや、きっとそうなんだけど。
でも、病気や思わぬ不幸、アクシデントで苦しみもがきながらもコツコツと日々を重ねている人がやたらと目に入る。
おすすめには、私が書いたり読んだりすることが多いキッチンや着物、旅行などのジャンルのものが出てくるのに、気付けば苦しみと向き合ったり抗ったりする人の言葉にたどり着くことがよくある。
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苦しみや悲しみは、それが大きければ大きいほど近しい人には気軽に話せないということがある。
そんなとき、noteのような場は、思いを吐露する1つの選択肢になる。
文章にまとめて初めて気付くことや、ぼんやりしていたものの輪郭を捉えることができるということは私も経験としてある。
誰かに読んで欲しい場合もあるだろうし、誰に読まれなくても、自分のために書いている場合もあるだろう。
いずれにせよ、自分の考えや思い、体験を書くということは、それがポジティブだろうとネガティブだろうと自分の内面的な部分と向き合う作業である。
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私も1つ、どうしても文章にしてまとめておきたい過去がある。
それは、私のなかではもうすっかり1つの経験としてポジティブに消化出来ているのだけど、それでも当時のことは鮮明に覚えている。
実はこれまで、noteを始めるずっと前から、何度もまとめようと試みては、納得できずに最後までまとめられていなかった。
念のため言っておくと、決して重たく暗い話ではない。
ただ、それがいつになるかはわからないけど、淡々と書き連ね、1つの形にできたらいいなとは思っている。
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「私、文章とか苦手だから」
という声は本当によく聞くけれど、誰もがみんな人に感動を与えられる文章が書けるわけではないと思う。私もしかり。
というかむしろそんな人の方が稀なのだ。
ただ、人は自分が思っているよりちゃんと文章が書けると私は思っている。
SNSやオンラインで発表しなくていい。
ただ、そこらへんのノートなり紙なりに、ペンで書いてみるので十分。
恥ずかしくなったらそのまま捨てればいい。
誰かと会話するように、友だちに話してみるように、おしゃべりするように書いてみるだけでも、案外結構なボリュームになったりするもんだ。
書いてるうちに、自分でも無意識に押し込もうとしてた本音に気付いたりすることがある。
(あ、私、恥ずかしかったんだ。)
(あ、私、本当は怒りたかったんだ。)
それで十分。自分さえわかれば十分。
誰かに読んでもらうものが文章なのではない。
と、いうのは、私の願望も入っているのだけど。
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まとまりがなくても、結論がわからなくても、私のなかのどこかに辿り着けるかもしれないという少しのワクワクを頼りに、今日も思いのままに書いてみた。
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