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完璧以上のことをしようとするのであれば、それは意外と完璧なことじゃない

映画を撮っていての本番。。。長い髪の女性が実際に自分の髪をバッサリと切り落とすという、本当の一発勝負の息を呑むような場面。そんな場面で、飼い猫がのらりくらりと横切り、フレームの前であくびをする。


「カットー!」

さて、それはNGでしょうか?それともOKだと思いますか・・・?




もちろん、それは奇跡のシーンとして、ある意味で完璧を超えた、もう二度とできない名場面となったんです。( 大林宣彦「この空の花」メイキング ) それって、狙ってできることじゃないし、かといって狙わないでいたら、きっと辿り着けない境地でもあって。。。じゃぁーそんな場面に、いつどうやって出会うんでしょう?と思った時に、1つ、流れってもんに逆らわないってのは、あるんじゃないかと。

それでも流れるままじゃなくて、信念に沿って時々堰き止めていたら出会うんじゃないかと。それって確実に誰かには嫌われるだろうし、面倒くさい感じになるかもしれないけど、その過程に、あまりにも完璧は目指さないっていうのが、2mmぐらいあると、いいんだろうなぁと。

そういうのって、嘘のような真の映画の中の奇跡じゃなくても、どんなことにも置き換えられる気がしています。しかも、それって意外と気づかないことかもしれません。実際に、髪を思い切ってバッサリ切っている時に、猫が現れてあくびでもして、私のことを見ていたら、「なんで私、真剣な顔して髪きってんだろう?」って笑っちゃいそうになりそうですね。映画でも、猫の存在に気づくことはないのですが、、、そういうのが、人生の気づかないところ、自分の背中側でたくさん起きているかもしれませんね。

  

ランドリー・・・

どこか懐かしさを感じる、帰る場所としての「 写真 」「 道具たち 」を扱っております。

 [ ものがたり ] 盆暮れ正月となれば、何かをするためというわけでもなく、とりあえず帰ろうとする。でも「 帰ってきた 」と、心から深くそう感じられる場所へ、ふと帰りたいと思って振り返った時には、いつの間にか、もうその場所はどこにも無いと気づくこともある。そんな時に、何気なく撮っていた一枚の写真がその役割を果たす時があるように、家のどこかでなにか見覚えのあるような道具たちも、心の帰れる場所があるのでは?と思ったのでした。みなさんにとっての「ただいま」を、感じてもらえる体験となれたらと思います。



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