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余命10年の覚悟で生きる。

1年くらい前から、自分の余命は10年しかない。というてい で生きるようにしてきた。
別に医者から、「お話があるので親族の方を診察室に呼んでもらえますか?」とか、もっとストレートに「あなたの余命は10年です」とか言われたわけでは、決してない。

どちらかというと、季節の変わり目や気圧のちょっとした変化で鈍く痛む古傷のようなもの、定期健康診断で、とても注意力のある先生や技師のかたが、目ざとく見つけてちょっと声をかけてくれる程度のとっても微かな兆し、だったものの存在を意識し始めたからだ。

幼少時代に宿したまゆ 、野菜の栽培履歴を記したQRコード的なもの。時限爆弾というほどたいそうなものでないけど、何もなかったかのように無視するには、ちょっと都合が良すぎる遠い覚え書きのようなもの、が今も変わらずそこにあるということを、あるきっかけで知っただけ。
なので別に、暗い話でもなんでもない。ここで書きたいのはそんなことじゃない。

ここで書きたいのは、
余命があと10年と思って生活し始めると、好都合なことが増えた
だから、その発見を自分だけで独り占めするのは忍びない
誰かに話してすっきりしたい

ということである。

最初に起こった変化は、毎日が楽しくなった

「好きなことだけをやって生きていく」でも書いたんだけど、嫌なことや我慢は一切せず、好きなことだけの生活を10年間つづけてきた。
だから、「今さら何が楽しくなっただぁ?」っていってしまえばそれまでなんだけど、今、その楽しい生活の半分が過ぎて折り返し地点に入ったと認識することで、とらえ方が全く違ってきたのだ。

ひとことでいえば、「もう半分使っちゃったの?」である。

毎日のように自由を謳歌していた大学時代、2年間の学生生活が過ぎ3年生になり、それまでと比べて履修している単位が減り、自由な時間が増える。
でも、周りを見渡すと先輩たちは就職活動で急に大人びて見えるようになり、一方で、若々しい新入生がキャンパスを闊歩している。ほんの2年前は自分もその中の一人だったのに。

「そうか。この楽しい大学生活も、半分が過ぎたんだ。。」

もう半分、でもなく、まだ半分、でもない。客観的かつ明文的な、半分だ。

その残酷な真実を知った瞬間に似た感覚。

実際には、その"楽しいが続く日々"、のうち、3分の1しか経っていないのかもしれないし、ほぼ使い果たしているのかもしれないし、それはまだわからない。
でも、「君は100年生きる。」と訳知り顔で諭すCMに、「それはない。」と断言できる程度には、自分について知っている。

そこで起こった心の変化は次の4つだ。
1.お金に対する執着がますますなくなった
2.次の世代に何かを残そうという気持ちが強くなった
3.やりたいことを先延ばししないようになった
4.気が乗らないことをますます先延ばしするようになった

もともと自分の気持ちに正直に生きてはいたんだけど、とくに4に関しては、うれしい副産物である。

「時間が限られているのに、気が乗らないことをするのは“悪”ですよね。」
と堂々と自分に言い訳できるようになったのである。
これは非常に大きい。

そして、心の変化に加えて、もうひとつの大きな変化がある。

過去の肯定だ。

といっても、自己肯定感とか、過去の自分を慰めるとかではない。
「昔の自分よ。よくやった。」というエールだ。
いや、「あの時はほんと危なかったよなぁ。よくあんなことしたよなぁ。ま、結果オーライだけど。。」という安堵感かもしれない。

でも、過去に定期的にやってきたリスクに満ちた行動を、もしあのとき、とっていなかったら、今の自分はなかったはずで、余命10年の覚悟で生きることは、決してできないだろう。
そもそもそんな発想すらできず、忍び寄る漠然とした不安におどおどしていたかもしれない。

今まで選んできた、常識的な人なら選ばないだろう選択肢、それぞれの結果がわかっている今の自分でも、

あれはただ運が良かっただけ
あの人の助けがなかったら絶対に失敗していた
そもそもその行動はおかしいだろ

というようなことだらけなので、過去の自分に会って助言できたとしても、「それだけはやめておけ」というはずだ。

こうして思うと、あの時、冷静でなかったこと、無謀だったこと、バカだったこと、が、今、感じている楽しさの原点にあるのだと思う。

だから、自分が次の世代に残せる言葉があるとすれば、

冷静になりすぎるな
無謀でもいい
バカになれ

たいていの失敗は未来の自分がフォローしてくれる。 はずだ。


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