君の敵は、うつよ
私は文章を書きたい。
文章で人を救うプロになりたい。
自分がかつて文学に救われたように、救う側にまわりたい。
「そっち側に行かせてよ」
消費者でいつづけることは、あまりにも無力だ。
誰かがつくったものをありがたく享受しつづけるーーそれはなんらおかしいことでも、恥ずべきことでもないとわかっているのに、なぜか自分はそこから抜けだしたいという感覚が、子供の時から抜けない。
自分も作り手にまわりたい。
どろどろした気持ちが、いつも胸の中で渦巻いている。
なのに。
いつも向こう側に手をのばしているのに、足がぜんぜん動かない。
失敗したら。努力しても報われなかったら。
だから今日も、私は文章が書けない。
忘れられない体験がある。
第一志望の大学受験の日だった。
私は背伸びをして、でもそれなりに努力をして、そこを受ける事を決めた。
当日、試験会場で自分の席に座り顔を上げると、目の前は空席だった。
そこにあるはずの背中は、試験が終わるまで私の視界にうつることはなかった。
「来ないんだ」
驚いた。その時はそれだけだった。
そして私は志望校に落ちた。落ちた時に真っ先に思い浮かんだのは、あの時この目で見た、誰も座っていない椅子と机だった。
「努力して落ちた私と、受験すらしていない人の、結果は何も変わらない」
トラウマというほどではない。
私はその年の後期日程で、地元の大学に受かった。
その大学でしかできない経験と出会いがあったら、大学の不合格事態はさほど問題ではない。
ただ、「自分の努力が、全くの『無』と同義」であると体感したのは、あの時が初めてだった気がする。
怖い。報われなかった努力は、いったい誰が弔うのだろう。
努力を埋める、墓場なんてものがあればいいのに。
でもそんなものがあるとして、私はいったい墓前で何を語るのだろう。
「君を殺してごめんね」
なんて、そんなくさい言葉で成仏してくれたらやすいものだ。
でもふと、いま、私ならこう墓前で呟けるかもしれないとおもった。
「君の敵はうってくるよ」
ああ、私はやっとここに墓を建てられたのかもしれない。
努力の敵は、新しい努力でとるしかないのだ。
こんな綺麗事を吐けるくらいには私、少しだけ、君を失くした痛みを癒せたのかもしれないね。
だから今日、1年ぶりに、何も更新できなかったこのアカウントで
自分のために文章を書けたのかもしれない。
それでも、書きながら怖いよ。
自己承認欲求という名の触手は私の心臓を握りつぶして、いつも現状維持の泥沼にひきずりこむ。
でも、まずは自分のために文章を書くよ。
私の気持ちは、私でさえ分からなくて、すぐに筆がとまるけど。
でもそのぼんやりとした思考・思い出・想像の中から、自分の気持ちを「掬い上げる」よ。
その練習から始めてみるよ。
そしていつか、君の敵をうつよ。
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