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結婚も死も、もっと遠いものだったはずなのに。

実家に帰るのが、いつからか苦手になっていた。
家族とは不仲ではない。 

ただ、ここは思い出が多すぎる。
 


大学を卒業するまで、ずっとここにいた。
入学式も卒業式も、初めて告白された日も、初めてキスをした日も、初めてデートに行った日も、初めてバイトに行った日も、最後のバイトから帰った日も、ずっとずっとこの家で過ごした。


目を瞑れば、昔の私がそこにいる。


リビングは母と深夜のニュースを見ながら、毎日他愛もない話をした。学校が早く終わる日は、ミヤネ屋のあとの再放送のドラマをみながら、窓からふく風を感じてうたた寝をした。
食卓は祖母の料理が並ぶ場所で、餃子が大の好物だった。
洗面所では制服に身を包み、髪型やニキビと悪戦苦闘した。
子ども部屋は、もはや思い出が多すぎて足を踏み入れることすら怖い。兄弟と寝た三段ベッドも、教科書の山も、いまやもうない。私も含めた兄弟もぜんいん実家から巣だったのに、子ども部屋の面影なんてもうないのに、私はあの部屋が怖い。思い出してしまう。昔を。別に辛いことばかりではないけれど、私を支えてくれる幸せもたくさんあるけれど。


もう戻れない昔を、思い出すのが怖い。


思い出してしまえば、いまを生きるのが、怖くなるから。全てを捨てて、実家に戻ってきたくなってしまうから。私はまだ踏みとどまりたい。東京のあの小さなワンルームで、私はまだふみとどまりたい。今だけを見つめていないと、私は東京にいられない。ひとりで、愛着も何もない、でもあまりにも便利で、そして夢を見させてくれるあの場所を。私はまだ離れたくない。しがみついていたい。そう思っている間に、実家に帰るのが怖くなってしまった。地元が怖い。


ここは、思い出が多すぎる。


結婚も、身内の死も、子どもの頃はずっとずっと遠いものだった。憧れ、恐れるものだった。でも、その二つは大人になってわかる。あまりにも身近すぎるものだ。

結婚は選ばれたお姫様がめぐりあう運命でも、特権でもないし、死は平等にいつかくる。その事実を私はもう納得して受け入れてしまえる大人になってしまった。あの頃には戻れない。

何も知らないあの頃には戻れない。
じゃあ、あの頃なんてもう思い出したくない。
悲しくて、やるせなくて、羨ましくて、戻りたくなってしまうから。


いつか、実家がまた、幸せになる日がくればいい。


切に思いながら、その日がくるのかさえ、今の私にはわからない。溺れそうになりながら、私は今日、実家のリビングでこれを書いている。

 

眠れない。ここは、思い出が多すぎる。

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