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コメンタリー好き

DVDやブルーレイなどのビデオソフトにはキャストやスタッフによる音声解説、コメンタリーが付いていて、あれがすごく好きです。本編の映像に合わせて製作当時の裏話をするあれです。ソフトによっては「スタッフ数人」「キャストだけ」「監督のみ」など複数のバージョンが収録されていて、1本の映画でもそれぞれ思い出や思い入れがある。面白い。

ネットの動画配信では見られるんでしょうか。よく知らないんですがソフトならではなら付加価値としてグッドアイデアですね。続けてほしいしもっと膨らませてほしいくらい。

なぜ好きなんだろう、と考えると、自分の場合はその映画が仕上がるまでの苦労、迷い、どんな判断で今の形に落ちついたか、それを知るのが創作の参考になるんだと思います。

あとはトリビアにもなる。作品や出演者のファンにとっては「あの映画のあのシーン、実はね…」という豆知識はヨダレものでしょう。たまりませんね。

でもよろこんでるのはこっちだけじゃなく、解説する側、コメンタリーに参加してる人たちもわりとノリノリな気がします。

いろいろ語られますが時にはスタッフ間で揉めた話、予算の都合で思い通りいかなかった悔しさ、「今でもこのシーンは後悔してる」なんて重い告白もあり、でもそれはそれで語りたいんだろう、と。

思えば当然かもしれません。作品というのは仕事の結果で、それは勿論大事ですがそこに至る過程、仕事ぶりも当人たちにとっては重要でしょう。そっちの方が多くを占めてるかもしれない。出来上がった映画が2時間でも、それに費やした時間は年単位だったり。それが多くのスタッフやキャストにとってなら、作品そのものより濃密、思い出深くて当たり前です。

そういう話を聞くのは基本好きなんですね。作品はフィクションだけどそっちはリアルだし。

でも昔は少し抵抗ありました。作品にとっては余計なものだよね、と。

好きな映画なのに裏を知ったら今後リピートする時チラつく。邪魔になる。作った当事者がなんでそんなこと言うの? プロ意識に欠けてない? 作品を大事にするなら裏なんて話しちゃダメよ。作品がすべてだし、それ以外で語るのは全部言い訳!

と思いつつ聞いたり見たり興味はあって、それは映画だけじゃありません。小説家や漫画家の自作解説、創作の苦労、仕事ぶりなども興味津々でした。

仮にも同じ創作活動をしてるからで「特殊」「物好き」と考えてたんですが、どうなんでしょう。自分はある時期からすごく変わって、今は好きだし抵抗もなく「どんどん明かしてほしい」とさえ思ってます。

自分の場合は小説を書く前にシナリオを書き、それは目に浮かぶような小説を書くためで、映像用のシナリオです。それを書いたあと小説に変換する。つまりシナリオは下書きです。急がば回れでシナリオがあるといろいろ判断しやすいんですね。映像のない小説ではもっと説明しないといけない、とセリフを足したり。いやこれ以上セリフにしたらリアリティーなくす、となれば無理せず地の文にしたり。映像の場合には必要な相槌も小説では不要、余計で削ったり。

で、シナリオは下書きなんですが小説を電子書籍で出版後、シナリオも出版しちゃいます。同時に出すこともある。並べて読むとあれこれ見えて面白いんじゃ、と。

小説のあとがきには物語のモチーフ(思い立ったきっかけ)や書いてるあいだの細かな判断、最終的な狙いなども書きます。裏を見せるのにほぼ抵抗なく、いやむしろそっちこそ、という思いがある。それは決して見せたい言いたい欲求じゃありません。まぁ欲求はゼロじゃないでしょうが、少なくともメインじゃない。

ビデオソフトのコメンタリーでも語られるように、製作中の事情、判断で物語は二転三転します。

スケジュールの都合で望んだキャスティングがかなわなかったり、リライトによって脚本がまるで変わったり、上映時間の都合でシーンやキャラクターが丸ごとカットされたり。目にした完成形とは別の形だって十分あり得たかもしれない。

いや実際に公開された映画でもその後にディレクターズカット版、ファイナルカット版などいくつもバージョンが作られ、時にはストーリーさえ変わる場合がある。

同じシナリオでも別の監督が手がけたら当然別物になるでしょうし、前に三谷幸喜さんの1つの脚本をいろんな演出家がドラマ化する企画がありました。ストーリーは一緒なんですが演出家によって違うものになり、物語はそんな風に柔軟で軽やかでどうにでもなるものなんですね。

物語を作った経験がない人(というのはいないと思ってますが、それはさて置き)だと物語を作るのが難しいこと、とても技術のいることに思えるかもしれません。

しかし作者によって、その意図によっていくらでもアレンジできるものです。

そんな種明かしは物語を幻滅させるかもしれないし知りたくないかもしれませんが、事実そうならベールで包むより見せる方が、というのが近年の自分の考え。

そして作る側が言うからいい、と思うのです。読者や視聴者などの受け手が「そんなもの」と言えば、「じゃあ作ってみろよ」と言われかねませんよね。「作るのは大変なんだぞ」

実際は(さっきもチラッと書きましたが)物語を作った経験がない人はいない、みんなが作ってるものと思います。このエッセイのいくつかで書きましたが、人それぞれの思い出、恋愛時の妄想などは物語そのものでしょう。

だから「そんなもの」と誰がいくら言ってもいいのですが、「作るのはすごく大変なんだろう」と遠慮が働けばなかなか言えなかったりします。

だからこそ作者や関係者など、当事者が言った方がいい。言わないと。物語の実像やマイナス面は一般的にならない。希少かどうかで言えば、物語そのものより「物語について」を語る方が今は要りようじゃ、と思います。需要がないんだから伏せておく、というのは違う気がする。

ビデオソフトのコメンタリーもその作品、そして「物語」自体を客観視させる効果があって、意図せずかもしれませんが物語への理解を深める材料になります。もっと増えてほしいと願うのはそんなわけです。


物語についてのエッセイ・目次

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