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虚無僧にとって何にも換え難い⁉️金科玉条の『慶長之掟書』とは!
『慶長之掟書(けいちょうのじょうしょ)』とは、かの有名な徳川家康が慶長十九年(1614年)に普化宗に付与したとされる掟書。
![](https://assets.st-note.com/img/1644206310731-hxxOM1xsBy.jpg?width=800)
国立国会図書館デジタルアーカイブより
因に、掟書(おきてがき・じょうしょ)というのは、掟(法律・規則)を記した文書。
規則や法律、または家訓のようなものですね。それを四字熟語で表現しているのが「金科玉条(きんかぎょくじょう)」。
意味はこちら↓
【金科玉条】きんかぎょくじょう
黄金や珠玉のように善美を尽くした法律や規則の意。転じて、人が絶対的なよりどころとして守るべき規則や法律のこと。現在では「金科玉条のごとく守る」などと用いて融通のきかないたとえとして用いられることもある。▽「金」「玉」は貴重なもの・大切なもののたとえ。「科」「条」は法律やきまりなどの条文の意。
最近は、あまり使用されなさそうですが、
現代使用例を考えてみますと…
父「いいかいぼうや、消費者金融からは絶対にお金を借りてはいけないよ。」
息子「うん!お父さんの教えを金科玉条とするよ!」
てな感じでしょうか。
この金科玉条という言葉は、尺八の歴史資料の古典と言われる栗原廣太著『尺八史孝』(1918年)で、以下のように最初に使われており…
多年普化宗本寺併虚無僧は之を以て金科玉條となし、同宗門唯一の権威として常に誇称したりし・・・
「普化宗及び虚無僧の金科玉条であった所謂慶長之掟書」(1979年 中塚竹禅)、「その後の虚無僧にとっては何ものにも換え難い金科玉条となった」(1990年 石綱清圃)と登場するが、それ以降に出版された本には記載なし。
こんな小さな事にも歴史を感じます。
ちょっと横道にそれました・・・。
参考本は年代順にこちら↓
1918年(大正7) 栗原廣太『尺八史孝』竹友社発行
1979年(昭和54)中塚竹禅『琴古流尺八史観』日本音楽社
1990年(平成2) 石綱清圃『虚無僧史11』虚無僧研究会機関誌・一音成仏
1994年(平成6) 保坂裕興『17世紀における虚無僧の生成』(学術論文)
2000年(平成13)保坂裕興『虚無僧ー普化宗はどのように解体したか』吉川弘文館
2002年(平成15)上野堅実『尺八の歴史』出版芸術社
2005年(平成17)山口正義『尺八史概説』出版芸術社
![](https://assets.st-note.com/img/1644029661415-hKTbydZBvq.jpg?width=800)
青、赤、緑です。
沢山ありすぎて酔いそうです。
さて、本題。
虚無僧にとってはめっちゃ大事やった『慶長之掟書』!とは?
其の一です。
『慶長之掟書』とは、虚無僧の為の虚無僧による法律、のようなもの。
この掟書のおかげで約250年間もの間、法に則って堂々と、虚無僧は虚無僧であることができたのです。
虚無僧の特権的優遇措置を許したこの「慶長之掟書」は、隠密行動、敵討ちなどを許し、不埒な振舞、偽虚無僧の跋扈まで繰り広げられる事となりました。
その「慶長之掟書」には様々なものが存在していて、その中のどれが初期のものかさえ判断できない有様。
代表的な掟書には以下の物があります。
徳川禁令孝の「掟書」9条
内閣文庫所蔵の「掟書」10条
甲子夜話の「家康公御定」16条
琴古手帳の「家康公御定」17条
鈴法寺の「御掟書」20条
同じ物のはずなのに、条目がどんどん増えている…汗。
今回は初期のものと言われている内閣文庫所蔵の『普化宗御条目』の中の掟書と、徳川禁令孝(とくがわきんれいこう)の中に収められている、この二つを合わせて以下に記しました。
まずは、原文。
御入国之砌被仰渡候御掟書
一、虚無僧之儀者、勇士浪人一時之為隠家不入守護之宗門。依而天下之家臣諸士之席、可定之条、可得其意事。
一、虚無僧取立之儀、諸士之外、一向坊主、百姓、百姓町人下賎之者不可取立事。〈徳川禁令孝〉
一、虚無僧諸国行脚之節、疑敷者見懸候節ハ、早速召捕其所江留置、同領ハ其役人江相渡、他領ハ代官所其村役人江相渡可申事。
一、虚無僧之儀者、勇士為兼帯、自然敵杯相尋旅行、依而諸国之者、虚無僧へ対し、慮外麁末之品、其外托鉢障六ケ敷義出来候節、其子細相改、本寺迄可申達候。於本寺不相済義者、早速江戸奉行所江可告来事。
一、虚無僧止宿ハ、諸寺院或ハ駅宿之役所へ可到旅宿事。〈内閣文庫所蔵〉一、虚無僧法冠、猥不可取者と万端可心得事。一、尋者申付候節ハ、宗門諸派、可抽丹精事。
一、虚無僧敵討申度者有之者、遂吟味、兼而断本寺、従本寺可訴出事。一、諸士提血刀、寺内駆込、依願者、其問起本、可抱置。若以弁舌申掠者於有之ハ、早速可訴出来。一、本寺宗法置、其段無油断為相守(尋)、宗法相背候於有之ハ、急度宗法可行事。一、虚無僧、常に木太刀刀懐剣等心懸、所持可致事。〈内閣文庫所蔵〉
右之条々堅相守、武門之正道不失、武者修行之宗門と可心得者也。其為、日本国中往来自由差免置所決定如件。
慶長十九年寅正月
本多上野介 印
板倉伊賀守 印
本多佐渡守 印
〈徳川禁令孝(とくがわきんれいこう)〉とは、
明治初期に新政府の大木喬任が旧幕臣の司法省官吏菊池駿助らに命じて編纂した江戸幕府の法令集である。
〈内閣文庫所蔵〉とは、
明治以降内閣によって保管されてきた古書や古文書のコレクション。
寛政四年(1792)2月幕府の下問に応じて、当時鈴法寺の末寺で上州太田の利光寺看守であり後に鈴法寺28代住職となる竹渓嘯虎(?~1827年)が幕府に提出した掟書。嘯虎は調布の安楽寺の看守(住職)も務めた人でもある。
<現代語訳>
1)虚無僧に関しては、勇士である浪人にとって一時の隠家であり、警察も入る事の出来ない宗門である。よって武家の身分である事を理解すべきである。
2)虚無僧を取り立てる場合は、武士のほか一向坊主、百姓、町人、下賎の者を虚無僧にしてはならない。
3)虚無僧は、諸国を歩き疑わしき怪しいものを見つけたときは、すぐさま捕らえ置き、当地の役人へ引き渡さなければならない。
4)虚無僧は勇士でもあり敵討などを求める旅をしていることもあり、諸国の者は粗略な無礼な態度をしてはならない。解決困難なことが起こったら子細を取り調べ、本寺に報告しなければならない。本寺にて解決しない場合は、奉行所に訴えなければならない。
5)虚無僧は、法冠(天蓋)をみだりにとってはならない事を全て心得ておかなければならない。
6)犯罪容疑者の捕縛を命ぜられたときは、宗門諸流(普化宗十六派)は、誠意を尽くし人一倍励まなければならない。
7)虚無僧は、仇討ちしたいものがあれば、良く調べ、本寺に許可を得なければならない。
8)武士が血刀を携え虚無僧寺に駆け込むならば、事情を聞き保護をしなければならない。もし、弁舌をもって言い掠めるものがあればすぐさま訴えでなければならない。
9)本寺は、普化宗の規則(宗法)を出して、規則を注意怠ることなく守り、規則を守らないものがあれば、必ず規則に従わせなければならない。
10)虚無僧は、木太刀、懐剣(かいけん・ふとことがたな)などを忘れずに所持しなければならない。
右の一つ一つの条項を堅く守り、武家としての正しい行いを見失わず、武者修行の宗派と心得なければならない。そのため、日本国中の往来を許可する。このように決定した。
慶長十九年寅正月
本多上野介 印
板倉伊賀守 印
本多佐渡守 印
なるほど。
一読しただけで、虚無僧にいかに有利な掟書であったかがよく分かりますね。
ザッと解説すると…、
(1)の条項は、虚無僧たちは武士が絶対であった封建的身分社会の中で、武士としての扱いを要求することができ、虚無僧の治外法権を主張している。普化宗は浪人の隠家であり、領主権の介入を許さない宗門であることを主張。
(2)虚無僧は武士に限られ、「一向坊主、百姓、町人、下賎の者」は成れないと差別化する。
(3)の怪しい人を見つけたら…って貴方が一番怪しいんですけど。と言いたくなりますが、この条目は「公儀の御用筋」とか「隠密者」といわれた所以でもあります。薩摩国(島津藩)や淡路国(阿波藩)では藩の掟として虚無僧を入国禁止した時期が永続していたそうです。
(4)も上記に同じく虚無僧=武士という地位に関してです。
(5)は面体を隠して門付けするのに都合の良い法冠、すなわち深編み笠(天蓋)を取らなくて良いということ。しかし、中世の薦僧は、元々笠を被ってはいなかった。この慶長之掟書が付与された1614年頃の虚無僧は、円錐形の丸い笠を被っていたとされます。ほぼ顔を隠すまでになるには、ようやく1716~36年頃。
当時の江戸幕府の政策に深く関わっていた林羅山(1583-1657)は『徒然草野鎚』のなかで「薦僧といふもの、僧とも見えず俗とも見えず山伏とも見えず、刀をさし尺八を吹き、せなかにむしろをおひ、道路をありき、人の門戸に立て物を乞いもらふ」と、この頃はまだ乞食であったとの記述。新井白石も「薦を背にあふ故にこも僧といふを、虚無の字にみづから書き改たる物なるか」と、両者とも虚無僧を乞食の一種と見做している。彼らの役目柄、この掟書を知らなかったとは思えない。
(6)〜(8)、(10)は完全に武士目線な条目。(10)に関しては、一応僧侶なのに、「武器を持て」とのこと。
そして最後に日本国中の自由な往来を免許すると結ばれる。
この連名に関しては、本多上野介正純は重職であった関係上、幕府重要の法令には、本多、金地院、板倉の三名の連名はあるが、金地院を除いた連名はこの掟書以外無いとの事🤔
本多上野介正純(ほんだ こうのずけのすけまさずみ)1565-1637
本多正純は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。家康の執政(老中)、徳川秀忠の代に失脚した。下野国小山藩主、同宇都宮藩主。
板倉伊賀守勝重(いたくら いがのかみかつしげ)1545-1624
板倉勝重は、江戸前期の初代京都所司代(老中に継ぐ重職)。家康に重用され、駿府町奉行や、関東移封後は江戸の町奉行などを歴任。
本多佐渡守正信(ほんだ さどのかみまさのぶ)1538-1616
本多正信は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。正信系本多家宗家初代で正純の父。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。家康の三大危機「神君伊賀越え」で力を発揮、その後出世した。
何から何まで虚無僧に都合良く、しかも時代的に怪しい内容のこの掟書。最初に、これおかしいんじゃね?と疑問を呈したのは新井白石という人です。
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国会図書館デジタルアーカイブより
新井白石(1657-1725)とは、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。伝説の天才と言われる。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担ったスゴい人だそうな。
殊に此の掟書に付いては古来尠(すくな)からざる議論ありて、かの新井白石の如きは既に其の署名又は文体等に首肯すべからざる疑点がありとして、幕府より出たるものに非ずと論じたり。
幕政の補佐役であった人の指摘なら、間違いなさそうです。
では、
この怪しい掟書に対して幕府はどのような承認(黙認)の形式をとったか?
1674年「延宝年中改」として、慶長掟書発布の60年後、時の老中である小笠原山城守・板倉石見守・太田摂津守列席の上でこの掟書きが確認されたとして、「右掟書今度御意(将軍の意志)として仰出され候趣にて御老中より、仰渡され候間云々」と本寺虚無僧に返送通達。
今で言う国務大臣に『慶長之掟書』が承認されたこととなりました🎉
そして…、
1677年(延宝五年)12月、幕府の寺社奉行が虚無僧諸派本寺・末寺に宛、法令を出す。
「延宝五年法度 」
第一条 寺社奉行が住職決定に関する本寺・末寺の権限を明確にし、評議による公正な住職決定が行われるようにする。
第二条 証人制によって弟子契約をすること、その際には幕府法に背いて追放人になった者を弟子にしてはならないこと。外の仏教諸宗派の寺院法度にはこのような弟子契約条項は無い。
第三条 普化宗の法に背いた場合、小犯罪ならば本寺の指図(一宗之法)にしたがって処罰。大犯罪ならば寺社奉行所に通達し裁断してもらうこと。
【一宗之法】同年六月、青梅鈴法寺と小金宿一月寺は寺社奉行に伺って案文を作り、寺社奉行から下された宗門内掟。
この法度によって、幕府は虚無僧寺院を本寺末寺体制に編成し、幕府法下に包摂しつつ、宗内のことは寺社奉行が事前に監修して制定した宗門内掟に従って、本寺に管轄させる事とした。外の仏教諸宗派のものに比べると、「朱印、判物で出されたのではなく、三人の連署」であるのと、「半世紀遅れに出された」という違いはあるものの、仏教諸宗派寺院なみの支配政策をとったと言える。
中塚竹禅曰く
ドンナ六ケ敷(むつかし)い問題でも家康公を担ぎ出し葵の御紋さえ持出せば立ち所に解決するという便利な時代である。
とのこと。汗
虚無僧側(浪人)からしてみると、してやったりの掟書ですが、当時は浪人が巷にあふれており、その問題を解決すべく苦肉の作で幕府も黙認したのだとか。
さて、この条目で注目すべく点のもう一つは、
『尺八』のしの字も出てこない。
この頃、尺八は虚無僧の独占物では無かったようです。
そもそも薦僧と言われる「尺八吹奏を芸能とする仏教系の乞食芸能者」が門付をしていたわけで、保坂裕興氏曰く、この御掟書のおかげで〈普化宗は百姓・町人などのさまざまな人たちが尺八を通じて「明暗」を実践する宗門から、武家又は浪人が「侍慈宗」を実践する宗門に変化〉することになったのです。
乞食の身分から一気に武士の身分になってしまったという薦僧。
↓薦僧についてはこちらをご参照下さい。
先ほどご紹介した、その後の掟書においては、条目はどんどん増え、内容はすっかり書き換えられていきます。
そんな、公文書改竄的なことが可能なのか⁉️
これまた長くなるので次回に引き続きます!
『慶長之掟書』は全くの偽書ではないという考察もあったり…、
実は、江戸時代後期、弘化四年(1847)には幕府自身が『慶長之掟書』の徹底した吟味を行っており偽書と断定されていたり⁉️
虚無僧の行く末や如何に!
其の二に続きます。
↓其の一は、古典尺八楽愛好会のミニ講座でやります♡
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