記事にするまででもない話2
俺は昔から考えたことはガラケーの宛先無しのメールで打って、未送信ボックスに保存していた。今はスマホのメモ帳に書いているのだが、それは書いてはいるものの、まとめているとはいえない代物で、ツレにだって見せられるかあやしいほど散文的である。また、気分次第でnoteの下書きにまとめることがあるのだが、それが増えてきてもうそろそろウザい。ここらで在庫処分をしようと思う。つぶやき機能使えよ、と思うかもしれないが、Twitterは別でやっているので、差別化をはかるためにも記事としてやらせてもらう。要するに一発一発は弱いが、ギュッとして一つの記事にしてやろうという試みである。まあ、これで二回目なのだが。前回は風俗の話が多すぎて、なぜかひとつひとつの項がゆるやかな繋がりを持ってしまったが、本来全く関係ないものの寄せ集めである。前回を投稿してから風俗には行っていないので、今回はマジでひとつひとつが関係なくなると思う。本当にファミレス午前3時の会話みたいなものなので、ロクは話はしません。
前回 記事にするまででもない話
・娯楽のタイミング
ある日、飲み屋でお姉ちゃんと話していた。そのお姉ちゃんは「アニメとか映画とか、見たいのはあるけど、見るタイミングがないのよ。みんないつ見てるんだろう?」と言った。俺にはそのお姉ちゃんの言うことがすごくよくわかった。たしかに、大人になってからというもの、娯楽のタイミングというのを見失ったと俺も思っていた。学生時代毎日のように見ていた映画も、今は年間何本見るかどうかという世界である。買ったのにビニールの梱包をとっていないゲームもある。俺は考えた。娯楽のタイミングはいつなのか? と。普通に考えるなら、予定のない休みの日とか、次の日が休みの夜とか、そんな感じになってくるだろう。しかし、なぜか妙な違和感があるのだ。これで答がズバッと決まった感がないのだ。そこでさらに考えてみると、そもそもそんなことを考えている時点でどうなんだ? ということに気づいた。昔はこんなことを考えもしなかったではないか、と。そもそも娯楽にタイミングもクソもなく、昔は見たいから見ていたのではないだろうか。あえてタイミングを明言するなら、見たくなった時だ。俺はそれをお姉ちゃんに説明してやろうと思ったが、やめた。このような理屈や能書きでもって女の質問に解を与えようとするという行為は、女の一番嫌がるところなのである。女は共感が欲しいなどという安いセオリーを語るつもりはないが、それより前の理屈や能書きというのがむしろ問題で、大抵の女はそういった話を嫌う。俺は「俺だって同じさ」とだけ返事して、それから煙草を吸って、さらに考えてみようと思った。問題は0と1なのではないか、と。0と1の間には、1と2、ことによると1と10より差がある。大人になってしまうと、0から1に、ということが面倒になるのではないだろうか。自分のことを考えてみると、積読していた本だって重い腰を上げて読みだせば徹夜で読んでしまうこともあるし、アニメだって配信で一話を見てしまえば一気見してしまうこともある。これだ! 忙しくてタイミングがないのでなく、昔より面倒くさがりになったのだ! 俺は結論に達した。ちなみに、その飲み屋のお姉ちゃんからは「なんで共感してんの? あんたはいつも暇でしょ」と言われた。
・君たちは純粋にウンコをしているか?
ウンコをしていると、女から電話がかかってきた。俺が電話をとると、「何してる?」ときかれたので、「ウンコしてる」と答えた。「じゃあ出なくていいよ!」と言われた。「いや、さすがの俺だってキバり中には電話には出ないよ、多分キバり中に電話に出たら肝心のウンコの方が出ないからね」と言い返している途中、俺は気づいてしまった。いつからだろう? 俺は純粋にウンコだけをしなくなったのではないか? と。便所でウンコだけをする時間が変な空白のように感じ、いつもスマホを持っていっている。しかし、大抵くだらん三流ネットニュースを見る程度。この程度なら空白の方がマシまである。出かける時にスマホがなくても大丈夫なのに、ことウンコとなるとスマホがないと落ち着かないのだ。正直これに関してはなぜなのか全くわからん。携帯というものを持ってから、便所にウンコだけをしに行った記憶がない。漠然とあまりよくないことな気だけするのだが。
・御無沙汰歴史修正主義者
こいつらはマジでなんなのだろうか。普通、頻繁に会っている人とは心安くなり、逆にご無沙汰であれば距離ができる。これは当たり前のことだ。俺は学生時代のクラスメイトや前職の同期などとひさびさに会うことになると、その人とどのように接していたか、接し方がわからなくなってしまうことがままある。なので「そんな感じの人だったっけ?」と言われることもよくある。まあ、これは本音で人と接してない弊害でもあると思うが、大なり小なりご無沙汰だと勝手がわからなくなる経験は誰にでもあることじゃないだろうか。しかし、たまにそのセオリーの真逆を行くやつがいる。つまり、学生時代に大して仲がよくなかったのに、ひさびさに会うとびっくりするぐらい距離をつめてくるやつだ。「よぉ〜!」などと快活に言って、肩を組んできて、下の名前で呼んできたりする。俺は思うのだ「お前との接し方は忘れたが、お前が学生時代に俺を名字にさん付けで呼んでいたことは覚えているぞ」と。マジでなんなのだろうか? 縮地でも覚えたのだろうか? このあと幸運の壺でも買わされかけるなら、まだ辻褄が合うのだが、それもなけりゃどこにも勧誘されないので本当に謎なのだ。皆さんもひさびさに会った時に、なぜか死ぬほど親しかった感じで来るやつに違和感をおぼえたことはないだろうか? 俺はあいつらを、御無沙汰歴史修正主義者と呼んでいる。
・世はまさに逆マウント時代!
ここ数年「マウントを取る」という言葉がかなり一般に浸透した。自分の学歴が高いことを鼻にかけ、他人を見下すような言動を取ることを、学歴マウントなどと言ったりする。しかしマウントという言葉を使う人の母数が増えたせいか、なんでもかんでもマウント化する人が散見されるようになった。つまりは、自分からマウントポジションを取られに行くようなやつだ。「彼氏・彼女ができた」だとか、「車や家を買った」というものまで、マウント化してしまうやつもいる。これはもうマウントを取られたのではなく、マウントを取られに行っているとしか思えない。すなわち、それが逆マウントだ。相手は何もしてないのに、相手の股の間に自分から滑り込み、寝転がり、「この人マウントを取ってきまぁ〜す!」と騒ぐのだ。あまりに浅ましくないだろうか。しかしながら、そいつらは理屈でなくとも、体感として弱者の強みを知っているのではないだろうか。実は、弱者というのは強かなものである。現代社会において、被害者であるという武器はかなり強い。芸能人や金持ちに親でも殺されたんではないかというぐらいに毛嫌いしているやつなどいるが、これも逆マウントだ。芸能人や金持ちであるという事実だけで、やつらにとってはマウントを取られたことになる。否、逆マウントを取りに行っているのだ。そして、マウントを取ってくるイコール悪としていくことで、ことによると快感を得るのである。「ルサンチマンって何?」ってきかれた時に、この逆マウントを例に出せばわかりやすく説明できそうだ。まあそんな場面ないけど。というかルサンチマンで気づいたけど、言ってることただの超絶劣化ニーチェだわ、これ。
・今回は下ネタ自重してみたよ☆
毎度毎度俺の記事は18禁認定されるので、際どいのは書かなかった。俺の悪い癖で、ぜんぜんそんな話題じゃなくても例えとかで下ネタ使ってダメになるパターンがある。風俗とかもダメなんだろうか。そしたらもうすでにこの記事ダメだけど。
・またまた普通に長くなった
やっぱりこれは避けられない。でもまだ在庫あるので、そのうちやります。
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