村上春樹短編集より『めくらやなぎと、眠る女』感想
文春文庫から出ている村上春樹の短編集『レキシントンの幽霊』より、『めくらやなぎと、眠る女』の感想をお送りします。
表題作『レキシントンの幽霊』の感想はこちらです。
二十五歳の青年である『僕』が語り手であり主人公の短編です。彼のいとこは小学生の時の事故で耳が片方聞こえません。
伯母に頼まれ、いとこの病院の付き添いに行く、その出来事を丹念に描いた物語です。
『レキシントンの幽霊』よりは分かりやすい物語でした。こうした物語には、むしろある程度の分かりにくさこそが長所です。
それだけ自分だけの解釈、読み取りを許す余地があるからです。あるいは、ミステリー小説のように、謎解きをする楽しみがあるのと似ています。
ただし推理小説とは異なり、真実というか事実は常に一つというわけではありません。それは読者の数だけあります。
その点、分かりやすいだけにあまり解釈の幅は無いようにも思えました。
めくらやなぎは、主人公と友人が無神経さから傷つけてしまった少女の傷心が生んだものなのでしょう。
いとこの耳が聞こえなくなったのも、ちょうどその頃と一致します。八年前、いとこは六歳で、文中にある通り、「小学校に入ってすぐ」の頃なのでしょう。
何故、主人公でも友人でもなく、関係のないいとこだったのか? 彼女の精神が小学生に退行していて、同調するものがあったからでしょうか?
実は主人公の友人ではなく、主人公のことが好きだったから、主人公と仲が良いと思われていたいとこの方に取り付いたのでしょうか。
それとも、全ては単なる偶然の一致でしょうか。めくらやなぎは現実にはなく、いとこの耳が聞こえなくなったのは、それとは全く関係がないのでしょうか。
主人公の『僕』は、『ほとんど全ての人が感情移入できる無色透明の主人公』です。それは村上春樹人気の理由の一つでしょう。
語られるのは特に日本の純文学によくある自己の苦しみではなく、読者一人ひとりが自己投影出来る仕掛けなのです。
逆に『自己の苦しみや想いを描いてこそ純文学』と考える人からは不評なのでしょう。
無色透明の主人公は、別に純文学、エンターテイメント系を問わす村上春樹だけのものではないですが、読者を感情移入させ、作中世界に引き込むテクニックの一つです。
村上春樹の幻想的な要素を持つ作品には、独自の世界観があります。現実の世界を舞台にしているのだから、ハイファンタジーとは違って背景世界とその設定はありません。
しかし世界観はあり、その世界観こそが最大の魅力です。
それは主人公を通して観る世界の有り様、それが世界観です。作者の感性やセンスが必要なところですね。
純文学の多くがそうであるように、これらの村上春樹の短編もニュートラル型です。以前にも分析で書きましたが、人間の四タイプのうち、極めて能動的なタイプと、やや受動的なタイプにこそ刺さる物語です。
やや能動的なら、物足りなさを感じ、もっとくっきりした動きや表現を求めることでしょう。
でも、それには応えてはいけません。
それをやると作風が損なわれるからです。
極めて受動的なタイプなら、気取った感じが気に入らないと思い、もっとはっきりさせてほしいと感じるはずです。
この要望にも、やはり応えてはならないのです。
おそらくは世界で最も売れている純文学作家、村上春樹の作風とは、このようなものなのです。
感想は以上です。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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