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村上春樹短編『レキシントンの幽霊』感想

 何年も前に読んだ短編集の再読です。表題作である『レキシントンの幽霊』の感想を書きます。

 あたかも村上春樹本人を思わせる、作家の主人公の一人称視点で語られる物語です。

 アメリカのマサチューセッツ州で、二年ばかり暮らしていた時の思い出話として語られ始めます。

 主人公は、自分の小説のファンになってくれたアメリカ人と友人同士になり、何度も自宅に招かれるうち、ある日一週間の留守番を頼まれます。

 そのアメリカ人ケイシーは、大変なジャズ好きで、何千枚ものレコードを収集しています。同じくジャズが好きな主人公は、ケイシーの家で自由にレコードを聴けるのもあって、留守番を引き受けることになります。

 このジャズ好きの設定もまた、村上春樹本人を思わせます。けれどこれはエッセイでなく短編小説です。それも私としては、幻想文学に分類される物だと思います。

 批評家の説によれば、幻想的な要素は、現実のある物の象徴だそうです。人間心理や社会の有り様だとも言われています。

 そうすると、幻想文学というよりは、風刺や隠喩を使った小説といった受け止められ方が多いのでしょうか。

 さて、主人公は友人宅に泊まった最初の晩、奇妙な出来事に遭遇します。

 何故か、いるはずもない大勢の人々が、家の中にいて騒いでいる音を聞いて目を覚ますのです。

 帰宅したケイシーは、自分の母親が亡くなった後に、三週間もほとんど眠り続けていた父親の話をします。

 幽霊らしきものは出てくるのですが、怖さはありません。それどころか、全体的にかなり品があっておしゃれなイメージが広がります。

 このおしゃれな感じ、別な言い方をすれば気取った感じが、「村上春樹ファンは単なるミーハーだ」と一部で批判される所以でしょうか。

 幽霊も長い眠りも、その謎が明確には解き明かされることはなく終わります。

 余韻を残して終わる。重要な要素を読者に示した上で、後のことは自由な解釈にゆだねる。村上春樹だけでなく、様々な小説で、このようなラストが描かれてきました。これからも書かれるでしょう。

 自由な解釈にゆだねるからこそ、読者一人ひとりのための小説になっているのです。

 村上春樹の小説は、ジャンルとしては純文学に分類されるようですが、諸説あります。こんなものは文学ではない、ただの大衆受けするシャレオツ小説だと批判する声もあります。

 確かに、日本で、あるいは世界で最も売れている『純文学?』は、その大衆性ゆえに、すでに純然たる文学ではない、とする考え方もあるのでしょうね。

 私としては、単に気取った感じがするのではなく、その場面設定がとても自然で、実際に見聞きしているかのような臨場感があるのが、特徴だと考えています。

 その臨場感ゆえに、上滑りのおしゃれ感覚にならない。非常に現実感が、生々しさがあるのです。

 その現実感や生々しさの中に、非現実的要素を展開させているのが、この小説の良さと思いました。

 私もこんな小説を書きたいものですね。

 ここまで、読んでくださってありがとうございました。

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