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【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ2作目『深夜の慟哭』第21話

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 あくる朝。ウィルトンは先に目を覚ました。起き上がり、客間の隅にある洗面台に寄る。洗面台は、煉瓦造りの台で、大きな陶器の器が乗せられており、なみなみと水が入れられていた。台の上は広く、陶器の器の側に、大きなやはり陶器で出来た水入れが三つも並んでいる。

「おお、この陶器は立派なもんだ。きれいな絵が描かれているな。小さな黄色い野の花と葉っぱの絵だ。華やかな薔薇や百合より、質実で可憐だな」

 ウィルトンは、用意されていた歯磨き枝を手に取り、歯を磨き始めた。歯磨き枝は歯磨きの木から採取した細い枝だ。両端の一方の先をつぶして広げ、歯の表面を磨く。細いままのもう一方の先端を歯と歯の間に入れてカスを取る。

 歯磨き枝からは良い香りがした。薄荷(はっか)に似た香りで、口の中に清涼感が漂う。ラベンダーやローズマリーに似た香りのもあるらしいが、一般的なのは薄荷の香りだ。

「いい匂いだ。気分がしゃきっとするな」

 ウィルトンは陶器の器に満たされた水で口をゆすぐ。備え付けの別の器に、口から水を吐き出す。器の中の、目には見えない微生物が、汚れを分解してきれいにしてくれる。便所でも、この微生物は使われている。

「昔は、人間の食べ残しのゴミを豚に与えていたらしいが、今ではこの小さな生き物が、ゴミや汚物を肥料に変えてくれる。肥料で牧草やらが育ち、豚はそれを食べる」

 ウィルトンは、次に顔を洗った。器を持ち上げて、汚水入れに注ぐ。

「豚がしてくれることは目に見える。小さな生き物がすることは目に見えない。でも、目に見えなくても確かにやってくれるんだ。だったら、豚を飼うのと大差はない、はずだ」

 背後でアントニーが起きだす音がした。

「おはよう。どうだ、朝の目覚めは?」

 盟友に、振り返らずに尋ねる。半ばは本気で心配してもいた。まだ窓の木戸は開けていない。わずかなすき間から、陽光は差し込んでいた。

「ありがとうございます。私は大丈夫ですよ」

 ウィルトンが案じているのを察してか、彼は微笑んで安心させるように言った。

「光を通さないローブを着てくれ。木戸は開けなくても俺はかまわないが、アーシェル殿がどうするかは分からんからな」

「配慮はしてくださるでしょうが、木戸を全く開けないわけにはいかないでしょうね。館には他の者もいます」

「そうだな。ああ、やれやれ。本当にやっかいなことになったな。お前と故郷の村で静かに暮らせていたらなあ」

「もし、本当にどうしようもなくなったら、南方に逃げましょう。もちろん、ロランやオリリエを連れて、です」

 そのロランは背負い袋から出されていた。まだアントニーと同じ寝台にいて、腰から上を起こし、不安そうに二人を見ている。

「俺は故郷の村に未練がある。お前がいた納骨堂の地下に残してきた物も、全部を持ってはいけないだろう」

「どこかで馬車と馬を買わなくてはなりませんね。それでも全部は無理でしょうけれど」

「まあ、とにかくアーシェル殿と話してみるさ。それから決めても遅くはない」

 確かに遅くはなかった。

 アントニーは寝台から下りて、ラベンダーの香油をたらした水で身体を拭(ふ)いた。ウィルトンと違い、彼は女領主の屋敷から寝間着を持ってはきていない。裸のままで寝ていた。

 ウィルトンは、アントニーが服を着るまで後ろを向いたままだった。何となく、振り返ってはいけない気がしていた。

「ローブを着ましたよ。窓を開けましょう」

「アントニー様、それではロランが窓をお開けします」

 朝の光が室内に入ってきた。ロランは窓の外側にある木戸を全開にはせずに、半開きのままにした。内側には硝子戸がある。硝子(がらす)は高価で、王侯貴族か、裕福な平民の住まいでしか使われてはいない。

「こういうところは、アーシェル殿もお貴族様なんだな」

「あまり質素にし過ぎても、貴族としての体裁を保てず、統治に差し障りがありますからね。贅沢を控えるのが大切である事との、均衡を考えなくてはならないものです」

「なるほど、何となく分かる気がするよ」

 ウィルトンは旅の着古した服ではなく、これまた女領主の屋敷から持ってきた貴族としての体裁を整えた服に着替えていた。

 ローブを身に着けたアントニーと二人して、二階から一階へと下りていった。

 一階では食堂に、食事が用意されていた。アーシェルが二人を迎える。

「いかがでしたか? ゆっくりと休まれましたか」

「はい、ありがとうございます」

「アーシェル殿のお心遣い、かたじけなく存じます」

 そこにエレクトナも入ってきた。

「おはようございます、皆様」

「おはようございます。昨晩は、よくお休みになられましたか?」

「はい、ありがたく存じます」

「それは良かったです。それではお食事をどうぞ」

 長方形の長い卓に椅子が並べられている。皆はそこに座った。

 メイドが皿を運んできた。ゆで卵二個をそれぞれ半分に切ったのと、大きな芋の茹(ゆ)でたのが乗っている。

「どうぞお召し上がりください」

 アーシェルは言った。皿は高級そうな白い磁器だが、絵柄はない。

 ああ、質朴でいい感じだな、とウィルトンは内心でつぶやく。さらに考えた。オリリエをアーシェルに嫁がせたらどうなるのだろう、と。

続く


アーシェル・フェルデス・シェルモンド

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