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絵日記が原点だった話

実家に行って探し物をしていたら、はるか昔の絵日記が出てきました。
ノートが「うちのタマ知りませんか」でなつかしさに崩れ落ちますね。

中学のころの日記。部活は演劇部でした。自分用なので見せる前提で描いてはなかったです。

この「絵日記」小学4年ごろから中学2年あたりまで描いていました。
受験で忙しくなってフェードしてしまったのですが、やめたのもったいないな。

絵日記を描き始めたきっかけ

なぜ小学生から自主的に絵日記を描いていたか。
私の場合は伯父の存在が大きかったです。
建築士の伯父がいたのですが、彼が絵日記を描くのが趣味だったのですね。
スケッチや似顔絵などを楽しむような、絵描き気質の伯父だったので、
万年筆で日々家族に起こったことをノートに描き記していました。
親戚一同で集まった際などは日記に親戚みんなが登場し、
久々に会ういとこたちが遊び転げる様子が、そっくりの似顔絵で描かれていて、
それをみんなで見せてもらって大笑いしたものでした。
そのペンで描かれたそっくりの似顔絵の日記がすごく大人っぽくてかっこよくて。
漫画家でもない伯父さんがそんなすごいものをサラサラ目の前で描くなんて!
めちゃくちゃかっこよくて憧れたんですよねえ…
当時は長谷川町子先生がたまに新聞に載せていた挿絵入りのエッセイなどがすごく楽しみだったのですが、今でいえばこれは完全にエッセイコミックですよね。
私も自分の毎日をあんなかっこいい絵日記にして残したい!
今思うとこの「毎日日常的に絵を描き続ける」習慣を幼少時にもらったことは、本当に大きな財産になっています。

描き続ける習慣があれば

高校、大学、社会人と同人活動をやり、漫画を描いていました。
当時はフルアナログでしたから、机に大きな原稿用紙を広げ、ペンやトーン、カッターに定規などたくさんのものを広げて作業しますよね。
忙しくなってくるとまず「広げる」ことができなくなってきますし、漫画を描くのには熱量がいります。
描き続けないと当然思ったように描けなくなってきますよね。
でも描けない時期でも画力は実はあまり変わらなかったんです。
それは広告の裏やノートにずっと「描く習慣」が残っていたから。
犬を飼えば当然あったことを絵に描きます。

以前降りられなくなってから階段が怖くて登れなくなっちゃった愛犬牡丹ちゃん。

大事なのは「画材を用意しなきゃ」「上手く描かなきゃ」ではなかったということ。
コピー用紙やその辺にある紙に、鉛筆や名前ペンで描いた絵日記。
実家にいっぱいとってあって、懐かしいです。母に感謝。
幼少期のくせというか、残しておきたいんだよなあって気持ちで落書きが楽しくて。

当然ですが育児中なんかはネタの宝庫ですよね!
ルーズリーフに描いてファイリングしてありますがとっても懐かしいです。

ムスメ抱っこ期。当時はスリングが流行っていたのでした。

旅行に行くのに自力でムスメと母のためのガイドブックを作成したり。
コピックで色塗って、楽しかったですねえ。

家族旅行のしおりを自作。

徐々に本格的に

子供が大きくなってくると、絵で仕事をとるようになりました。
数年やったのちにいらすとやさんの台頭で仕事がなくなってしまいましたが、この「絵日記を描く」「いろんな人の似顔絵を描く」楽しさを知っていたことが今につながっています。

ゆるキャラのデザイン。
挿絵関係。

この辺は商業に行く前(同人復帰後)にデジタルで描いたものですが、
それ以前にもコピック塗りのアナログで描いていました。
原稿納品なので手元にはありませんが、地元企業のゆるキャラとかもやりましたね。

初連載はエッセイでした

というわけで、自分的には初連載がエッセイだったのも納得なんですよ。
初めて商業連載になったのは主婦の友社さんの暮らしニスタというサイトで描かせていただいたオタク家族エッセイでした。
現在は連載は完結し、主婦の友社さんに許可を得たうえで電子書籍化されています。

今回はエッセイ系のもののお話でしたが、空き時間に白い紙があればどこでも落書きしちゃうというこの「習慣」。
もう伯父は天国にいますが、この習慣がなければわたしは漫画家にはなれなかっただろうなと思っています。
楽しくいろんな人の似顔絵をいっぱい描くようになったのも伯父のおかげです。
原点は「親戚や友達の似顔絵を描きたかった」んですよね。
この原点のきもちを思い出すことができたので、本当に感謝しながらさらに描いていきたいですね。

エッセイのお仕事もまた描いてみたいですし、広告漫画系のお仕事もまたやってみたいですね。

次回は「漫画系」の黒歴史(黒歴史?)を少しだけお見せします。

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