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人間性なるものへの問い|小川さやかさんが選ぶ「絶版本」

本連載は2022年9月に書籍化されました。

コリン・ターンブル『ブリンジ・ヌガグ――食うものをくれ』幾野宏 訳(筑摩書房、1974年)

 民族誌には、調査に裏付けられた客観的な記述・分析だけでなく、人類学者自身が長く現地に住み込んで人々の知恵や生き方に触れるなかで、魅せられたり心動かされたりした率直な思いが吐露されることが多い。盗みや暴力、紛争などをテーマとする民族誌も多々ある。だがどれほど過酷な状況や露悪的な事態があっても、人類学者はそこに「社会」があり、それを成り立たせる独自の論理や実践、人間性があることを見いだしてきた。実際、民族誌は、国家なき社会とは、トマス・ホッブスが述べるような「万人の万人に対する闘争」ではないことを明らかにしてきた。

 そうした民族誌の中で『ブリンジ・ヌガク――食いものをくれ』(1974年、原著は1972年)は、異彩を放つ。本書は、「人間性」として現代の私たちが一般的に挙げる特質をほとんど棄て去ったウガンダの狩猟採集民イク族の姿を克明に描いたことで、1973年の全米図書賞(時事部門)の最終候補作に選出された一方で、人類学者の間で民族誌記述の倫理をめぐる論争も巻き起こした。

 著者のコリン・ターンブルは、過去にはコンゴの森で狩猟採集民ムブティ族の調査をしていた(その成果は『ピグミー 森の猟人――アフリカ秘境の小人族の記録』1963年、講談社)。その継続が難しい場合はインドのアンダマン諸島のオンジー族の調査をする予定であった。しかしコンゴ動乱が深刻化したりインド政府からの調査許可が下りなかったりし、急遽、変更した調査がウガンダの山岳地帯に暮らすイク族(調査前は「テウソ」族という呼称だと思われていた)に対するものであった。それはターンブルにとって「人間性とは何か」を自問自答する旅の始まりであった。

 本書のタイトル「ブリンジ・ヌガク(食いものをくれ)」は、調査の間にターンブルがイク族から頻繁に言われるようになった言葉である。国境が厳しく管理されたり国立公園ができたりして、それまでのように自由に移動して狩猟ができなくなったイク族は、飢餓に直面していた。彼らは、ターンブルが知る狩猟採集民とは大きく異なっていた。自身が調査したムブティ族をはじめ、それまで狩猟採集社会は、食物の分かちあいを通じて豊かな社会を築いているとされてきたのだ。だがイク族は「完全なる個人主義」であり、自身が手に入れた食物はたとえ腹いっぱいでも自身の胃袋に無理やり収めようとし、死にかけた家族にさえも食物を分け与えることを一切しなかった。

 イク族の社会では、老人や体の弱い者たちは、無視された。体が動く老人は地面を這いずり回って食物を探した。それすらできない老人は、家のなかに放置されて餓死した。社会の基本単位である家族は完全に崩壊しており、子供も過酷な生存競争を強いられていた。子供は3歳になると、家から放り出された。子供たちは年齢層別にバンドを組んで行動することで大人や大型の食肉動物から身を守った。だがバンド内は弱肉強食と下剋上の合体した世界で、弱い子供は飢えて死に、強い子供は他の子供たちに裏切られて死んだ。

 本書は、衝撃的なエピソードに溢れている。例えば、アドゥパという少女は、珍しく寛大な子供であったが、その寛大さこそがイク族の世界では「狂気」だったのだとターンブルは記述している(120頁)。子供たちは、アドゥパが野生動物の食い残した草の実や骨のかけらを口に運ぼうとする瞬間に、どっと叫び声をあげ、笑ったりはやし立てたりしながら飛びかかり、食物を奪った。アドゥパの両親には彼女のほかに二人の子供がおり、どちらも完全に「正常」な人間、つまり利己的な人間だった。両親は庇護を求めるアドゥパを追い出した(食べものを自分たちに持ち帰ってくるときを除いては)。それでもアドゥパは何度も両親の家に戻っていった。両親はしまいに彼女を家の中に入れた。アドゥパは幸せなり、そして、そのせいで彼女はもう泣かなくなった。閉じられた戸の中で脱出することもできず飢えて死んでいくのを放置されたことで(121頁)。

 何よりターンブルの心をかき乱したのは、イク族の「笑い」であった。彼らは赤ん坊がやせこけた手を炭火の中に突っ込んだり、老人や体の弱い者が無様に転んだりすると笑い転げた。無慈悲な笑いは、死に瀕した人間にも降りかかった。 

 ある日、調査を助けてくれたロメジャが、近隣地域の牧畜民トゥルカナ族に襲撃された。「ロメジャが死んだ」と知らされたターンブルは家の外へと走りでた。「死んでいる」はイク族流の見解、「もうかまってやる値打ちはない」に過ぎず、血だまりの中でロメジャは「紅茶をくれ」と訴えた。ターンブルはやり場のない憤りに涙しながら紅茶を入れ、「なぜそのまま死なせないのか」となじるロメジャの妻を押しのけて、甘い紅茶の入ったカップをロメジャのそばに置いた。その時、ターンブルは嬉しそうな笑い声を聞いた。ロメジャの妹が紅茶のカップを兄の前からひったくり、ほこらしげな楽しげな様子で持ち逃げした。そして死にゆく兄を横目に一人嬉しそうに笑って走りながら紅茶を飲んだのだ(139-141頁)。

 ターンブルは、その時の心情を「心がからっぽになっていた」(141頁)と吐露している。荒涼とした社会で自らの心が壊れていくのを感じながら、彼はイク族の社会を貫く原理を考察し、人間性とは何かを問い続けた。

 例えば、イク族の間では、「善」という意味の「マラング」は「食物」と同義で、「善い人」は「腹いっぱい食べさせてくれる人」ではなく「腹いっぱい食べている人」であるという考察がある。彼らの間では、善とは状態を指し、行為ではないのだ(122-124頁)。また別の箇所でターンブルは、餓死の一歩手前にあるとき、「死者」や弱者を助けることは愚かしい「贅沢」ではないかと自問し、老人たちに食物を分け与える自らの行為を内省してもいる。曰く、老人たちはなぶりものにされても、貴重な食物を口へ運ぶ途中に横取りされても、その様をみて喜ぶ他人と一緒になっておかしそうに笑う。彼らを放っておいたら、少なくとも老人たちは子供たちに娯楽の種を提供したことで幸せな気持ちになって、笑いながら死ねたかもしれない。それに対して自身がしたことは、ただ彼らのみじめさを数日引き延ばし、自らの優越感を確認しただけにすぎないのではないかと(211-213頁)。

 飢餓に直面する以前のイク族の姿がどうであったのかはわからない。ターンブルはいくつかの手掛かりを基にかつては違うものであっただろうと推測し、次のように述べている。

「人間性の根本をなすものであり、生きて行くためにも健全な人間であるためにも欠くべからざるものだとわれわれすべてが思いこんでいる、さまざまな人間的特質を、かれらもまた、かつては全面的に所有していたのだということを認めるなら、[中略]イク族がわれわれに告げているのは、そうした特質など、いささかも人間性に生まれつきそなわっているものではないし、人間性の必要不可欠な部分でもありはしない、ということだ。[中略]社会そのものが人間の生存にとって欠くことのできないものですらなく、人間というものは自分で常に考えているほど社会的な動物であるわけでもなく、また社会的であることなしに単に生存という目的のためだけに他人とつきあうことも完全に可能だ」(275頁)と。

 そのうえで彼は、個人主義的な市場競争や、家族や国家の危機、そして科学技術による産物を「贅沢物」だと思いこんで追求する姿勢といった自らの社会の動向を顧みて、私たちの社会もまた「個人的によりも社会的に生きるための能力を失い、愛する能力と同じく憎む能力を失い、またおそらくは、われわれの天性でもあれば存在の中心でもある全情熱をもって人生を楽しむ最後のチャンスをも失おうとしている」(280頁)と書いている。

 21世紀の私たちは、コロナ禍やAI等のテクノロジーの進展の先でも、人間性なるものに対する信念を持ち続けていけるだろうか。いまでは古書でしか手に入らなくなった本書が問いかけているのは、イク族の異文化ではなく、限界状態に置かれた人間のひとつの姿である。

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(写真=筆者提供)

今回の選者:小川さやか(おがわ・さやか)
1978年愛知県生まれ。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授を経て、現在同研究科教授。『都市を生きぬくための狡知――タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社)で、2011年サントリー学芸賞(社会・風俗部門)、『チョンキンマンションのボスは知っている――アングラ経済の人類学』(春秋社)で、2020年、第8回河合隼雄学芸賞、第51回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。そのほかの著書に『「その日暮らし」の人類学――もう一つの資本主義経済』(光文社新書)がある。

連載「絶版本」について
あなたが、いまだからこそ語りたい「絶版本」はなんですか?この連載では、さまざまな書き手の方にそのような問いを投げかけ、その一冊にまつわる想いを綴ってもらいます。ここでいう「絶版本」は厳密な意味ではなく、「品切れ重版未定」も含んだ「新本市場で現在アクセスできない本」という広い意味をとっています。連載趣旨については、ぜひ初回の記事も参照ください。


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