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「創造的復興」――能登から問い直す|まちは言葉でできている|西本千尋

 2024年3月中旬、長年、お世話になっているEさん(石川県金沢市在住)と一緒に、奥能登を訪れた。金沢から奥能登への道行は、砕石を運ぶトラック、自衛隊車両、警察車両、一般車が連なり、朝夕は渋滞も見られたが、ひとたびまちなかに入ると、あまりの静けさに驚いた。白い光に強い海風。Eさんが「ボランティアは平日だからこんなにおらんのやろか」と呟いた。道路啓開が済んでいても、道路のマンホールは跳ね上がり、道路の両脇には多くの倒壊家屋がそのままの状態だった。倒壊を免れた建物の玄関に、黄色「要注意」、赤色「危険」と2枚の応急危険度判定の紙が貼られていた。聞けば「要注意」が2023年5月の地震のもの、「危険」が今回の地震のものだという。今回の地震は前回のそれからようやく生活を立て直しつつあった人びとの安息を再び襲ったものだった。

「創造的復興」

 石川県は、2月1日に知事を本部長とする「石川県令和6年能登半島地震復旧・復興本部」を設置し、3月28日に「創造的復興プラン(仮称)骨子」[*1]をまとめた。6月に全体プランを発表する予定だという。過日、友人とこの話題になった際、友人がすこし顔をゆがめて言った。「『創造的復興』[*2]か、いやな言葉やな。被災してただでさえ大変で、元に戻すのがええのかわからないけど元に戻すのもたいへんなとき、創造的などとつける」。

 創造的、という輝ける言葉に、友人やわたしがこのように身構えるのは、「今までにないものを、初めてつくり出す」とされる復興の景色の中に、不均衡や暴力性を見るからなのだろうか。

 ただ、創造的という言葉には、また別の文脈もある。他所から与えられる「全体プラン」に一方的に呑み込まれるのではなく、意見し、動き、抗し、使える制度は使うという、在野の「創造性」がある。

 復興というと、わたしたちはとかく未来を見ようとしてしまいがちだ。しかし、発災前の国土政策、その前史が復興を大きく左右し、規定してきた。東北、福島は言うまでもないだろう。能登はどうか。今回、詳しく触れることができないが、能登は新全国総合開発計画(新全総、1969年閣議決定)[*3]において「国土利用の偏在を是正し、過密過疎、地域格差を解消する」[*4]ことを目的に「能登半島に、原子力発電基地の建設を進める」とされた。この「大規模開発プロジェクト構想」を前に市は2003年に凍結が決まるまで、四半世紀以上、住民が原発推進・反対とで対立した[*5]。結果、珠洲は原発をつくらせず、内発的発展を志向した。そういう国策による対立の歴史と、他所に呑み込まれない創造性を持った地域である。

 さて、冒頭に挙げた能登における「創造的復興」は、どのように定義されるのか。骨子段階ではあるが、同プランにおいて以下とされている。

● 単なる復旧にとどめず、自然と共生する能登の魅力を守り高めることで、能登ブランドをより一層高める「創造的復興」を目指す
● 今後を担う若い世代や民間・外部の力も活用しながら、地方の課題解決のモデルとなるような、能登らしくしなやかな復興を実現する

 「創造的復興」という言葉は、阪神・淡路大震災の後に当時の兵庫県知事のもとで生まれた。「単に震災前の状態に戻すのではなく[…]21世紀の成熟社会にふさわしい復興を成し遂げる」[*6]ことを志向したものであった。その後、東日本大震災、熊本地震、今回の能登半島地震にも引き継がれ、日本の復興施策の鍵となる概念となった。

 東日本大震災では、復興基本法[*7]において「被害を受けた施設を原形に復旧すること等の単なる災害復旧にとどまら」ず、「二十一世紀半ばにおける日本のあるべき姿」を目指すという方針が掲げられた。全復興経費の約半分、18.6兆円もの巨額が、公共事業関連経費に投じられ[*8]、巨大防潮堤、区画整理事業、かさ上げ道路、高台移転事業などが建設された。

 このような東日本大震災における「創造的復興」は、ハード優先のまちづくりに対して「人間がいない」、「生活再建に繋がらなかった」、「コミュニティの分断・解体を招いた」、「惨事便乗型資本主義」[*9]などの批判を受けた。域外から東北に足を運んだ知人は、その報告において口々に「ここがどこの場所かを聞かなければ、一体、どこなのか全くわからないくらいどの地域も同じように画一的だった」、「空き地だらけの区画整理地、物産館、交流施設やホールなどのハコモノばかりだった」などと伝えた。これは「災害復興」ではなく、復興による過剰な開発や成長こそ災害であるという意味で「復興災害」である[*10]、また「災害パターナリズム」であるとも指摘された[*11]。

 一方で、このような「創造的復興」に抗した人びとももちろん数多くいた。防潮堤建設に反対し、災害危険区域の解除や現地での住宅再建を強く求めた沿岸部の人びと、「奇跡の一本松」の保存を現行の剥製化とは異なった形で進めようと努力し続けた人びと、そして被災地を去り別の土地で生活再建に取り組む人びと。その様子や語りの断片は、数々の著書に記録され[*12]、わたしの胸に生きている。こうした過去の震災の悔恨的な体験をもとに、今回の能登の「創造的復興」はどのような意味を与えられ、どのように展開されるのだろう。「創造的復興プラン」は、一見すると、ただの建前的なスローガン、合い言葉に見えるかもしれない。でも、この言葉にもとづいて、具体的な復興がこれから展開される。立ち戻れるのは、この計画に示される言葉だ。

 どうすれば、この言葉から、少しでも有意義なものを引き出せるのだろうか。能登に行って、聞いて、考えた話を、いくつかしてみたい。

従来のコミュニティと新しいネットワーク

 能登の創造的復興の話を進めるにあたって、どうしても欠かせない人がいる。少し長くなってしまうけれど、ここで紹介させてほしい。

 七尾市に住む、森山奈美さん。奈美さんは株式会社そぎがわという民間まちづくり会社[*13]の代表である。会社の始まりは、その名の示すように七尾の中心部を流れる御祓川の再生で、今も御祓川の近く、一本杉商店街の一角に事務所を構える。

 奈美さんの会社は、まち・みせ・ひとの3事業部からなり、御祓川大学(まち育て)、能登スタイルストア(みせ育て)、能登留学・能登の人事部(ひと育て)等の活動をおこなってきた。専門的なことに立ち入らないが、一言だけ記載しておくと、このようなまちづくり会社の起こりは会社の現在の実態とともに珍しい。通常、各市町にあるのは地元の商工団体、行政がつくった官製のまちづくり会社(通称三セク)が多い。一方、株式会社御祓川は完全に民間の町衆(奈美さんの父親も含む青年会議所の有志)が出資してできた民間会社である。地元の土着的・共同的なコミュニティを超え、NPO、市役所、民間事業者をつなぐ、生きたまちづくり会社と言える。

 同社は、2007年の能登半島地震をきっかけに能登全域に事業を広げ、七尾のまちづくりだけでなく、能登地域のまちづくりにおける中間支援(間接支援、他団体支援)を手がけるようになり、東京や各地の団体、企業、人びととの協働的・媒介的、あるいは仮設的・流動的なコミュニティづくりのつなぎ役にもなった。このことが今回の復興に少なくない影響を与えている。

 今回の地震後、2024年1月、NPO法人ETIC.(東京)[*14]等の支援などを受け、奈美さんは中長期の能登の復興を見据えた「能登復興ネットワーク(NRN)」[*15]を新たに設立し、避難所アセスメント、支援物資の調整、炊き出しの調整、情報共有会議、連続勉強会の開催、被災者の仕事づくりなどを行なった。

 奈美さんは、発災前より故郷である七尾、能登において、共同的・土着的なコミュニティの伝統やメンバーの境界を少しずつ変容させつつ、その存続を志向して、動いてきた。従来のコミュニティと、そこに属さない人々とのネットワークの上に、今回の奥能登の復興がある。

声を聞くこと

 前述した「創造的復興プラン(仮称)骨子」では、「Ⅰ 基本的考え方」の冒頭で、「被災地の住民・事業者の声を聞」くことが強調されている。6月の全体プランの公開を前に、4月の1ヶ月間にわたり、能登地域の各所で「のと未来トーク」[*16]という対話の場が開かれた。この対話の運営事務局を担うのは、発災後、いち早く能登に入り、子どもの預かり事業などをおこなった認定NPO法人カタリバ(東京)[*17]である。「のと未来トーク」のウェブサイトに掲げられている言葉を見てみたい。

のと未来トークは「これからの能登をどうしていくかを、そのまちに住む当事者のみんなで考える」ことをコンセプトとした対話の場です
 
「これからの能登をどうしていくかを、そのまちに住む当事者のみんなで考える」ことをコンセプトとした対話の場です。被災6市町(輪島市、珠洲市、七尾市、能登町、穴水町、志賀町)および金沢で開催します。

なりわいの再建や仕事、暮らしやインフラ、子育て、祭りや地域文化の継承、学校や子どもの居場所のことなど、あなたが話したいと思うテーマについて、みんなで一緒に話していきます。それぞれの市や町で話し合ったみなさんの声は、石川県庁にも届けていきます。

「能登のためになにかできることはないかな」と考えている方も、「もやもやするのでだれかと話しながら整理したい」という方も。おじいちゃんおばあちゃん、パパやママ、小学生・中学生・高校生などいろいろな方の参加をお待ちしています。

 自治体職員も多く被災し、かつ、奥能登は広域でもある。被災した自治体職員、保健師等だけでは、住民や事業者の声を聞くことは難しい。また、区長会、自治会、商工会議所、農協、青年会議所などの団体もおそらく同様に難しい状況だっただろう。

 このように、住民の声を聞く役割が東京のNPOに外注されたことは、従前の区長会や自治会など共同的・土着的なコミュニティがその機能を担いきれなくなっているという、今の能登の実態や政治状況を表す一つの答えなのだろう。

 NPOとして外からやってきた人々が聞ける声は、どうしても限定的なものにならざるをえなかっただろう。もちろん、共同的・土着的なコミュニティが、「声」を充分に聞けてきたとも、「誰もが参加」できる場であったとも、簡単には言えないのだけれど。

 そもそも被災地では、会場に足を運ぶことができる人は限定される。医療、介護、子育てなどでケアし、ケアされる人。能登を離れざるを得なかった人、家族や親しい人を失い、弔いの時間を生きる人。被災や復興という日常をくぐり抜けて生きる人びとの多くは、会場に足を運べなかったのではないか。

 もちろん、住民の声を聞くことの重要性は否定されるものではない。だが、このように住民の声を聞くという手法が、行政主導のまちづくりと強い近接性を持ってきたこと(行政の思惑や意向の維持のための方便となること)は、過去の災害復興の大切な教訓である[*18]。

 創造的復興のプロセスでは、声を聞いたという証跡をつくって満足するのではなく、会場では聞こえなかった声があることに、常に留意する必要があるだろう[*19]。

もっとゆっくり復興したかった

 「創造的復興」に話を戻したい。「創造的復興についてどのように考えているか」と、奈美さんの弟のあきよしさん(七尾自動車学校[*20]経営者)に尋ねると、次のように返ってきた。

今回の地震によって、持続可能な能登を創っていくことのハードルがめっちゃ高まっているんで、それをやっていくプロセス自体が実は復興だという感じです。復興はゴールではなく、プロセスの中にしかないと思っています。

 「復興はゴールではなく、プロセスの中にしかない」というのは、具体的にはどのような意味なのだろう。能登復興において「ハード優先」ではなく、人の復興はどのようになされているのだろう。尋ねると、次の投稿を教えてもらった。しろよねせんまい愛耕会で活動する堂下真紀子さんの投稿である[*21]。

もっとゆっくり復興したかった
白米千枚田では、復旧作業が始まっています。地震が起きて、あまりにもひどい災害だったので、最初は市も今年は千枚田に手をかけられる状態ではないとのことで始めたクラウドファンディング。市が手を回せないなら、地元で修復しようじゃないかと、意気込んでおりました。
しかし、2月頭から状況が変わり、国が、県が、大きな予算を持って動き出し、復旧がスピード感を持って進められてきました。

 輪島市白米町にある白米千枚田。海に面した約4ヘクタールの斜面に1004枚もの小さな田が連なる棚田で、国指定文化財名勝(文化庁)に指定されている。同区域を含む海に面した斜面一帯は、地滑り防止地域に指定されている。地滑りによる災害田を、小さく分けながら復旧していったため、現在みられる小区画の棚田の連なる千枚田の景観が生まれたという[*22]。棚田はその景観美が観光資源として取り上げられるが、その景色は、長い歴史に培われた、人の手による地滑り対策と復旧の現れでもある。
 堂下さんの投稿は続く。

でも、ずっと、早く復興することに何の意味があるんだろうと考え続けてきました。
今の千枚田は本当にボロボロで、時間をかけて、ゆっくり慎重に直さないと、余計にダメになってしまう。今は焦らず、一枚一枚、丁寧に元気な田んぼに戻してやる。今年は米作りはしない。それが私たちの最初の思いでした。
もちろん行政の力を借りないと、農業用水の損壊や、海側の雪崩のように崩れた棚田は直せません。莫大な予算が掛かります。[…]
だけど、もっと折衷案とか、なかったかな。[…]
千枚田には「復興のプロセス」が欠かせないということを、行政にもずっと訴えてきました。形だけ復興しても、意味がない。

 千枚田は、形だけ復興しても意味がない。千枚田に価値があるのは、田が1000枚あるからではない。山がちで平地の少ない奥能登で生きていくために、人々が長い年月をかけて協力し合って、一枚一枚田を拓き、耕し、保ってきたからだ。結果ではなく、その過程にこそ価値がある。現代のやりかたで、形だけは以前と同じものをつくるとすれば、それは巨大な古代神殿を重機とコンクリートで建てなおすようなものだ。それがだめというわけではない。拙速を避けて、丁寧に行えば、意義深いものとなりうる。

 「スピード感を持った復旧」など、復興には早さが至上命題であるかのように、わたしは考えてきた。それが、いち早く復旧し、早く元通りの生活、日常を戻したいという被災者の心情にも沿うものだと思っていた。明能さんも「自分も急ぎたくなる経営者としての危機感もあるから余計に考えさせられた」と話した。

 この投稿には、この棚田が行政によって「復旧・復興のシンボル」とされたことで、期間が短縮され、プロセスの何かが除かれてしまった、その除かれた何かこそが大切だったということが、切々と述べられている。「復興が早すぎると感じて心がついていかないときもあった」とは、東北でも聞かれた声である[*23]。「『復興の遅れ』が脅し文句となって」その土地の人びとから復興のプロセスを奪ってしまうこともある。

 予算があるのなら、早く復興させなければならない、という発想をする人が多い。そうではなく、その予算の一部で、時間を買うことはできないだろうか。その土地の人びとが手探りや対話、試行錯誤を行うためのプロセスと時間を買えるように、この場所らしく復興するのを待てるように、予算を使えればいい。観光客だって、拙速な復興の景観よりも、その土地の人びとの手によるその土地らしい復興の景観をこそ、きっと本当は求めているだろう。そのために時間が必要なら、きっとゆっくり待ってくれるだろう。

 今後も、月命日には「復興の遅れ」が指摘され続けるだろう。そのとき、もっとゆっくり復興したかった、という声を思い出せるよう、心に留めておきたい。

祭りのこと

 能登の人々にとっての「創造的復興」とはどんなものだろう。能登で出会った人々に「復興ってどういうことなんでしょうか」と(素朴すぎる)問いかけをした。すると口々にこう返ってきた。「前と同じように祭りができること、かな」。

 このゴールデンウィークに、初夏を告げる祭りが能登の各所で形を変え、規模を縮小して開催されているのをSNSで眺めていた。こんな時こそ「祭り」、という言葉が、次々と能登の人びとの間でシェアされていた。

 奈美さんも、明能さんも、七尾に1000年以上続くせいはくさいをこよなく愛している。2人と話していると、祭りが自らの存在を根源から包む存在なのだという確信めいたものがまっすぐに伝わってきて、その祭りや場所の土着性を持たないわたしは、毎回圧倒され、途方に暮れる。その物語に自分は同化できない、いや、同化しなくていい。余所者のわたしが何を見て、何を書くのか。祭りの承継をしたいという人びとを前に毎回、思考停止してきた。

 祭りとは何だろう、地域とは何だろう、と改めて思う。生活もままならない緊急時に、祭りを執り行うこと。災禍の中にありながら、何を押しても祭りを行いたいという能登の人びとの話を聞いていると、それは「一時的に気を紛らわせたり、内外に復興を呼びかけて元気づけるといった解釈」[*24]では全く捉えきれなかった。

 「祭りをしたい」というのは、その土地に根を張った生活を回復したい、ということの象徴的な表現だと思う。人々が土地に、根を張り、幹を伸ばし、葉を茂らせ、そこに咲く花が祭りであるとすれば、祭りの回復が復興の証というのは、本当にそうだろう。それは、花の形をした何かを飾れば足りるという話ではない。今年だけ無理やり花を咲かせればいいということでもない。もとどおりの花を咲かせるというのは、葉や幹や根も含めた話である。

 そしてそれは、これまでの祭りをただ回復すればいい、前のように回復するしかない、ということでもない。そもそも、祭りを担ってきた土着的なコミュニティが「誰もが参加」できる場だったとは簡単には言えないし、「家」(イエ)にも地域(まち)にも会社にも、もはやわたしたちの拠り所はなくなっていただろう。

 今後、こうした土着的なコミュニティが砕かれたまちで、わたしたちは、従前のように共通の(共通と思われてきた)利害を届ける集団を特定できないなか、「家」(イエ)の代表でも地域の代表でも会社の代表でもなく、個人として自由に立つことが許されるようになった――いや、自由に立つことに耐えなければならない。そのように自由に立つ個々人をつなぐものがあるとするなら、どのようなものなのだろう。

 奈美さんはかつて「(女に生まれた)自分は50年住んでも、(祭りの中に)居場所と役割を持てなかった」と言った。そうしたコミュニティの中で育った奈美さんは、それでも故郷を離れることなく、まちづくり活動の模索を通してこれに抗し、媒介者として自らの故郷をその持続のために開いた。(自らは持てなかった)居場所と役割を開き、共同的・土着的なコミュニティを少しずつ変容させてきた。それによって、協働的・媒介的、あるいは仮設的・流動的な拠り所が、七尾、能登に生まれつつある。奈美さんのそのような仕事が「創造的復興」の道筋を照らす。それはとうみょうのように。

 2022年11月に始まった本連載「まちは言葉でできている」は、今回で最終回となります。

 わたしが身を置いてきたまちづくりの分野は、子ども、未来、再生、持続可能、創造的など、いつの時代も前向きで明るい言葉を連れ立って走ってきました。しかしながら、その実際は、その言葉の裡に、いくつもの課題を抱えてきたし、抱えないために、言葉にしないことで目を瞑ってきた分野でもあります。国家と個人、企業と個人、国と地方、ジェンダー、世代、いくつもの不均衡や非対称性が横たわってきました。

 この連載では、日常生活において作動する、その見えにくい暴力を可能にしているまちづくりの言語に目をこらしました。そして途中からは、その暴力に抗する人びとの活動と言葉を見てきました(可能な限り、耳をすませようとも努めました)。同時に、わたしたちの日常を大きく規定する制度やその運用にも触れてきました。でも、一番、書きたかったのは、まちづくりという制度や事業の射程や対象に収まらない普通の、日常の景色だったように思います。

 この連載で、読者の皆さんに出会い、この連載についての言葉をいただけたことは、覚束ない筆の何よりの支えであり、同時に望外のよろこびでした。読んでくださり、ほんとうにありがとうございました。どこかできっとまたお会いできれば幸いです。どうかくれぐれもお元気でいらしてください。

(了)


【注釈】

[*1]「石川県創造的復興プラン(仮称)骨子

[*2]創造的復興という言葉は、復興に関する検証の中で批判的に用いられることが少なくない。岡田知弘(経済学)によれば、この言葉の誕生した阪神・淡路大震災において「ハード事業を優先した『創造的復興』の結果は、惨憺たるものであった。復興事業の多くが被災者の生活再建に結びつかないものであ」ったし、「震災後2年間に集中した復興需要14.4兆円(うち公共投資3割)の90%が被災地外に流出してしまった」との指摘がある(「農山漁村の復旧・復興のあり方――「人間の復興」を中心にした地域経済の再生」『農林業問題研究』48巻3号、2012年12月、15〔359〕頁)。
 ほか、五十嵐敬喜・加藤裕則・渡辺勝道『震災復興10年の総点検――「創造的復興」に向けて』岩波書店、2021年では創造的復興に関してのハード面、ソフト面からの点検がなされつつ、批判的に論じられている。千葉昭彦・塩崎賢明・長谷川公一・遠州尋美・みやぎ震災復興研究センター編『東日本大震災100の教訓――復興検証編』クリエイツかもがわ、2023年においても、坂井直人(18-21頁)、小川静治(60-61頁)らより同様の指摘がある。山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』青土社、2024年においては「こうした[創造的]復興事業が、三陸沿岸の『開明化/開発化』を正義とし、近代を標榜する古い欲望に支配されるなら、さらなる〈東北〉の敗北は明白である」(101頁)等の指摘がなされている。

[*3]「新全国総合開発計画(増補)」1969年5月30日(1972年10月31日一部改訂)

[*4]「第三次国土形成計画(全国計画)」令和5年7月28日閣議決定。「国土形成計画(全国計画)参考資料」3頁より。

[*5]山秋真『ためされた地方自治――原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』桂書房、2007年、落合誓子『原発がやってくる町――『トリビューン』能登より』すずさわ書店、1992年など。

[*6]兵庫県「-阪神・淡路大震災- 復興10年総括検証・提言報告《第2編 総括検証》」1頁より。

[*7]「東日本大震災復興基本法」2011年6月24日公布・施行

[*8]宮入興一「東日本大震災と復興行財政の到達点 教訓と課題」「『東日本大震災100の教訓――復興検証編』27頁より。

[*9]惨事便乗型資本主義ディザスター・キャピタリズムとは「壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為」のことである(ナオミ・クライン著、幾島幸子訳、村上由見子訳『ショック・ドクトリン 上――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』岩波書店、2011年、5-6頁)。「非被災地に本拠を置く復興ビジネスや多国籍企業のための『惨事便乗型』の『創造的復興』ではなく、何よりも被災者の生活再建とそれを支える被災地の地域産業の再生を最重要視した『人間の復興』の道こそ、求められている」との指摘がある(岡田「農山漁村の復旧・復興のあり方」12-13〔356-357〕頁)。

[*10]2006年、阪神・淡路大震災から10年が過ぎた頃、「いつまでも孤独死がなくならず、まちづくりで苦闘する人たちを見て、これは災害の後の復興政策や事業が間違っているからではないか」、「震災で一命をとりとめたにもかかわらず、復興途上で亡くなったり、健康を害して、苦しんだりする人びとが大勢いる」として、塩崎賢明(都市計画)が「復興による災厄」を呼んだ言葉。「自然の猛威でなく、社会の仕組みによって引き起こされる人災であり、本来、防ぐことが可能な災害である」(塩崎賢明『復興〈災害〉――阪神・淡路大震災と東日本大震災』岩波書店、2014年、ⅱ頁)。

[*11]災害パターナリズムとは、「直近の被害の大小を基準に『危ないからもうそこに住んではいけない』あるいは『帰ってはいけない』という“善行的要素(beneficence)” にもとづく大小の政策にそなわる干渉行為」のこと(植田今日子「なぜ被災者が津波常習地へと帰るのか――気仙沼市唐桑町の海難史のなかの津波」『環境社会学研究』有斐閣、第18号、2012年、77頁)。

[*12]中田英樹・髙村竜平編『復興に抗する――地域開発の経験と東日本大震災後の日本』有志社、2018年、歴史学研究会編『歴史を未来につなぐ――「3・11からの歴史学」の射程』東京大学出版会、2019年など。

[*13]株式会社御祓川

[*14]NPO法人ETIC.

[*15]能登復興ネットワーク(NRN)。現在も継続して行っているのは、発災翌日からはじめた情報共有会議と連続勉強会である。共有会議は2か所で実施、能登全域の共有会議(毎週木曜日20時〜21時オンライン)と七尾市のエリア限定のものだ(現地&オンラインのハイブリッドで2週に1度)。共有会議では、挙げられた課題をもとに、七尾市はじめ各市町、ボランティアセンターなどに出向き、課題解決のためのコーディネートを行うのが目的だ。5月8日の回には七尾市長も参加して行われていた。また、今後は、前出の創造的復興プランを受け、市町ごとに具体的プランを書いていくという流れになる。それを見据え、市町の職員、県民の学びを深めるために、「創造的復興」のための連続勉強会をすでに11回開催している。過去の勉強会のアーカイブもNRNのサイトで見られるようになっている。また奈美さんは、「ボランティアを必要とする事業者、被災者のニーズを聞き、コーディネートする機能があれば、もっとうまく回っていくのではないか」と考え、民間でのボランティアセンターを作れないかと動いてきた。現在(2024年5月14日時点)、ボランティアの受付は、被災地の社会福祉協議会の中に設置された災害ボランティアセンターで行われ、その中でボランティア活動の調整がなされている。しかし、ボランティア登録をしていても、送り先が何をして欲しいかのニーズを拾ってくるところに手が届いていないという。詳しくは全社協「2024年能登半島地震 特設ページ」も参照。

[*16]のと未来トーク

[*17]認定NPO法人カタリバ

[*18]行政主導のまちづくりは、従前、住民主導のまちづくりと対置される概念であったが、2000年代以降、新自由主義と近接性のあるコミュニティ支援と相まって、両者は一見すると近接性を持ってきた。しかしながら、そもそも上からのまちづくり、下からのまちづくりというものが明確に区分されてあるわけではもちろんない。行政主導に見えても住民の意見が丁寧にしぶとく届けられ、深く盛り込まれるケースもあれば、逆のケースも存在する。森山奈美さんの活動からはそのことが学び取れよう。

[*19]株式会社御祓川は、石川県「創造的復興プラン」立案に向けたご意見募集について、そのヒアリング調査業務を受託した(参考:石川県創造的復興プランへのご意見募集)。「ウェブで意見を発信できにくい方々のもとにアウトリーチで意見を伺いに行く」として、奈美さんたちはきっと、名前のない声も、弔いの体験も、分かち合うように聞き取ったのだろう。ただ、スローガンや合い言葉ではない能登の復興の論理を立ち上げていくために、口に出せない、声に出せない、言葉にできない者に寄り添い、話を聞くには、期間があまりに短い(意見募集期間はほぼ1ヶ月しかなかった)。復興プラン作成の時間と決定プロセスについては課題がある。

[*20]七尾自動車学校。明能さんの家業の自動車学校も大きな被害を受けた。後背地の地盤が傾いたのか、自動車学校の寮が一棟使えなくなっていた。寮の基礎も真ん中で割れていた。まだローンもあるのに、建て直さなくてはいけないという。その隣の「TADAIMA」と名付けられ、去年、竣工した宿泊・交流施設は無事だった。見せてもらったが、ここが無事に残って、本当によかった。TADAIMAはメインは合宿免許取得者用の宿泊施設だが、閑散期は一般向けに宿泊施設としても利用できる。今回の被災でTADAIMAは自主避難所として地域に開かれ、多い時で100名の被災者が身を寄せたという。地域企業の役割の大きさを改めて教わった。

[*21]2024年4月22日5時55分のフェイスブックにおける投稿

[*22]竹内常行「棚田の水利――信州姨捨、能登輪島、越後早川谷の場合」『地学雑誌』84巻1号、1975年、13頁

[*23]中田・高村編『復興に抗する』73頁

 [*24]植田今日子「なぜ大災害の非常事態下で祭礼は遂行されるのか――東日本大震災後の「相馬野馬追」と中越地震後の「牛の角突き」」、『社会学年報』42巻、2013年、44頁

著者:西本千尋(にしもと・ちひろ)
1983年埼玉県川越市生まれ。埼玉大学経済学部社会環境設計学科、京都大学公共政策大学院卒業。公共政策修士。NPO法人KOMPOSITION理事/JAM主宰。各種まちづくり活動に係る制度づくりの支援、全国ネットワークの立ち上げ・運営に従事。埼玉県文化芸術振興評議会委員、埼玉県景観アドバイザー、蕨市景観審議会委員、歴史的建築物活用ネットワーク(HARNET)事務局ほか。
大学時、岩見良太郎(埼玉大学名誉教授/NPO法人区画整理・再開発対策全国連絡会議代表世話人)に出会い、現代都市計画批判としてのまちづくり理論を学ぶ。2005年、株式会社ジャパンエリアマネジメントを立ち上げ、各地の住民主体のまちづくり活動の課題解決のための調査や制度設計に携わる。主な実績として、公道上のオープンカフェの設置や屋外広告物収入のまちづくり活動財源化、歴史的建築物の保存のための制度設計など。
以上の活動経験から、拡大する中間層を前提とした現行の都市計画、まちづくり制度の中で、深まる階層分化の影響が看取できていないこと、また、同分野においてケアのための都市計画・まちづくりモデルが未確立であることに関心を抱くようになる。2021年、その日常的実践のためNPO法人KOMPOSITIONへ参画。同年、理事就任。

連載『まちは言葉でできている』について
都市計画は「都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与すること」を目的に掲げ、新自由主義体制の下、資本の原理と強く結びつきながら、私たちの生活の場を規定してきた。そうした都市計画制度の中に、住民や市民が登場することはほとんどなかった。しかし今、経済成長と中間層拡大という「前提」を失った都市は、迷走している。誰のための都市なのか、それは誰が担うのか……。
「都市計画」はそもそも得体が知れない。だからこそ私たちは、それと対峙し、言葉で批判を展開するのに苦労する。しかも、言葉を飲み込んでしまえば、その沈黙は計画への「同意」を意味することになる。望んでもいなかったものが、望んだものとされてしまう。あまりに理不尽で、あまりに摩訶不思議な世界ではないか。
本連載では、「みんなのため」に始まる都市の暴力に屈しながらも抗うために、「わたしたちのまち」を「わたしたちの言葉」で語り直すことから始めたい。都市計画やまちづくりのもつ課題を「ケア」の視点からパブリックに開くためにも、「言葉」を探っていきたい。