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言葉の網目で個をつつむ|荒井裕樹|第15回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」受賞スピーチ【全文公開】

 2022年4月22日(金)、神田神保町の出版クラブホールにて、第15回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」の表彰式と記念講演会がおこなわれました。本賞は、個別の「作品」ではなく「人」そのものに、過去の「業績」ではなく今後の「可能性」に対して与えられるものです。栄えある第15回の受賞者は、文学者の荒井裕樹さん。柏書房からは『まとまらない言葉を生きる』を出版いただいています。

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 コロナ下での開催であったため、限られた関係者のみを集めての会となりましたが、そこで荒井さんが語ったことは、人を追い詰め、黙らせる言葉があふれる現代社会において、言葉への「信頼」を取り戻すための第一歩となるようなものでした。広く読まれるべきと思い、ご本人の許可を得て、受賞講演を全文公開させていただきます。荒井さん、このたびは本当に、おめでとうございました。

写真提供=NPO法人 わたくし、つまりNobody

受賞講演「言葉の網目で個をつつむ」

 この度は、このような栄誉ある賞を賜りまして、誠にありがとうございます。長引くコロナ禍にあって、あらゆることに大きな負担がかかる日々が続いています。そうした困難な状況にもかかわらず、わたくしのような者をご選出くださり、またこのような式を設けてくださったことに、心から感謝申し上げます。
 授賞式にて20~30分程度のスピーチをせよとのことですが、正直、私はスピーチや講演のたぐいが本当に苦手です。理由はいくつかあるのですが、自分の話に多くの人が真剣に耳を傾けるという状況が、なんだか耐えられないのです。
 私は基本的に自分に自信がない人間で、私の話に耳を傾けていただくほどの価値があるとは思えないのです。多くの人が真剣に聞いてくださっているという状況が、なんとも「申し訳ない」という感じがしてしまいます。
 今日はその申し訳なさを噛みしめながら、皆さまに少しだけ「思い出話」のようなものをさせていただければと存じます。

 大学院に進学してから、日本の障害者運動史を研究しはじめました。もう20年くらいの時間が経過したことになります。振り返ってみれば、この間、ずっと「国家や社会にあらがうマイノリティ」を追いかけてきたように思います。
 ただ、私が追い続けてきたのは「巨大権力に立ち向かった果敢な英雄」というわけではありません。正確に表現するのがちょっと難しいのですが、強いて言えば、「自分自身の痛みと向き合い続けていたら、いつの間にか国家や社会といった大きなものに歯向かわざるを得なくなった人生を、結果として歩んでしまった人物」ということになるでしょうか。
 最近は、「個人と国家」の関係や、「個人と社会」の関係について考えてきました。特にいま、ロシアによるウクライナ侵攻が問題になっています。ロシア国内の情報統制や言論弾圧なども連日報道されています。これは、ここ10年くらいの日本国内の状況を省みても、決して「対岸の火事」では済まないでしょう。いま私たちは、かつてないほど「個人と国家」の関係性について真剣に考えなければならない時代を生きているのかもしれません。
 そもそも、個人は国家に抗うことができるのか。なぜ個人が国家のような大きなものと対峙せざるを得ない状況が生まれるのか。個人が大きなものに歯向かうことにどんな意味があるのか。こうした問いについて、取り憑かれたように考え続けてきました。

 「個人と国家」の問題を考えようとすると、とても難しい問題が生じます。何か大きなものと向き合う個人。その個人の「個」のありようを、どうやって表現すればよいのか。その個人の内実を、その個人の尊さを、かけがえのなさを、大切さを、どうやって言葉にのせて表現すればよいのか。いつも、いつも、悩みます。
 個人の尊さは、いつも、この身に感じていて、その感覚自体は説明する必要がないほど明らかなのに、それを伝えようとして言葉を紡ぐと、するすると糸がほどけていくような気がします。
 今日は、私がこのようなことを考えるようになったきっかけ、私がこのような「物事の考え方」をするようになる機会を与えてくれた人たちについて思い出話をすることで、スピーチに替えさせてください。

 思い返せば、私の研究はハンセン病療養所へのフィールドワークからはじまりました。私がハンセン病療養所に通い出したのは大学院修士1年生の時だったので、2003年のことです。
 ハンセン病療養所では、いろいろな方に出会いました。いろいろなお話をうかがいました。過去に行なわれた壮絶な差別や迫害の経験もうかがいました。施設の中で不妊手術を受けさせられた方。強制的な堕胎手術を経験した方。施設の中で命を絶った人の話。そうしたつらく苦しいお話もうかがいました。一方で、心温まるようなお話もたくさんうかがいました。施設の中での友情や恋愛の話もうかがいましたし、厳しい病院の管理の目を盗んで、あれこれと面白いことをやろうとする人たちの話もうかがいました。
 お一人だけお名前をあげます。山下みちすけさんという方です。療養所の中で、自分たちの歴史を残すための資料保存活動に尽力されていたハンセン病の回復者です。この方との出逢いが、私の研究者人生のはじまりだったのではないかと思います。
 山下さんには、いろいろお話をうかがい、たくさんの資料を見せてもらいました。昔の患者が書いた文章や詩なども見せてもらいました。中には、本当に「紙切れ」としか言いようのない紙や、おそらく薬包紙――薬を包んでいた紙のようなものだろうと思うのですが――、そうした紙に書かれた詩なども見ました。
 数十年前に誰かが書いた詩。そこに生きていた誰かがつづった言葉。ハンセン病患者は差別をおそれて偽名を名乗ることが多かったので、どこの誰かもわかりません。20代前半の頃の私は、山下さんのところに行っては、そうした「昔の誰かが書いた言葉」を取り憑かれたように眺めていました。残された言葉のかけらから、そこに生きた人の存在を復元しようとする訓練――というと少し格好付けすぎかもしれませんが、そうしたことをしていました。
 ハンセン病療養所では「昔の患者の言葉を書き写す」ということを、よくやっていました。私自身、昔の患者の残した言葉とどう向き合っていいのか分らなかったので、とにかく「書き写す」ということをしました。昭和初期の患者の手書きの原稿用紙が800枚くらい出てきたことがありました。それを一文字一文字、ワードファイルで書き写しました。患者たちが発刊していた雑誌もありました。ガリ版刷のものです。それも大正8年から12年のものまで書き写しました。作家・ほうじょうたみの日記も、最晩年・昭和12年の分を一年分、書き写しました。とにかく、患者の言葉をなぞることからはじめたのです。こうして「残された言葉と向き合う」ということが、私の研究者修行の第一歩だったように思います。山下さんのところで3年ほどでしょうか、ハンセン病の歴史や文学について勉強をさせてもらいました。

 そのあと、私は重度脳性麻痺の作家で障害者運動家の花田しゅんちょうさんという方に出会いました。『しののめ』という、障害者たちの文芸同人サークルがありました。昭和22年、1947年の結成です。身体障害の当事者たちが結成し、自分たちだけで運営した文芸誌としては、おそらく最も古いものだろうと思われます。花田さんはこのサークルの主宰を長らく続けられた方でした。詳しい話は省きますが、日本の障害者運動の原点、あるいは水源地となったような方です。
 ちなみに、春兆さんがどれくらいの年代の方かというと、「2・26事件」のことを覚えていたような世代の人です。麻布連隊の歩兵たちが銃持って走っていた姿を実際に目撃したような方でした。
 私は、この春兆さんの付き人のようなことを4~5年ほどやりました。本当に文字通り「師匠と弟子」といった関係だったように思います。俳句の分野でも著名な方だったので、門前の小僧式に俳句も学びました。月に一回、「しののめ」の会合に、春兆さんの分のお弁当を作って参加したりしました。
 春兆さんのご関係で、これもまたいろいろな人にお会いしました。障害者団体は、小さなものから大きなものまで、いろいろな方々に会いました。政治家や官僚にも会いに行きました。そういえば、GHQの元厚生官僚にも会いに行きました。当時、御年90歳だったと記憶しています。本当にマッカーサーのオフィスに出入りしていたような方でした。
 あちこちの集会にも行きました。ちょうど自立支援費制度から障害者自立支援法へと切り替わる時期で、日比谷公会堂での集会やデモにもよく行きました。日比谷公会堂は、私の青春の一コマとなる場所かもしれません。
 あのころ、JR田町の駅を降りて慶應大学の商店街に入るところの雑居ビルに、安いチェーン系の居酒屋があったんです。そこが「しののめ」定例の打ち上げ会場で、だいたい月に一回はそこで飲み会をやっていました。参加者の方々も多種多様で面白かったです。誰もが知る国民的漫画家のアシスタントをされていた方とか、有名百貨店の元接客担当者とか、様々な経歴の方々がいました。ここでも、いろんなお話をうかがいました。戦時中に障害児の学校が長野県に疎開したのですが、そのご経験者のお話とか、敗戦直後の硫黄島に上陸した人の話とか、当時はメモも取らずに聞いていましたが、いまとなっては貴重な証言なのでしょう。
 春兆さんは当時、麻布にある特別養護老人ホームにご入居されていましたので、そこにもよく通いました。3階の個室でしたね。原稿の相談とか、雑誌の企画会議とか、単行本や句集の準備とか、そういったお仕事のお手伝いもしました。あとにもさきにも、特別養護老人ホームの個室を仕事部屋にしている人は春兆さんしか会ったことがありません。
 春兆さんのご縁で、青い芝の会の横田ひろしさんにもお会いしました。「伝説」とまでささやかれた障害者運動家の方ですね。障害者差別とはなにかといった問題を一からたたき込んでもらいました。
 それから、出版関係の方ともご縁ができました。私の博士論文は、ハンセン病患者の文学をあつかったものが『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』として書肆アルスから、障害者の文学活動を扱ったものが『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』として現代書館から刊行されています。どちらも、ご担当くださった編集者の方とは「花田春兆人脈」の中で知り合ったのでした。
 春兆さんがつねづねおっしゃっていたことがあります。障害者や障害者団体が作ってきた雑誌や会報、そうしたものは必ず将来役に立つ。だから専門の資料館が必要だ、というお話でした。
 実際、障害者団体の雑誌や会報類は本当に貴重な資料です。20代の半ばのある一時期、おそらく、私は日本国内で発行された障害者団体の機関紙や会報のたぐいを最も広く読んでいた人物の一人だったと思います。三田にある障害者福祉会館の図書室と資料倉庫で、来る日も来る日も、雑誌や会報をながめていました。
 考えてみれば不思議な気がします。障害者団体の会報というのは「言葉が印刷された紙」です。この「言葉が印刷された紙」で仲間を募り、支え合い、怒りや悲しみを分かち合い、苦労を励まし合う。こうしたコミュニティが維持されていたわけです。花田春兆という師匠のもとで、こうした言葉との向き合い方を学んだ気がします。

 私の人生を変えてくれた人たちを、もう一つだけ、紹介させてください。
 20代の終わりから30代の前半にかけての5年間くらいでしょうか。私は東京都八王子市にある精神科病院・平川病院の〈造形教室〉に週一回、通っていました。ここは造形作家のびここうへいさんが主宰するアトリエです。アトリエですが、精神科病院の中にあります。ここには心を病んで通院・入院する人たちが通い、絵筆を通じた自己表現によって病み疲れた心を癒す、という営みが続けられています。
 ここでの活動も、私にとってはとても意義深いものでした。みんなで絵を描いたり、お昼ご飯を食べたり、おそばを茹でて食べたり、公共施設を借りて絵画展をやったりしていました。時には病棟の中にも飾りに行ったりしました。造形教室と連携のある他の精神科病院にもよく行きました。
 もちろん精神科病院ということもあり、ここに集まる人たちは皆さん、大きな悩みや苦しみを抱えています。私には想像もできないような事情を抱えていらっしゃる方もたくさんいました。正直、しんどいお話もたくさん聞きました。でも、それと同じくらい、楽しい思い出もありました。ここに通っていた時期、毎日のように、どうして人は表現をするのか。自分のことを誰かに伝えようとするのか。人にとって表現とは何なのか。そんなことばかりを考えていました。ここでの活動のことは、『生きていく絵――アートが人を癒すとき』という本にまとめ、2013年に出版しました。とても思い入れのある一冊です。

 と、本当はまだまだ紹介したい人がたくさんいるのですが、とりあえず、ここで思い出話を閉じます。問題は、こうして出会ってきた人たちの、それぞれの人生を、どうすれば「書く」ことができるのかという点です。
 思い返せば、これまで私が書いてきた本は「私以外の誰か」についての本です。
 他人の人生を私が語ることなどできるのか。語ってしまってよいのだろうか。いつも、いつも、そうしたことに悩みます。悩むのですが、それでも「書きたい」「誰かに伝えたい」と思えるような人と出会ってきたように思います。本当に畏れ多いことだとは思いながら、「他人の人生について書く」ということを続けてきました。
 自分以外の他人について書くのは、どうすればよいのか。どれだけその人のことを知ったら、その人について書けるのだろうか。何年、何回、取材を重ねれば、その人のことを知ったことになるのか。これは、いつもいつも悩む問題です。
 きっと正解のない問題なのでしょうが、私は私なりの一つの「感覚」にしたがって本を書くようにしています。それは、自分が書きたいと思う相手――取材対象者といってよいかもしれません――、その取材対象者の口癖が、ふと自分に乗り移る瞬間があるんです。何年も時間をかけて、その人の話に耳を傾け、その人の書いた文章に目を凝らしていると、ふと、そんな瞬間があるんです。「こんなとき、あの人だったらこう言うだろうな……」。そんな感覚です。そうした感覚が得られたら、その人について書いても大きくは間違わないというか、自分なりに責任が持てるというか、そんな漠然とした自信が持てるのです。
 私としては、だいたい5年くらいでしょうか。5年くらい取材したり、対話を重ねたり、勉強をさせてもらったりすると、なんとか責任が持てるような言葉を綴れる気がします。

 5年で一冊。これは変化の激しい現代社会のスピード感からすると、まったく追いつきません。「速さ」という点では、私の言葉はこの社会にとってまったく役に立たないでしょう。
 現代社会は、言葉が速すぎるようにも思います。速すぎる言葉は、往々にして編み目が粗い。粗い編み目から一人一人の存在が、ぽろぽろとこぼれ落ちているように思えてなりません。この20年近くの日本の政治・社会状況を振り返ってみても、人々の焦燥感をかきたてたり、弱い立場の人への攻撃心をあおったり、同じ歩調で歩けない人たちを置き去りにしたりするような言葉がたくさん流通しているように思います。
 でも、というか、だからこそ、というか、速さや効率という以外の言葉の力を探し求めたいと考えています。これまで私の書いてきた本は、そうした早くて網目の粗い言葉への、せめてもの抗いだったように思います。

 では、細かく柔らかな言葉の網目で一人ひとりをどう包み込んでいくのか、という問題になるのですが、それは私にとっては、「個人の尊さをいかに言葉で表現できるか」という問題になってきます。
 最後に、この「個人の尊さ」あるいは「尊い個人へのいとしさ」といった方がよいかもしれませんが、そうした感覚を言葉にできるかどうかについて少しだけ言葉を足して、スピーチを終えようと思います。 

 実は本日4月22日は、私にとっては切ない日でもあります。
 昨年の12月24日。札幌市内の病院で、尊敬する友人のはらひろさんが生涯を終えられました。海老原さんは、よくNHKの福祉番組に人工呼吸器をつけた姿で登場されていたので、ご存じの方も多いかもしれません。重度障害者の地域生活の啓発・推進に尽力された方です。2016年度の「東京都女性活躍推進大賞」を受賞された際、小池都知事に、「人間の価値に優劣をつけず、どんな人でも共に在ることを楽しめる豊かな」社会をつくってほしいという手紙を渡したことでも有名になりました。
 今日、この海老原さんのお別れ会が都内の某所にて行われています。実は、私がお世話になった方の多くも、そちらにご参加されています。
 難病の方というのは、どうしても、いのちがはかないところがあります。海老原さんご自身、難病者は儚いんで、なんておっしゃっていました。実際「またね……」なんて言って別れて、それが最期になってしまうということもありますし、これまでにもありました。
 だからこそ、難病と共に生きる人とは一度一度の出逢いを噛みしめ、大事にし、一瞬一瞬をいとおしみ、いつくしみ……と、そう思う一方で、でも、もしも今日が最期の出逢いになってしまうかもしれないとしても、ふつうに、いつもの通りに話したり、語ったり、したいのです。
 いつもの友だち。いつもの感じ。いつもの関係。この「いつもの」という感覚。そこにこもる、ほの温かな感覚。これは、なかなかどうして言葉にできません。なんというか、なにか特別に気負わなくても、その人がその人であることだけで自然に発するきらめきのようなものがあって、その一瞬一瞬のきらめきをごく自然に呼吸するように言葉で紡ぎたいと思うのです。
 私はこれからも、こうした感覚を言葉にしたいと思っています。

 頂戴した時間が参りました。これで私のスピーチを終えようと思います。ご静聴、ありがとうございました。

受賞者略歴

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年、東京都生まれ。 専門は障害者文化論、日本近現代文学。 東京大学大学院人文社会系研究科修了。 博士(文学)。 二松学舎大学文学部准教授。 障害や病気とともに生きる人たちの自己表現活動をテーマに研究・執筆を続ける。 著書に『隔離の文学──ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『生きていく絵──アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『差別されてる自覚はあるか──横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『障害者差別を問いなおす』(筑摩書房)、『車椅子の横に立つ人──障害から見つめる「生きにくさ」』(青土社)、『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)などがある。2022年、第15回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」を受賞。

最後に一言

 荒井さんの「今後」のお仕事を、最後に紹介させていただきます。以下は、ご本人からです。

 1974年4月20日、上野の東京国立博物館でレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』が公開されました。その展示会場で『モナ・リザ』にスプレーを噴射した女性がいました。ここ数年は、ずっとこの問題について考えていました。
 この行動の動機は何だったのか。決して簡単には語れないし、的確に要約することもできないし、容易には語り尽くせない思いがあったのだろうと思います。これについては、6月に現代書館から『凜として灯る』というタイトルで刊行を予定しております。
 小さな個人の、その個人が抱える「語りえぬもの」を包めるような、言葉の網目を紡ぐことに試みました。どこかで手に取っていただけたら幸いです。

 荒井さんの「これまでのお仕事」、そして「これからのお仕事」に、引き続きご注目ください。最後までお読みくださりありがとうございました。

『まとまらない言葉を生きる』(柏書房、現在5刷)


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