くだらないものがわたしたちを救ってくれる|キム・ジュン【プロローグ公開】
2022年7月8日に、キム・ジュン 著『くだらないものがわたしたちを救ってくれる』(米津篤八 訳)が配本となります。
本書は、基礎研究にたいする風当たりの強い韓国で、〝研究奴隷〟としてなんとか日々を生き延びながら、最愛の〝推し〟こと「線虫」を研究する、1990年生まれの若き科学者が綴ったエッセイです。
(今の社会では)くだらない(とされがちな)ものや〝推し〟に救われたことがある人には、きっと刺さる魅力をもった本だと思います。本稿ではプロローグを特別に公開します。
プロローグ 科学という旅
その日は夏なのにあまり暑くない、変な天気だった。夏休みを迎えて暇になったわたしは、ただ家でごろごろしていたのだが、ふと思い立って家を出た。最初は町内をぶらぶらした。そのうちに地下鉄の駅に着いたので、そのまま地下鉄に乗ってみた。どこに行くというあてもない。ソウル環状線の2号線に乗ったついでに、ソウルを一周してみようと思った。
こうして何の計画もないまま、不思議な夏の日の短い旅が始まった。何か目的があるわけでもないので、そのせいか、いつも通り過ぎている駅の風景ものどかに見えた。そうしているうちに、高校の最寄り駅に到着し、わたしは習慣のようにそこで地下鉄を降り、駅の外に出た。毎日のように通っている町だったが、いつもと違って暇を持て余しながらのんびり歩いていると、だんだんといろいろなものに目が行き、細かく観察するようになる。さらにゆっくり、すみずみまで見渡していると、初めて足を踏み入れる新世界を旅しているような新鮮な気分になった。この町にこんな建物があったっけ。この前まで食堂だったのに、いつの間にか新しい店ができている……。日常の空間が見慣れぬ世界に変わり、わたしを取り囲んだ。タイムトラベラーになったような気分。記憶と感覚が入り乱れ、むずむずするようなその思い出は、ぼんやりと、しかし長くわたしの記憶に刻まれた。
わたしにとって科学を学び探究する道筋は、こんなタイムトラベルに似ている。まるで時間が止まったように、少しずつ、新鮮な気持ちで世界を見つめる過程だからだ。
子どものころから、科学者になるのが夢だった。くだらないことが気になるのは昔からのわたしの癖で、物心が付いたころから母をつかまえては、いろんな質問をした。
「ママ、どうしてマクワウリには筋が10本あるの?」
「サツマイモは皮の下に薄い膜があるけど、これは何?」
幼い目には世界のすべてを知っているように見えた母も、こうした質問には答えられなかった。
「かしこい子だね。もっと良い環境で育ててあげなくちゃ……」
母は答えられないのがもどかしかったのか、質問するたびにわたしを手放しで褒めてくれた。わたしはそれがうれしくて、大きくなったらどんな疑問にも答えられる科学者になろうと心に決めた。もちろん、ほかの仕事を夢見たこともある。食べることが大好きだったのでコックになりたいと思ったこともあるし、マンガに夢中になってマンガ家を夢見たこともある。それでも、単調な仕事を反復しながらも成長できるという経験は、科学の世界ならではのものだった。
生物学は特に不思議だった。生物学は、人間をはじめ、動物、植物、微生物など、生命を持つあらゆる存在がどのようにこの世界を生きていくのか、どうやって新たな生命を誕生させるのかを科学的原理によって説明しているが、そのことにとても興味がわいた。あらゆる生物は子孫に伝える「DNA」という非常に小さな本を持っており、この本の中に書かれた情報を使って、「タンパク質」という小さな道具を作る。この道具が一カ所に集まって「細胞」という工場を形成する。ある工場は解毒作用、またある工場は保護機能、さらに別の工場は外部から入ってくる信号の感知など、それぞれ多様な機能を担当している。これらの複雑な工場が正確に自分の機能を果たすことで、わたしたちは世界を見たり、味を感じたり、病原菌の侵入を防いだりすることができるのだ。このすべてを可能にするDNAという本は、子孫に大切に伝えられる。そして、そうやってごく小さなたった1個の細胞から、新しい生命が生まれるのである。
最初、わたしはこの簡単な原理ですべてが説明できると思い驚いた。しかし、深く学ぶにつれて、生物学は複雑な分野であることがわかった。実際は、このような原理だけでは、道端に咲くタンポポのことでさえ、正確に説明することはできないのだ。地球上の無数の生物は、それぞれ違ったDNAを持ち、各自の住む世界で闘い、ときには助け合いながら生きていく。だから基本原理は似ていても、その原理を利用して作る道具や工場は、すべて異なっている。そのため、人間をはじめあらゆる生物のゲノムマップ〔ゲノム(全遺伝子情報)をまとめた地図〕を完成させ、遺伝子操作した動物を生み出せるようになった現在でも、人間はなぜ人間で、タンポポはなぜタンポポなのか、人類はいまだにその答えを探せていない。
幸いにも、わたしは子どものころからの夢だった科学者になることができた。くだらないように見える疑問をずっと温め続け、研究の仕事で暮らせるようになった。それも、わたしがやりたくてたまらなかった生物の進化を研究する仕事だ。しかし、近ごろのように経済の論理が支配する世の中で、進化の研究をするのは決して簡単ではない。顕微鏡の向こうで優雅にうごめく、わが「かわいいチビっ子線虫 Caenorhabditis elegans」たちはあまり好まれないし、進化の研究は韓国ではさらに人気がない。病気について研究するわけでもなく、研究結果が出たとしてもすぐにお金を稼げるわけでもないので、税金でこんな虫なんか研究して意味があるのかと皮肉を言われたことも、一度や二度ではない。
さらに、科学者として食べていくのは結構つらい。毎朝9時から夜の11時まで、一日14時間を研究室で過ごすのがふつうだが、こんな日々を過ごしていると、「こんな研究をしたって韓国では認められないし、何の名誉にもならないのに、自分は何をやっているんだろう」と思うこともある。しかし人間とは都合のいいもので、注目すべき論文が発表されると、「ああ、いつか自分が研究しようと思っていたのに! 一足遅かった」とがっかりしながらも、その一方で、自分のアイデアが世界のどこかでは確実に認められているのだと思うと、わくわくする気持ちを抑えられなくなる。
「ほら、この手の研究は韓国では不評ですが、世界的にはかなり人気なんですよ。くだらない研究に税金を無駄づかいするなと言っていたのは、どこの誰でしたっけ」
ほかの誰かにとっては犬のエサにもならないような研究が楽しいなんて、どうやらわたしは生まれる時と場所を間違えたようだ。ならば研究に打ち込むしかない。
科学者というと、白衣を着て黒ぶち眼鏡を掛け、ぶくぶく泡を立てる試験管をのぞき込む姿を思い浮かべる人が多いだろう。もちろんわたしも、そんな〝カッコいい〟姿で実験することもあるし、そんな実験をメインにしている人もいる。だが、すべての科学者がそういう仕事をしているわけではない。では、実際の科学者はいったいどんな人たちで、どんな研究をしているのだろうか。
実のところ、科学研究には科学者以外にもさまざまな人が必要だ。大学院生からポストドクター(博士後研究員)、教授のみならず、大学の職員、その他、特定の実験の専門家まで、あまり目立たないだけで、一つの研究は各自の専門性を持った多くの人たちの奮闘の上に生まれるものだ。いまでこそわたしは、科学者という単語がそれらすべての人たちの努力を表現するにはかなり狭い意味しか持たないことを知っているが、大学に入学したころは、科学という活動がどのようにおこなわれるかを知るよしもなかった。なんとなく科学者になりたいと思っていたものの、科学者が何をしている人なのか、どんな暮らしをしているのか、何もわからず、ずいぶん歯がゆい思いをした。
だから、わたしのような人たちのために、科学をする人の日常をありのまま文章にしてみることにした。現実の科学者の日常生活をのぞいてみれば、意外に地味で変わりばえしない光景の連続に、未編集の動画でも見るようで退屈することだろう。しかし、このつまらない人間たちの選択の積み重ねが、世に知られるような価値ある結果につながっていくのだ。その理由を理解するヒントが、こんなありふれた日常の中に隠されている。
わたしが飽きるほど目にしてきた、そして今後も死ぬまで共にしたいと願っているこの日常! これこそわたしの世界、わたしの輝ける宇宙だ。これから、顕微鏡の中の線虫を観察するように、科学をする人たちを500倍の倍率にしてのぞいてみよう。科学とは何か、科学者とは何者なのかというような、説明の難しい問いの答えを、ここから探し出せることを願っている。
今後のわたしの人生がどうなるのかはわからない。はたして、科学者として長く生き残ることができるだろうか。そして、わたしと同じように科学を愛する人たちと、科学する喜びや悲しみをいつまで共有できるだろうか。いまはまだわからないが、ただ一つ望むことがあるとすれば、科学を愛し、科学のとりこになった人たちが、いまよりも少しはましな環境で研究し、訓練を受けながら、科学者や研究責任者として、より有能な人材として、成長できるようになることだ。
わたしたちにとっては日常でも、研究室の外の人たちにはちょっと特別に見えるかもしれないストーリー。自分たちの役割を果たすために今日も研究に打ち込む科学者たちの日常の中へ、一歩足を踏み入れてみよう。より多くの人たちと、このおもしろい科学を共有することを願いながら。
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