クィアのカップルセラピー|クィアのカナダ旅行記|水上文
クィアは秘密に覆われている。
わたしたちは常に、自分をどこまで開示することができるのか、警戒しながら生きている。時に嘘をつき、時に架空の異性の恋人や存在しない幼少期を作り出し、違和感を覚えつつも安全のために必要な物語を創作する。自分を想定していない世界で、次から次へと作り出されるクローゼットの合間を縫うようにして。
だからわたしはよく覚えている——付き合い始めた当初、タマに「パートナーに求める条件」を聞いたところ、タマが「セラピーに行く人」と答えたことを。何か問題があった時に自分の中だけで解決しようとするのではなくて、セラピーに行こうとする人、第三者に助けを求められる人が良いと。あるいは同じ頃、タマがわたしに、友だちに自分との関係を伝えておいた方が良いと言ったこともよく覚えている。もしも関係において問題が生じた時、周囲の友だちにあらかじめ伝えておけばわたしが助けを求めやすくなるし、わたしの友だちもわたしの状況を知らなければ不安に感じるだろうからと。
それはわたしが、タマを信頼した理由のひとつだった。
なぜなら、クィアな関係性は否応なしに秘密に覆われ、しばしば内だけで完結する密室的なものになりがちなところがあるけれど、タマからは関係を外へ開いていく健全さを感じたから。何よりわたしたちの間で問題が生じた時、わたしが助けを求めるための手段をあらかじめ提示して、それを推奨してくれていたから。
わたしはタマの、そういう健やかさと思いやりを信用した。
もちろんどこででもオープンにできるわけではないけれど、そしてタマの健やかさはタマがトロントにいるからこそ——タマはクィアの権利保障が日本よりずっと進んだ国の都会に住み、クィアコミュニティに属しているけれど、自分たち以外にクィアな人々が周囲にいなかったり、オープンにできない状況にあったりする人は多い——培われたものだとも思うけれど、わたしはうれしかった。少なくとも自分が隠されるべきもの、相手にとっての恥や障害になるものとは思わずにすむ、何かあっても第三者に助けを求めて修復できる、そういう関係を築こうとしてくれているのだと思ったのだ。
クィアカップルにとって日本とは異なるトロントの良いところのひとつは、カップルセラピーを受けられることかもしれない。
日本では、クィアカップルとしてカップルセラピーを受けられる場所を探すのは難しい。そもそも、おそらくシスヘテロのカップルであってもカップルセラピーは一般的ではないと思う。
ただ、大きな問題が生じているわけではなくても、関係性のメンテナンスとしてセラピーに行くことは大切だし、何かあった時に相談できる第三者がいた方が良い、というのがタマの意見だったのだ。それにカップルセラピーは、片方が改善したいと考えていても、もう片方がすでに改善の意志を失っていたら成り立たない。問題が大きくなる前に、定期的にセラピーに行っておいた方が良いとタマは言っていたのだ。
だからわたしたちは、カップルセラピーに通うことにした。セラピー代は高いのでしょっちゅう行けるわけではないけれど、二人の関係性のための必要経費として割り勘して行こうと決めたのである。
わたしがトロントへ行く前、すでにタマはカップルセラピーを受けられるセラピストを見つけてくれていた。わたしたちがカップルセラピーを受けるためには複数の条件があるけれど、タマが見つけてくれたセラピストはそれをクリアしていた。
まず英語ができないわたしのために、日本語が話せるセラピスト。日本とカナダのそれぞれの国で生きるわたしたちのために、日本とカナダのどちらの文脈もわかるセラピスト。有色人種のセラピストであることも、タマにとってマストだった。どうしたって白人中心社会である北米では、高いセラピー代を払ってわざわざ白人に人種差別とは何か、レクチャーしなければならない場面が発生することがあるから、とのことである。それから最も重要な点として、クィアカップルであるわたしたちのことを理解してくれる、クィアの女性でフェミニストのセラピスト。
タマはそんなセラピストをわたしのために見つけてくれた。一度オンラインでカウンセリングを受けて好感触を得たわたしたちは、わたしのトロント滞在中に、トロントで事務所を構えるそのセラピストのところに行き、対面セラピーを受けることにしていたのだった。
セラピーを受けた結果、わたしは実感した。良いセラピストを見つけてくることは、パートナーとして出来る最高の行いなのだと。タマは本当に良いことをしてくれたのだと。
*
というわけで、トロントに到着してから約1週間経った日、わたしたちはカップルセラピーを受けた。
セラピストは日本で生まれ育ち、カナダへ移住した女性である。セラピーのフロアは明るく、髪を束ねてにこやかにわたしたちを迎えてくれたセラピストははきはきとした話し方で、わたしたちは彼女の前に並んで座った。
話しながら時々、タマがわたしの手に軽く触れる。片方が話している時のもう片方の反応を、セラピストが見てくれているのがわかる。〇〇さん、と苗字で互いを呼び合いつつ、第三者の前で互いについて、二人もついて話す。普段とは違う呼び名で、普段とは違う距離で関係を外に開いていく。物理的な距離が離れているのもあって、いつも二人でばかり話しているから、なんだか不思議な気分だった。そしてうれしかったのだ。なぜならセラピーという私的な場ではあるけれど、どちらかの友人でもない純粋な第三者から「カップル」として承認されること、それはたぶん、限定的なクィアコミュニティの外ではなかなか承認されがたいクィアカップルにとって得難い経験に他ならないから。
セラピーではまず、前月のオンラインカウンセリングから生じた変化について聞かれた。
わたしの場合は、母へのカミングアウト。
昨年末すでにカミングアウトしてはいたのだけど、うまく話を進められないままになっていたところ、2024年3月の婚姻の平等をめぐる札幌高裁判決[1]の後にもう一度話して、少しばかり進展したような気がしたのだ。言うまでもないことだけど、クィアにとって親へのカミングアウトは非常に大きな出来事である。
そして進捗や懸念事項について話した後、他になにか気にかかっていることはあるか、と聞かれ、わたしたちは雰囲気が悪くなった時にうまく話し合いができていないような気がする、と話した。なんだか話し合うことで悪化してしまうことさえあるのだと。
たとえばタマはしばしばわたしに「何をしてほしいのか」と尋ねる。自分に何を求められているのかわからない、正解のないままにもやもやとした感情の塊のようなものだけがある状態で、その感情の荷ほどきを求められているように感じることがあると。
けれども、わたしはタマに言われていることがよくわからない。話し合いの前に「何をしてほしいのか」が明確になっていないのだ。わたしは人に話しながら理解できるようになること、自分の中で整理されていくこと、相手の意見や感じていたことを聞いてわかること、自分の中で変わっていくことがある。問題が起きた時の話し合いでわたしが求めているのは、ディベートではない。緊張が生じた時、感情のすり合わせがしたいだけなのだ。
でもタマは「他者の感情を名付けることは侵襲的だし、そんなことはしたくないにもかかわらず、あなたはわたしにそれをさせようとしているように感じる」と言う。何か思ったことがあったならその時に言ってほしいのに、後から言われることが多くてなんだか物事を隠されていたように感じるのだと。要するにコミュニケーションスタイルがわたしたちは全然違っていて、それでうまくいかない場合がままあるのだった。
わたしたちの話を聞いたセラピストは、異文化コミュニケーションをしているんですね、と言った。これで論文一本書けそうなくらい興味深い、とも。
まずはもちろん、カナダと日本の違い。はっきりと自分の意見を述べる文化のカナダと、もっと曖昧な表現が好まれる文化の日本。わたしたちは二人とも日本で生まれ育った日本人で、一見して「同じ」ように見えるけれども、20年以上カナダで暮らすタマと日本でしか暮らしたことのないわたしとでは、やはり色々なことが違うのだ。
セラピストは、異文化コミュニケーションにしても、一見してわかりやすいものとわかりづらいものがあると言う。たとえば異なる国の出身者同士のカップルなら、その違いは一目瞭然かもしれない。ただわたしたちのように、一見「同じ」日本人ではあるけれど実質的には異文化コミュニケーションである、といった場合もある。そして「同じ」であるかのようなカップルの方が、ショックが大きいのだと。わたしたちは大きな共通点があるからこそ、齟齬がよりストレスになっている部分もあるのではないかと。
セラピストは、今はおそらくカルチャーショックの段階にあるのだろう、と言う。ただカルチャーショックはずっとは続かないし、共に過ごすうちになんとなく似通ってくるものなのだと。文化の違いや差異自体は悪いことではないし、互いの違いをリスペクトしあえるようになると良いね、と言われる。
なるほど、と思う。なんだかすこし気が楽になったような気がする。
また、わたしがタマのコミュニケーションスタイルをうまく理解できない、と言っていると、セラピストはタマに「でもそのコミュニケーションスタイルをタマさんは変える気がないし、生きてきた経験から生じた誇りとも関係しているんですよね」と言う。
セラピストいわく、話を聞く限りタマは自己がすごく確立していて、だからいつどこで誰と話していても自分というものが変わらない。話し合いの前でも後でも、はっきりと自分の考えを述べる。それはタマのこれまでの経験に由来しているのではないか。タマはこれまでずっと「自分を生きるしか選択肢がなかったから」ではないかと。
その上でセラピストは、「フェミニズムやクィア、ディサビリティ(disability)の観点から、わたしはどのサバイバルの方法が正しくてどの方法が間違ってる、とは言いたくない」と言ったのだ。
どういうことだろう?
わたしは正直なところ、その言葉を言われた時、セラピストの意図しているところがすぐにはわからなかった。
セラピストは続けてこんな風に言った。「水上さんのコミュニケーションスタイルはとても文脈依存的で、感情を重視しているようだ」と。おそらくその場に応じて自分自身を柔軟に周囲に合わせながらコミュニケーションをするところがあり、それは「日本で女性として生きてきたら、ほとんど無意識に周囲にあわせて切り替えるようになって当然」であって、いわばひとつのサバイバルの方法なのだと。
確かにわたしはいわゆる女性的な女性で、どこへ行っても女性として扱われ、その場から外見的な理由で浮くことはない。クィアだけど、黙っていればストレートの女性と絶対に見分けがつかない。わたしはどちらかと言えばはっきりモノを言うタイプではあるけれど、とはいえ日本の女性として社会化されていることは確かである。実際前職はひどく保守的な職場で、そこでのわたしは問答無用で「若い女」であり、たとえばお茶くみや何らかの式典で花束を渡す役割が当然に求められていたのだ。
一方、トランスマスキュリンなノンバイナリーのタマは、見るからにクィアである。
カナダでも「歩くカミングアウト」だと言われるらしいタマは、そもそも集団に埋没することができないのだと。自分はどこへ行っても「異物」なのだとタマは言う。場に応じて男性扱いされたり女性扱いされたりする上に、この性別二元論的な社会でノンバイナリーであるタマは、「異物」扱いしてくる社会でそれでも自分を生きるしかない。そんななかで自分自身として生きてきたタマには、どんな場所でも自己を確固として持ち続けることが重要なサバイバルの方法だった。タマにとってそれは人生経験、アイデンティティ、誇りと分かち難く結びついているのだ。
要するにわたしたちは社会的な扱われ方が全く異なっていて、異なる経験をして、異なるサバイバルの方法で、それぞれ生きてきたのだった。
だから文脈依存的に、関係性の中で生成するタイプのコミュニケーションをするわたしと、どんな時もどんな場所でも最初からはっきりと意見を言ってほしいタイプのタマのコミュニケーションスタイルの違いは、おそらくそれぞれが生きてきた経験の違いによるものなのである。考えてみれば当たり前なのだけど、コミュニケーションスタイルは人生経験やアイデンティティから生じているものであり、その人の核となるものだ。わたしたちはセラピーによって初めてそれに気づかされた。だからこそ譲れないし、時にわたしたちの間で、単に話し合いがうまくいかない以上の大きな問題になるのだった。
異なる経験、異なる抑圧、異なるサバイバルの方法。
わたしは心底から驚いていた——だって、二人の異なるクィア・アイデンティティと人生経験、生じる齟齬について長々説明せずともくみ取ってくれて、それでいて自分たちでさえ気づいていないところまで気づかせてくれて、「サバイバルの方法」という表現を与えてくれて、「どちらが正しくてどちらが間違っているとは言いたくない」と言ってくれるセラピストがいるなんて、考えてもみなかったのだ。
わたしたちはセラピーを終えて帰宅する途中も、興奮気味に話していた。
セラピーで指摘されたわたしたちの違いは、おそらくクィア・アイデンティティのマスク/フェムに関わるものである。クィアコミュニティにおいて、マスクはいわゆる「男性的」とされるジェンダー表現をするクィアの人を、フェムはいわゆる「女性的」とされるジェンダー表現をするクィアの人を指す。ここでの男性的/女性的というのは、ジェンダー表現であって性自認とはまた別である。だからたとえば、マスク/フェムにはノンバイナリーやジェンダークィアの人も含まれるし、性自認が男性でジェンダー表現が女性的な人(シスゲイ男性のフェムなど)や、性自認が女性でジェンダー表現が男性的な人(ブッチ/ボイのレズビアンなど)も含まれる。もちろん「男性的」「女性的」というのはただ外見の話ばかりではなく、マスク/フェムは各々にとって、外見に現れる以上の様々な意味を含んでアイデンティファイされるものではある。でも事実としてタマはマスクでわたしはフェムで、外見はわたしたちの間の大きな違いのひとつではあるのだ。
わたしたちは出会った当初からよく、各々のアイデンティティや、カナダと日本のクィアコミュニティの違いについて話していた。日本語圏ではマスク/フェムの議論自体あまり見かけない[2]し、タマいわく北米ではクィアコミュニティ内部の欲望の政治の問題としてよく話されていたそうだけど、より日常的なレベルでどんな風に影響しているのかという議論は見たことがなかった。セラピーで指摘されたわたしたちの「異文化コミュニケーション」はきっと、こうしたジェンダー表現の違いによる社会的な扱い、経験、アイデンティティの差異とも関わっていて、だからすごく興味深かったのだ。
実際、他者から認識される際、最も初めに目に付く「外見」の違いは大きい。
たとえばセラピーを終えてタマと一緒に行ったおしゃれなブリュワリー(Halo Brewery)で、タマはある人と目を合わせて笑顔を交わし合っていた。相手は見た目からしてクィアのマスクな人で、わたしはタマの知り合いなのかと思ったのだけど違ったのだ。「知り合い?」と尋ねるとタマが言った。AFAB[3]のマスクはどこに行っても「異物」だから、互いを見かけたら目を合わせて微笑み合うといったコンタクトがしばしば発生するのだと。別に知り合いじゃないけれど、互いに親近感を覚えたのだと。
それを聞いてわたしは驚いた。わたしの人生にはそんなことはないから。タマに「シスのフェムの人同士はそういうことはないのか」と尋ねられたけれど、少なくともわたしはなかった。タマはマスクのみならず、埋没してないトランスフェムの人ともアイコンタクトするそうだけど、わたしはないのだ。だって、気づかないから。きっとわたしがただひとりで歩いていたら、誰もわたしがクィアだとは気づかないから。
言い換えれば、わたしはストレートに見えるぶんだけ守られているのだ。
わたしは街を歩いていても、少なくともひとりだったらクィアであることによって危険な目にあったりはしない。もちろん女性であることでハラスメントを受けることはあるけれど、クィアだから狙われることはない。
でも見てわかるクィアな人たち——埋没していないトランスマスキュリンな人たちやトランスフェミニンな人たちなど——は違うのである。見た目ですぐさまクィアであることがわかる人々は、シスヘテロに見える人々よりずっと物理的な暴力の危険に晒されている。同性愛嫌悪やトランス嫌悪を抱えた人々は、「そう」見える人に暴力を振るうのだ。たとえば2023年の6月に香港でレズビアン・カップルが殺された時も、はっきりと、あからさまに、まっすぐと、犯人はマスクの人に向かっていって、マスクの人をはじめにめった刺しにして殺した[4]。そしてパートナーを命賭けで守ろうとしたフェムの人も殺された。
つまるところ、わたしたちが生きているのはこういう世界なのだ。
わたしたちがどんな風に自分を定義づけているか、どんなセクシュアリティを、どんなアイデンティティを持っているのかを知って尊重してくれる人ばかりじゃない世界。むしろ見知らぬ人の視線に晒され、身勝手に判断されて、そしてハラスメントや暴力を受けることも、もっと悪いことも起こり得る世界。そういうなかで自分を形成すること、自分として生きること、その経験が私的な場面においても重要にならないはずはないのだった。
とはいえもちろん、わたしはフェム代表ではないし、タマもマスク代表ではない。
そもそも外見による社会的な扱いの違いや、その扱いによって形作られる個の在り方は、もって生まれた外見的な特徴——胸やお尻のふくらみが目立つ身体かどうかなど——によって大きく違うから、たとえ同じアイデンティティを持つ人同士でもずいぶん異なる経験をしているだろうと思う。どのような状況にあるのかによっても違うはず。
たとえば、異性のパートナーを持つバイ/パンセクシュアルのフェムの人が感じている自分のクィアネスの不可視性は、クィアのパートナーを持つフェムの人とは違うものがあるかもしれない。あるいはフェムが恋愛対象のフェムの人にとっては、恋愛対象と自分の同一性がフェム・アイデンティティを考える上で大きな要素になっているかもしれないけれど、それはマスクのパートナーを持つフェムの人が考えるフェム・アイデンティティとは隔たりがあるかもしれない。マスクのパートナーを持つフェムにとっては、最も身近な存在である人との差異がフェム・アイデンティティについて考える上でより重要になるかもしれない。もしかしたら、自分とは異なる存在であるマスクの人への恋愛感情や性的欲望が、フェムであることの意味を構成する大きな要素になるかもしれない。
いずれにしても、個人的なことは政治的で、政治的なことは個人的なのだ。
その言葉を、わたしたちは文字通り生きている。