彼らが殺したいと願う者たちのために|地獄への潜入|タリア・ラヴィン【はじめに公開】
2022年5月24日に、タリア・ラヴィン 著『地獄への潜入――白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー』(道本美穂 訳)が配本となります。本書は、ユダヤ人の女性ライターが素性を偽り、オンライン上の過激派コミュニティに潜入したルポルタージュです。
こうした「潜入」を通じて本書は、オンライン上で育まれた反ユダヤ主義、レイシズム、ミソジニーなどが、いかに現代アメリカのメインストリームを侵食しつつあるかを明らかにします。同時に、オンライン上のヘイトが、オフラインで「暴力」として具現化していく現実にも強く警鐘を鳴らします。冒頭に掲げた安田菜津紀さんの言葉の通り、日本人にとっても他人事ではないテーマ。本記事では特別に、著者による「はじめに」を全文公開します。ぜひご一読ください。
はじめに
ニューヨーカー誌に、お気に入りの古い漫画がある。インターネットが登場した初期の頃にあたる1993年の漫画だ。一匹の犬が、どっしりしたマッキントッシュのようなコンピュータを前にしてオフィスの椅子に座り、困ったように見上げるもう一匹の犬に向かってこう言う。「ネットのなかじゃ、おまえさんが犬だなんて誰も知らないよ」。なるほど、そのとおりかもしれない。同様に、インターネットのなかでは自分で言わないかぎり、あなたがユダヤ人であることなど誰も知らないのだ。私は人生で初めての著書となる本書を書きながら、丸一年ほどたっぷりと時間をかけて、自分がユダヤ人であることを明かすことなく、本来なら聞くこともなかったインターネットのなかの人々の話に耳を傾けてきた。
白人ナショナリズムの世界をできるだけ深く覗き見るために、私は何度も、自分自身のアイデンティティと決別しなければならなかった。現実の世界では、私はニューヨークのブルックリンに暮らす、魅力のないバイセクシュアルのユダヤ人だ。茶色くて長い、ぼさぼさのウェーブの髪をして、フィリップ・ロスの小説に出てくる母親のような貫禄のある体つきをしている。政治的には、どこかの政党を特別に支持しているわけではないが、国民皆保険制度を掲げる左派に大きな関心を寄せている。本書を執筆するあいだ、私はやむをえず、自分の本当の姿を隠していた。そして、白人ナショナリズムの世界で見聞きしたことのせいで、ときにはありのままの自分に戻りたくないとさえ思った。
執筆に取り組むなかで、私がしてきたことをいくつか紹介しよう。
私は噓をついた。みごとなほどに真っ赤な噓をついた。架空の人物をでっち上げたのだ。本当の私は、ユダヤ人であり、ジャーナリストであり、ファシズムを憎む偉そうなツイッターユーザーとして知られているのだが、そんな人物はまったく歓迎されないコミュニティに潜り込む必要があった。別人になる必要があり、だから架空の人物をつくり上げた。
まず一人目は、ほっそりとして小柄な、金髪の女性狩猟家。アイオワ州の白人ナショナリストの家庭に育ち、白人限定の出会い系サイトで結婚相手を探しているという設定にした。
二人目は、ウェストヴァージニア州モーガンタウンの落ちぶれた倉庫作業員。妻が家を出てから自暴自棄になり、白人ナショナリスト運動に加わることで、ようやく自分を取り戻した。運動に参加する同志を支援するためなら何でもするつもりだ。
また、「インセル」になりすましたこともあった。インセル(incel)とは、「不本意な禁欲主義」を貫く童貞で、自身の性的不満の原因は女性たちにあると考えて憎悪をつのらせる男性を意味する。
「フォーアヘルシャフト師団」(Vorherrschaftはドイツ語で「優越」の意)と呼ばれる、ヨーロッパを拠点とするネオナチ・テロ集団のプロパガンダサイトに潜入したときには、セクシーな若い女性のふりをした。暴力によって白色人種を守ることに関心があり、「アーリアクイーン」というハンドルネームを名乗る女性である。
そして、私をレイプしたいと空想にふけるネオナチの男たちを黙って観察した。
一方で、本当の私自身は、社会の闇に足を踏み入れ、アメリカのための戦いの最前線にいる人たちと話をした。悪い連中もいれば、良い連中もいた。
フィラデルフィアで開催された、「オルトライト(オルタナ右翼)」〔米国で台頭している過激な右翼・反動勢力〕のユーチューバーが集まるカンファレンスに参加して、カジノから追い出されたこともある。
ヴァージニア州シャーロッツヴィルでは、コミュニティを守る反ファシストと毎日のように話をした。
ニューヨーク州オールバニーでは、白人至上主義者が集う異教徒の儀式に参加しようとして、教団の長老らに追い払われた。この教団は、ウエイトリフティングなどのエクササイズを推奨する「オペレーション・ウェアウルフ」という異教的なカルト集団である。
白人ナショナリストがフリースタイルのラップバトルで、ぞっとするほど相手を侮辱する様子にも耳を傾けてきた。
ネオナチの人々が、トランスジェンダーやユダヤ人や黒人の子どもたちの写真を投稿し、その殺害について話し合っているのをじっと眺めてきた。
一年近くのあいだ、私は毎日のように、リンチ殺人の写真が面白いミーム〔リチャード・ドーキンスがつくった言葉で文化的発想の伝達単位のこと。今日ではユーザーが生み出したコンテンツなども指す〕のように回覧されているチャットグループやウェブサイトやフォーラムを頻繁に訪れた。そこでは「ユダヤ人を殺せ」というスローガンが掲げられ、殺人者は「聖人」として称えられていた。ピッツバーグのシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)で起こった銃乱射事件から丸一年が経った日には、礼拝中のユダヤ人11人を殺害した人物、ロバート・バウアーズが英雄であり友人であるかのように称賛されていた。見知らぬ人たちが毎日、ユダヤ人の殺害について語り合っていた。暴力を煽り立て、殺人を褒め称え、白人だけの純粋な世界をつくるために世界を血で染める計画を話し合っていた。彼らのポッドキャストに耳を傾け、彼らの動画を見つめた。彼らの恐ろしい音楽を耳にし、彼らが人種差別を称えるために集まろうと計画するさまを眺めてきた。レイシズム(人種主義)は、彼らの生きがいだった。
そして、私のなかで何かがはじけた。
正直に言おう。私は右翼のレイシスト(人種差別主義者)に対して怒りを覚えながら、この本を書きはじめた。当初は、そうした人々の正体や彼らの目指すところをただ正確に書き記すために、口汚い表現にはなっても、理性的かつ情熱的で、論旨明快な本を書き上げたいと考えていた。本書の執筆を始める以前からすでに、ネオナチのウェブサイトであるデイリー・ストーマーのおかげで、「脂ぎった太ったカイク」〔Kikeはユダヤ人の蔑称〕とグーグル検索をすると、私はトップに表示されていた。「パトリオット・フロント」という名のヘイト団体は、私の両親に「血と土」というナチ時代のスローガンが書かれたハガキを送りつけてきた〔bloodは民族、soilは祖国を意味する〕。白人至上主義者が好んで集まるソーシャルメディアであり、ピッツバーグのシナゴーグを襲撃したロバート・バウアーズも利用していたとされる〈ギャブ(Gab)〉では、私の親戚の名前がすでに公表されていた。本書を書くために調査に乗り出せば、私はどうなってしまうのか。心の準備はできていると思っていた。
しかし、現実は違った。
いま、本書を書きながら、私は燃えるような激しい怒りを感じている。一晩では収まらないほどの怒りだ。「恋人同士は怒ったままベッドに行ってはいけない」という古い決まり文句があるが、昨年の私は、怒りを抱えて眠りにつき、怒りを抱えて目を覚まし、口のなかに血の味を感じるぐらい、じっとりとした怒りを抱えて一日を過ごしていた。
極右のレイシストらが、人間とは思えないような、理解を超えたモンスターだとわかったからではない。彼らは、科学者が法医学的に分析を加えて冷静に眺める必要のある新種の人間などではなかった。ひどく愚かな人でもなく、極度の貧困に苦しむ人でもなく、深刻な社会問題に悩まされる人でもなく、社会的・経済的に特定の階層に属する人でもなかった。モンスターではなく、人間だった。この国、この世界のいたるところにいる平凡な人間で、大部分が男性だが、女性もいる。他人を憎み、人生の意味を憎しみに求め、憎しみをもとに連帯感を共有し、日々の生活のなかでは優しく気を配りながらも憎しみを深めていく人だ。まったく異なる歴史観をもち、怒りをかき立て、人殺しを煽ることだけを目的とする、偏ったプロパガンダの世界で活動する人だ。金持ちもいれば、貧乏人もいる。職人もいれば、会社員もいる。10代の若者もいれば、中年男性もいる。食事をして、睡眠をとり、酒を飲み過ぎるときもあれば、しらふのときもある。孤独な人もいれば、異性に目がない人もいる。落ち込んだり、困惑したり、喜んだりする。つまり、彼らは、あなたや私とまったく同じような人間だった。あなたが知らないだけで、彼らはとなりの部屋で働いているかもしれないし、授業でとなりの席に座っているかもしれない。あなたが知らないだけで、あなたの近所に住み、スポーツチームに参加し、深夜になると、笑いながらリンチ殺人の写真を野球カードのようにトレードしているかもしれない。
だが、私はもう、そんな男性や女性を知っている。彼らが何を書き、どんなふうに話し、何を読み、どんなふうに歌うのかさえ見てきた(歌は下手だった)。私は、彼らの人間性そのものに大きな怒りを感じている。彼らが広める憎しみや、彼らが求める暴力は、人間によるたくさんの小さな選択の積み重ねなのだ。
毎日のように、彼らは自分とは別の人格をつくり出しては、鉤十字やスカルマスクやトーテンコップ〔ナチ・ドイツ時代の親衛隊(SS)の帽章〕を喜んで掲げ、歴史上のおぞましい出来事を称え、そうした過去の歴史と現在が切れ目なく混じり合うのを歓迎している。彼らが夢見ているのは、平和や平等ではなく、現在のような惨めで荒れ果てた世界をよくすることでもない。彼らが夢見ているのは、ユダヤ人をはじめとする白人以外の人々や、イデオロギーという彼らの腐敗した病根に立ち向かう人々など、彼らが「人間未満」とみなす人の血であふれ、恐怖で引き裂かれた恐ろしい世界だ。彼らの会話は常に幼稚で、暴力的で、ハチドリが花の蜜に戻って来るように、すべてはいつも暴力に立ち戻る。暴力こそが彼らの望みであり、暴力があるからこそ、つかの間の男らしさと生きる意味を感じられる。彼らは恐怖を植えつけることによって自分たちの力を感じ、人殺しを「戦友」と称賛する。白状すると、私はレイシストについて調べつつこの本を書きながら、自分が感じた怒りが膨れ上がり、憎悪となって凝り固まってゆくのを感じていた。それは肌の色による憎しみではなく、自分が見聞きした激しい言葉の蓄積による憎しみだった。会ったこともない人たちが、私の姪や甥、いとこや叔母、私の愛する人々や友人たち、そして私自身を殺そうと話し合っていたのだから―−。ある意味で、私は彼らをだまして偽りの自分を演じることに、刺激的な喜びを感じはじめていた。
しかし、こうした偏屈者たちへの怒りは、私が感じたことの一部でしかない。やがて、私の怒りは、ネオナチ組織に強硬姿勢をとることに反対する人々にも向いていった。いわゆる「白人穏健派」への怒りである。自分は高みの見物で、ネオナチの発言機会を奪おうとせず、ネオナチのデモ行進に立ち向かおうとせず、ネオナチが支持を増やし、影響力を拡大し、その思想を広める確固とした足場を築くのを阻止しない人たちのことだ。「奴らのことは無視しろ! 行進させておけ! ツイートしようが、大学のキャンパスで演説しようが放っておけ。いろんな考えが切磋琢磨して淘汰される『言論の自由市場』で、そのうち敗れ去るだろう」と言う人たちのことだ。自分たちには分別がある、とばかりに「勝手に主張させておけ」と言う人たちだ。だが、ネオナチの思想は毒ガスのツィクロンBのような効果をもつ。この思想を深く調べてわかったのは、毒ガスをほんの少しでも部屋に入れてはいけないのと同じく、言論の世界でそうした発言をたとえわずかでも認めてはならないということだ。
ネオナチの言動を野放しにしろと主張する人は、自己満足に陥ってはいないだろうか。レイシズムによる暴力を容認することは、極右が正しいと主張する価値観に従うわけではないにせよ、そうした価値観をある意味で容認することになってしまうのではないだろうか。
本書で取り上げるとおり、レイシストの極右思想にはさまざまな種類がある。たとえば、自らの文化的アイデンティティの保持を訴える「アイデンティタリアニズム(アイデンティティ主義)」は、意気地なしのような有識者らの浅知恵だが、極右思想の一種と言えるだろう。彼らは、心のなかの憎悪を気取った言葉で隠しながら、人種ごとにエスノステートを建設する必要がある、そうすれば平等が実現する、と真面目くさった顔で論じている。
また、極右の「加速主義(アクセラレイショニズム)」は、米国社会が人種戦争に突入するまでは、一層のテロ攻撃が必要だとして、直接的な暴力を主張する。ほかにも、宗教的な思想と深く結びついたレイシズムもあれば、疑似科学と密接な関係にあるレイシズムもある。これらすべての思想に共通するのは、毒のように有害な影響力をもつということだ。遠回しに「寛容さ」を支持する議論をもとに、こうした思想を広めることを認めれば、圧倒的な力を得ようとする人種差別運動に屈することになってしまう。生まれつき固有の特徴によってレイシストに敵視されている者たちが、全滅する可能性もあるのだ。
このような動きを知るにつれて、私はレイシズムを、それを許容する人々を、ますます許せないと感じるようになった。極右について調べたことで、たとえ力を得るだけの理由があるからといって、容赦してはいけない敵もいること、それがどういうことか、わかった気がした。レイシズムが勢いづくほど、彼らはその力を暴力的な目的のために使うだろう。本書のために調査を重ねるにつれて、そのなかでジャーナリズムともアクティビズムとも言える異常な経験を重ねるにつれて、私は急進的になっていった。暴力的な極右が目指す唯一の目標は、破壊だ。彼らを勢いづかせることは、その目標に同意することに等しい。白人至上主義(ホワイトスプレマティズム)と和解し、チャンスを与え、情けをかけることは、「黒人、褐色人種、ムスリム、同性愛者、トランスジェンダー、ユダヤ人を暴力から守ることは、それほど重要でも必要でもない」と主張するのと同じだ。毒がすてきなパッケージに入って売られていたり、憎しみがそれを切実に欲しがる人の手に渡ったりすれば、言論の自由市場は破綻する。極右について調べたことで、私は、憎悪がどのようなものか、どんなふうに憎悪を抱くようになるのかを知った。
憎悪は私をイライラさせる。まるで、自分の心に小さすぎるウールのセーターを着せたような感じだ。私はもともと怒りを感じることはあっても、憎しみを感じることはなかった。だが、金属を溶かす王水のように、極めて危険な思想に長く顔を押しつけているのは苦痛でしかない。自分の心が醜く変形し、膨れ上がるのを感じた。この痛みはしばらく続くだろう。だが、自分がなぜこんなことをしてきたのか、理由はわかっている。富や名声のためではない。富や名声を手に入れたいのなら、もっと近道がある。私が本書を書いたのは、彼らが殺したいと願う子どもたち、まだ幼い私の親戚、いとこや叔母、私の愛する人々や友人たち、そして私自身のためだ。
米国の詩人、イリヤ・カミンスキーは「作家の祈り(Author’s Prayer)」という詩のなかで、作家であることの責任について、こう表現している。
私は本書を執筆するために、一年間、まさに自分自身の限界を超えて生きてきた。自分でも自分のことがわからなくなってしまった。憎しみの世界で暮らし、美味しいチーズとオリーブや、ブルックリンのアパートや、作家のテリー・プラチェットの小説や、ほかにも、生きる価値のあるすべてのものがあふれた愛の世界には、ときどき戻って来るだけだった。
何カ月ものあいだ、私の心は地獄に向かっていたが、それはすべて白人至上主義者や彼らの文化、その動機を書き記すためだった。そうすることで、彼らから力を奪うことができるからだ。彼らが暗闇のなかで組織的に活動する力を奪い、彼ら自身が望む恐ろしい悪魔となって活動する力を奪うことができる。彼らの髪の毛をつかんで明るいところに引きずり出し、悲鳴を上げさせることができる。私が本書を書いた目的はそこにある。本書は、極右とその歴史を包括的に説明したものではない。現在、オンライン上で極右がどれほど存在感を高めているかについて、その全体像を描いたものでもない。十分に明らかにできなかったテーマはたくさんある。男性グループよりもわかりにくい女性の極右グループや、おもにフェイスブックで広範に広がり、白人至上主義団体と完全ではないにしろ大きく重なり合う反政府派のミリシア運動〔過激な武装組織による政治運動〕などは、取り上げることができなかった。また、本書は現在の動向のほんの一部を取り扱ったにすぎない。私が経験した、壁が大きな凸レンズでできた灼熱の部屋のような世界しか、描くことができなかった。私は多くを学んだが、学ぶべきことはまだたくさんある。それに、私は自分が何を許せないかも学んだ。私や私の愛する人々を嫌悪する白人至上主義者を、私は決して許さないだろう。ネオナチは、私の友人たちをレイプしたい、むちで打ちたい、殺したい、死体を置き去りにしたい、と公の場で空想にふけっていた。私はそれを決して忘れない。私に憎しみを植えつけたこと、私の心に燃えるような憎しみを注ぎ込んだことを、決して許しはしないだろう。本書は、私の一種の報復であり、完全とは言いがたいながらも、近年のレイシズムの動向を明らかにした本である。憎悪というものが、それを目にした者に対しても、それをつくり出した者に対しても、どのような影響を与えるかを描いた物語でもある。読者のみなさんを戦いに駆り立てるための手引書にもなるだろう。あなたや私にとって、そして、憎悪という不快な毒気のない世界に生きるべき黒人、ムスリム、ユダヤ人、トランスジェンダー、褐色人種のすべての子どもたちにとって、よりよい世界をつくるためにも、戦わなければならない。このじっとりと腐ったような悪臭を漂わせるレイシズムを明るみに出し、粉々に砕いて、根絶しようではないか。