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つらいときに思い出せるシーンがありますか?

 エッセイ連載の第12回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 つらいことがあったとき、そのつらさと二人っきりになってしまうのは、よけいにつらいものです。
 そんなときに思い出して、少しでもつらさをまぎらわすための思い出について、今回はちょっと書いてみました。
 個人的なことなので、伝わらないかもしれませんが、みなさんにも、それぞれそんな自分だけの思い出があるといいなあと……。

つらいときに思い出せるシーン

 つらいときに、思い出せるシーンがあるかどうか。
 これはかなり大きなことだと思う。

 私にも幸い、そういうシーンがいくつかある。
 どれも、たわいのないものばかりだが。
 当人だけがしみじみできる昔の写真のようなものだ。

宮古島の台風は十代の暴力

 そのうちのひとつは、宮古島で台風を体験した、ある一夜のことだ。
 宮古島の台風はすさまじい。話には聞いていたものの、実際に体験してみると、想像をはるかに超えていた。
 東京に来る台風はまだ分別があるが、宮古島に来る台風は、十代の暴力という感じで、容赦がない。
 なるほど、台風後に牛が2階の屋根にいたとか、他の家の冷蔵庫が壁に突き刺さっていたとか、そういうことも起きるはずだと思った。

セミが飛び込んできたのがはじまりだった

 そんな台風がやってくるという、ある日のことだ。
 上陸は夜中ということで、日中、ベランダの物干し竿やサンダルを室内に入れたり、エアコンの室外機の排水ホースの口をふさいだり(ここから風が吹き込んできて、えらいことになるのだ)、いろいろ台風前の準備をしていた。

 すると、セミが一匹、室内に飛び込んできた。そして、柱にとまって、そのまま動かない。
 そばに寄ってみたが、それでも動かない。
 弱っているのかな? と思ったが、そうでもなさそうだ。

 普通、セミは人間が近づいたら、すぐに逃げる。おしっこをひっかけたりする。
 なのに、すぐそばでまじまじと見ても、じっとしているのだ。

 さらに、もう一匹飛んできて、今度は、ひろげてあった蒲団の上にとまった。
 蒲団の上のセミというのも珍しい。
 このセミもそのまま動かない。

いろんな虫や生き物たちが

 その後、セミだけでなく、いろんな虫や生き物が部屋の中に入ってきた。
 私は虫を気持ち悪いと感じてしまうほうで、いつもなら虫取り網でつかまえて外に出す。
 しかし、その日はどうも、彼らの様子がちがうのだ。
 静かに入ってきて、そのままおとなしく、じっとしている。壁や天井をはい回ったり、飛んだりしないのだ。

 ヤモリはもともと部屋の中に何匹かいたが、その数もどんどん増えていく。日頃は見ない、ずいぶん大きいやつもいる。

 そうした虫や生き物の中には、ふだんなら捕食関係にあるものもいる。ところが、その日は、そういう騒ぎが起きない。
 お互いにじっと静かにしている。

台風避難

 そうか、みんな台風を避けたいんだなと、ようやく気がついた。

 自然の中に生きる虫や生き物だって、台風は大変だろう。
 今回はとくに大変だと感じているのかもしれない。事前にそういうことを察知するとも聞くし。

 だから、みんな静かにじっとしているのだ。今日だけは、みんな、同じ台風に耐える仲間というわけだ。

 これを追い出すわけにはいかないと思い、仕方ないから、みんなそのままにして、窓を閉じた。

いよいよ台風が

 夜になって、いよいよ台風がやってきた。
 どんどん凄まじくなっていく。
 虫や生き物たちが騒ぎ出さないといいけどなあと心配だった。
 外は台風で、家の中では虫や生き物の大騒ぎになったら、身の置きどころがない。

 しかし、そういうことはまったくなく、みんなひっそりと、台風が通り過ぎるのを待っていた。
 セミも、柱や蒲団から動かなかった。
 鳴くこともない。

 やがて停電になったが、それでも虫や生き物たちに変化はなかった。
 暗躍したりはしない。

みんなで一夜を

 こうして私は、たくさんの虫や生き物たちと、台風の一夜をいっしょに過ごした。

 すさまじい台風だったが、幸い風向きの関係で、私のアパートは大きな被害を受けることはなかった。
 ベランダにある隣り部屋との境のボートが壊れたくらいだ。

 虫や生き物たちは、台風の通りすぎた朝に、私が窓やドアを開けると、静かに去って行った。

 セミも飛んで行った。
 やっぱり、弱っていたわけではなかった。

「今」だけを生きるのは、苦しいときが

 こんな思い出がいったい何になるんだと思うかもしれない。
 しかし、私にとっては、つらいときにこの一夜のことを思い出すと、なんとなく耐えやすいのだ。
 今のつらさが少しでも減るわけではない。でも、ああ、みんなで台風に耐えたなあという思い出が、少しはなぐさめになる。
 今はひとりで耐えなければならないのだけど、それでも……。

 人は「今」だけを生きるのは、苦しいときがある。
「今を生きろ」という格言が、逆に耐えがたいときもある。
 そんなときに思い出せるシーンを、心にいくつか用意しておくことは、台風に備えるのと同じくらい、けっこう大事な備えではないかと思っている。



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