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亀の歩み稽古日記

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舞踏家 由良部正美さんのもとで、踊りの稽古をしています。その中で思ったこと感じたことを、溢れるままに日々綴っています。良かったら、ふらりと覗いてみて下さい。
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#稲垣美輪子

再生

由良部正美 「黄泉の花」舞踏 BUTOH “ Underworld Flower ”

「黄泉の花」は、京都舞踏館にてロングラン公演されている作品。この動画は、映像作品として新たに創られたショートバージョン。 現在、コロナ禍のため休演中ですが、作品のエッセンスを少しでも届けたいと…願いをこめて。愛をこめて。

亀の歩み稽古日記~ 植物の踊り~

「植物」の踊りのことを、書くのは難題。踊るのはもっと難題……。 そこには私達の存在そのものへの大きな問い、テーマが込められている。未知のベールに包まれ妖しく謎めきながらも … 直感に貫かれたカラダで、ひたむきな探求は今も続けられている。そうなのよね…。 … 例えば植物の動きは、水や空気の動きと全然違う。植物の動きは、水や空気のように “私” が透明になっていく感じではない。 むしろその逆というのか、、この、誰とも交換できない、唯一無二の “私” というカラダに、その個別

亀の歩み稽古日記~胴体の壁と向こう側~

胴体と手足の繋がりを深めていく。もっともっと。 何か、壁を感じた、、どうしたらいい。足りないところは何だ。 階段を一段上がった… と思ったら、知らない風景が広がっていて、立ち尽くしている、そんな感じ。 胴体と手足の繋がりを深める。 …どういうことが言えるだろう…。 意識、情動、、、眼差し。 眼差しを、微細に微細に感じていく。間、抜ける、感覚。イマジネーション界。そこを深めるということになるのか。。 しかし、、やはり同時に胴体の使い方というものがある。まだまだ、胴体を使

亀の歩み稽古日記~無中心の踊り~

“ 無中心の踊り ” Yurabe : 「…そうか、私がやっている踊りには中心がないのか…」 稽古の中での対話によって、明らかにされる認識や言葉があるようだ。 無中心。カラダに中心を持たない踊り。。とは? ちょっとわかりにくいが、、一般的に、、例えばクラシックバレエでは、カラダの中心を胸のあたりまでグッと引き上げ、そこから手足が伸びていく、、というイメージが思い浮かぶ。反対にお能や日本舞踊では、重心をぐっと丹田まで下げることを基本としているイメージだ。。 ( 私

亀の踊り稽古日記~The 胴体~

胴体と手足の繋がりが掴めない、、、 カラダに余裕がない、、なぜだっ? その理由は、、、胴体にありっ…!! …ここのところ全っ然わからなくて、気持ちが少々荒れていた。だから、胴体の大切さに気づくことができて、かなり嬉しい。 最近特に由良部さんは、胴体の使い方の大切さを言い、稽古でも重点的にされている。スーパーボディを目指す為に…?! 胴体の使い方を知り、踊りの精度を増す、と。 簡単に出来るはずもないけれど、胴体を通るとバランスも取りやすく、実感が増し、自由度が広がるの

亀の歩み稽古日記~ 水・Body as Water~

水の動きは、普段の動かし方と発露が違う。胴体を通って手や足が動き、それぞれがバラバラに動くのではなく、連なって動く。股関節を柔らかく。。 「足は何本ありますか? 足は一本です。もしくは無数にある。二本だと思うから二本で動こうとしてしまう。手も無数にあると思って。空間全体が手なの」 へぇ。。。由良部さんは動きながら説明してくれる。ふむふむ。 そして胴体と手足を繋げる為には、どうしても情動というか、、思いも流れ出さないと、固くなってしまう。 その為には、、 「喉、声帯を

亀の歩み稽古日記~中和・触れる感覚

回転の動きから~「中和」について。 手のひらに包まれた小さな回転、両手をひろげ胴体足全体での大きな回転。手のひらに包まれた回転は10本の指がそれぞれに求め合っている。全体が回転となったカラダは、ゆったりと月の光のようにまわりを照らしていく。 その求め合っている指と指との出会い。大きく広がった手と手の出会い。離れたものが触れあってカラダに浸透していくような、ひとつになるような。。 …離れていたものが出会うことによって中和する。 自分ひとりのカラダの中ででも、出会い

亀の歩み稽古日記 「座学」~空間に思いを寄せて~

前回の稽古日記を読んだ師は、 「マクロ (大きな) なことばかりじゃなくて、ミクロなところを深めていけるといいね。実際に踊ってる感覚とか、抜けた時どういう感じなのか、もっともっと実感をもって。」と云った。 ……宇宙とか次元とか、言い過ぎたかな。「ミクロ」こらからの抱負にします! ◆ 「見ること見られること」 “見る空間” と “見られる空間” ふたつの空間、ふたつでひとつ。 思うに、踊れない時というのは、“見られる空間” しか感じていないのでは、、。他者の世

亀の歩み稽古日記 「宇宙大のカラダが愛おしい」

大地からのエネルギーがカラダを通って天へと抜ける。カラダを通り抜け、意識は遠ぉ--―くまで抜ける・・意識は上へ、視線は前に・・ 。その時の顔がまた、なんとも神秘的で魅惑的。 「実際、どんな感じがする?」 意識は遠くまで抜けたら遠くにあるの?抜けちゃったらもう此処にはない?……感じとしては、遠くにもあるけど此処にもある、、、まるであちらにもこちらにもワタシがいる。意識が広がっているという感じ。意識は遠くから戻ってきてひとつになったり、遠くまで抜けて広がったり、自由自在な意識。

亀の歩み稽古日記 「無意識の意識化?」

師 : 「当たり前のことを伝えるのって難しいな…」 無意識って、日常的にけっこう多いと思う。無意識の動作、言葉、振る舞い、、癖のようなこと。踊りでは、無意識に勝手に動くのではなく、意識を通していく。上手く言えないけど、勝手に動く動きは何ひとつないような。しかも目的などはない。目的がない場で、いかに必然性を見つめていくか…。或いは目的から解放されたカラダを、いかに豊かに味わうか。。 他者とのデュエット。関わり方。 ずぅっと溶けるようにお互い関わってばかりでも、ずうっと

亀の歩み稽古日記 「苦手意識にハマる」

あからさまに駄目な日というのがある。苦手意識のある稽古には拒絶が入り、そんな感情との戦いを余儀なくされ、敗北。。。自分への拒絶にもなってとても辛い。 、、しかしここのところ、同じ所でつまずいているな。足の八の字からの流れだ。胴体からの流れが繋がり、その連なりの中で動き、フォルムを明確に現していく稽古。 稽古が終わってから気づいたこと。それは気持ちが狭くなっていたということ。苦手意識という狭さ。狭すぎて少し動いたら自分の壁にぶつかってしまう。自分という檻の壁に。なるほど…。

亀の歩み稽古日記 「強さと柔らさと苦手意識」

「激しくキレのある動き」 水の動きにも色々ある。内なる声を響かせてどこまでも柔らかく限りなく微細に、まわりの空気と溶け合って流れる水もあれば、内なる声というよりも、流れそのものを感じて、フォルムを明確に現していくような水もあり、こちらは時に激しく空間を切るような勢いをもつ。後者のほうはちょっと苦手である。前者のほうが、好きな感じ。 でも今日少しわかったことは、水の強さを現す時も、柔らかな流れがないとできないということ。基本は柔らかく抜けていること。そして流れの中に強

亀の歩み稽古日記 「中心を通る~水のカラダで」

「水でやってみよう」と声がかかる。そう「水」。最も基本型になるもの。でもひと口に水といっても、多種多様、かつ深い。。 例えば水のカラダは、滞らずどこへでも流れていく。感情や情動と共に。とても柔らかく。その「柔らかさ」を追求していくと、感情、情動と共にあることが大切になってくる。身体の機能としての柔らかさも勿論大切だけど、それだけでは限界があるから。 ◆ 「声」を響かせる 感情、情動と共にあるとは? よく言われるのは、「声」を内側に響かせること。発声する声ではなくて、発声

亀の歩み稽古日記 「加速度と重力」

◆意識は光? 重さと軽さを踊る。重力の不思議。 「あるもの」を踊る。そのひとつに重さと軽さがある。重さの感情、軽さの感情と共に。重さ軽さがカラダを通る時、どんな感情が芽生えるのか、見つめて。 いつも重さと軽さが、等身大のカラダでしか感じられていない。そうではなくて、等身大のカラダを超えて、広がったカラダとして、重さ軽さを踊る。大切なのは行き切る、ということ。等身大のカラダを超えて抜けていけ。何が超えていく? 意識……意識は等身大のカラダに捕らわれず自由に駆け巡る。そ