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亀の歩み稽古日記

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舞踏家 由良部正美さんのもとで、踊りの稽古をしています。その中で思ったこと感じたことを、溢れるままに日々綴っています。良かったら、ふらりと覗いてみて下さい。
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記事一覧

亀の歩み稽古日記~我と汝・私とあなた~

私 と “ それ ” ではなく 私 と “ あなた ” という 世界 それは一体 どんな風なことだと 言えるのだろうか 例えば…こうじゃない? と師は話す 「 私が月を みているのではなく 月が 私を通して 月をみているのだ 」 ある種の直感を インスピレーションを 言葉にすると 詩のようになるのだな そう思った 月はもはや 対象物としての ” それ ” ではない “ あなた ” になる その感覚 私はあなたであり あなたは私である …というような 繋が

亀の歩み稽古日記~肝な話~

いつも稽古で踊っていることの、肝(キモ)の話だと思った。肝心なところ。 「今あること」の創造性を感じる大切さ。 今 あることの 創造性を みていく 例えば 重さ軽さ 知覚 表象と意志 私とあなた 「それ」じゃない 「あなた」として 感じる 対象物としてではなく 個人のあなたでもなく あなたという感覚 このカラダも そうすると 創造的になる 創造的であることは 個別ではない 私とあなたの 対話 を 深める 呼吸を深める 個別である部分もあるけれど 個別

亀の歩み稽古日記~踊りと日常~

・「情動」「眼差し」 私達を取り巻く様々な問題たち。 稽古で取り組んでいる事と、それらは無縁ではないはず。踊りで探求している核心へと繋がっていく。実際どのように繋げて日々生きていくのか。それは大きな課題でもある。 日々の尽きない悩み、葛藤…。相変わらず困っている自分。 どこから手をつけよう。 まず、踊っている時はどういう状態になっているか?という問いかけから。 恐れながら、ワタシ的には… 。ひとつには、「情動に深く入る」という感覚がある。内側に情動を深く感じながら、外

亀の歩み稽古日記~10月の覚え書き~

・行き切る 例えば上にいく時 すうっといく時 手を上げていたのでは遅い時がある 肉体は意識より遅いから そんな時、手は途中まででも 意識だけがすうっといったらいい 手を上げるにしても行き切って 植物 供儀の思い 実際どんな感じ?やってみる 私はというと、何かはわからないけど、大きなものに捧げたい気持ちがあった。 不思議だった。 何かわからないものに、捧げることが出来る心。そんなものがあったなんて。私は何かを確信的信じているのだ。でもそれは何だろう? 言葉にできるだろうか?

亀の歩み稽古日記~9月の覚え書き~

やっぱり稽古は有難い。対話のタネがてんこ盛り。追いつけないけど、少しずつ。 今は、誰かに伝える為に書くというより、自分との対話の為に書いている。だから、読みにくいと思います。。。 9/16 内側を讃えるのだ 胸を胴体を充満させる 腕足勝手に動きすぎ 上に抜ける時後ろ重心なりすぎ 色んな方向にも抜ける パターンになっちゃう 全体で動く 共に動く 手のひら 手のひらまで研ぎ澄ませて柔らかく すると胴体と繋がりやすくなり 指先まで通る感覚 バランスにも余裕が生まれる 9/2

亀の歩み稽古日記~自主練編9/1-9/13~

9月に入った。 ずっと水をやっている。水になりきれない不自由さを見つめて。 8月の自主練で気付いたことは、 腰と胸を使っていなかったということ。そしてそれら間接や筋肉を柔らかく動かすには、情動を感じるということの大切さ。おもにハートで!そうハート、、、自分の中で、この「ハート」というワードが一番わかりやすいから使ってる…。 情動と動きとの対話なんだろうなぁ。カラダが情動に開かれるというのか。その両者に対話が生まれるということ。 9月に入って、どんな感じかというと、、。

亀の歩み稽古日記~自主練編8/14-8/31~

・ずっと気になってる不自由さがあった。水の動きの中で。そして今日、当たり前のことに気がついた。それは、、このカラダには腰や胸があるんや…!!ということ。 …驚いた…何故なら腰と胸を殆ど使ってなかっ たから。水は “情動と共に” なんだけど、どうも不自由を感じていた。私の場合、それは腰や胸や関節の多くが眠っていたことが大きいんじゃないか。意識が通ってないということ。対話をスルーしていた。 カラダだったのだ、、!!これ。色んな動きが眠ってる。不自由さの謎のひとつ。 なんて不器

亀の歩み稽古日記~7/29~8/7

7/29 宿題が出た…。情動からどうやって闇に、感情になるのか。 8/4 宿題。…以下自分の考え。 …抜けることとの関係は?流れから居つきになるには。闇に間はない?…情動は常に対話があって動きと共にある。遍在する眼差しを感じる。それが闇に入るということは、、見るということが変わる?全てを見ていた眼差しから、思考のみを見ることへ。思考に止まる。間(ま)とは似ても似つかない。思考に止まると感情が肥大する。居付くから。情動、間と共にあったカラダは、思考、感情一色に染まる。感情の

亀の歩み稽古日記 7/8~7/31

7/8 慌てないで。勝手に動いているから。ゆっくりという意味ではなくて無意識に勝手に先に動かないようにという意味。間。眼差し。内も外も見ている。動きも情動も。 7/10 動きが先走っている。勝手に動いている。情動とずれている。わかる? 7/11 どんどんもっと深く対話していく。ここまで、という限界はない。 7/11 味わって余韻みたいなもの。間に繋がる 。 情動と動きとの対話を深めて。 間は広がり。石になる、石の踊り。見ることで空間が変わっていく。重力にカラダは委ねてい

亀の歩み稽古日記~無題~

「踊るって何だろう」まいど巡る…いつもいつも実感を探しているんだろう。カラダに問うてみる。そして対話を見つめる。 「対話、それ自体が踊り」という言葉。 エネルギーの波、粒々、を体感すること、見つめていくことが喜び。踊る喜びに触れる、そんな瞬間を少しでも沢山味わいたい。掴めそうで掴めない大切なもの。歯がゆさと、喜びは、紙一重。…意識の層を感じるよ。私達はあらゆる層を生きているのだな。自由にも不自由にも往き来してしまう。ままならぬ…。でもそのままならぬものをも見ていくこと。

亀の歩み稽古日記~6/19-7/3のメモ 言葉の風景

【稽古での言葉】命ある言葉の意味をカラダに取り込み、その世界観を創造する。。その段階に行こう、今すぐ。亀さんよ。 ・7/3 腕が肘が何故そんなに固まっている?胴体を通っていないから。 胴体を通らないと全体に意識が通らないんだろな、、 見えない流れを感じて。(心開いて聞いて。大事なことばかり語られているのだから。目の前の世界に心開いて。感情的になって閉じないで) 空気から水、もっと工夫してみて。手はあまり重要ではない。少しの腕の広がりでも満ちることができるはず。エネル

「黄泉の花」「舞踏館」への思い。続々・由良部正美さんへのインタビュー

京都舞踏館にてロングラン公演されていた 「黄泉の花」への思いについて語られています。舞踏館という空間についても。(本当に貴重な場所でした…) ・「黄泉の花」は、どのような思いで創ったの ですか? ーーー 花、というのがひとつあるよね。花の存在。花は植物の生命のひとつ。根っこができ、茎がのび、蕾ができ、花が咲き、種ができる。花というのは、植物の過程の中では一瞬というか、短い生命のひとつでしかないかも知れないけど、成長の時間の過程の中で、そこに開いていくというのは、何か

由良部正美さんにとって舞踏とは何か。インタビュー!!

少し前(2年程)になりますが、舞踏について由良部さんにインタビューした内容です。 ・由良部さんにとって、舞踏は何ですか? ーーー 舞踏は、この世の踊りではない。で、この世の踊りではないということはどういう事かというと、魑魅魍魎とか架空のものではなく、まさに私達1人1人のカラダがこの世のものではない。少なくともこの世を超えている、という事。「今、ここ」という事が、この世を超えているという事を表していて、そういうものの現れとして、舞踏はある。 あと、舞踏が日本で生まれた背景

白塗りは何故するのですか?続・由良部正美さんへのインタビュー

インタビューの続編。 ・白塗りは、何故するのですか? ーーー 白塗りっていうのは、普通化粧というとね、化粧によって、1人の限定された個人のカラダが何かになる、変身願望みたいなものとして化粧ってあると思うんだけど、舞踏において白塗りっていうのは、むしろ、そういう限定された個別のものを脱ぎ捨てる行為としてあるんだと思います。 僕だったら、例えば60歳の男性で日本人で、とかそういうものを脱ぎ捨てる行為としてある。その方が受け取ってもらいやすい。 男♂でも女♀でもない、性別を超