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セルフレビュー「龍樹へのトリビュート」

下記の論考に対する自己批判(吟味)です。

2024/6/2

関係の消失するところ

 あらゆる「変化」のないところの「今」は決して「現れる」ことのない「世界それ自体」、「世界そのもの」を指すことになる。言い換えれば、「本当に在るもの」だけを見ようとしたとき、「前後」、「時間」、「変化」、「情報」が消えるため、認識からはすべてが消えてしまい、認識そのものが消えてしまうのである。私の関係論の言葉で言えば、それは「存在の真理」と表現されるだろうし、それは「空」と言って差支えないのではないかと思う。
 そのような「今しかない世界」には因果関係が存在しない。なぜならそもそもそこには状態の遷移が存在しないからである。その世界には情報も関係も存在しない。何物も他の何物をも表象せず、それ自体としてあり、伝達という契機が存在し得ないからである。それは満たされたスピノザの神の世界であり、空の世界であり、ものそれ自体の世界、認識そのものに反する世界、それは私たちには決して届かないにもかかわらず、私たちがそこを生きている世界である。

 このように「世界それ自体」を見ようとしたとき、認識が消えてしまうということの事例をもう一つ挙げることが出来る。それは経済における「収支」や「資産と負債」の概念である。つまり、例えば国家間の収支が世界全体で見たとき、相殺されて0になるということは、存在の真理と関係の真理の関係に正確に対応する。

 世界を丸ごとそのまま見ようとしたとき、関係の体系である認識は消失してしまうのである。国家の収支も、世界内存在者にとっての認識もともに関係の体系であるがゆえにその全体をすべて考慮しようとすると、関係が消失するため、情報が消失する。

 これは知は関係の体系であるということの言い換えである。関係は常に何かと何かの間、何かに対しての関係である。故に、「なにか」に対してではないすべてを見ようとしたとき、それは消失する。そのすべての全体として世界を見たとき、それは関係を持たない。世界それ自体は世界それ自体に対して情報を持たない(全く同じもの、自己自身に対して情報は存在しようがない)。

 故にそこには知(関係)は存在せず、消失してしまう。また、逆にここから資本主義経済が本質的に比較と関係の体系であることが示されるだろう。

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