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龍樹へのトリビュート――反時間的独我論の真理について

 8~9年前、私が精神病院に行くことになる直前、発狂する直前に書いた「時間論」に手を加えてここに供養したい。南無阿弥陀仏。見直すと精神に異常をきたす手前とあって、色々イカれている。おかしな記述も多い(今だってそれを正常に判断できるのか?)。

 正直思い出したくもないロクでもない過去だけれど(そんな過去ばかりだ)、カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』や龍樹の『中論』を読んでいて、それらが自分の論じていたことと似ているように見えて感極まって、あれにも何か目を向けるべきものがあったのではないか、などと思った。そこで、内容を整理して、それを龍樹へのトリビュートとして残しておこう。実際のところ、これが正しいのかどうかはわからないけれど。

 その時間論はベイトソンの情報の定義、「差異を生む差異」から始まる。人は「情報」によって世界と関係する。人は感覚器官における刺激、反応(変化)が外界の変化と対応していることによって、自らの外部を知る。「変化」は世界と人間の関係を紡ぐものである。

 しかし、ここでいったん考えてみたいのは「変化」はどこに存在するのだろうか、ということだ。「変化」とは「世界のうちの何かが変わる」ということである。何かが「変わる」ということは「世界のうちで何かがそうであったところものがそうでなくなる」ということである。つまり、変化が存在するということは、この世界そのものが変化しているため、変化は起こってしまえばそれが変化であるがためにかつてあった形での世界の消失である。変化においては、その前にあったものは消えて、その後にあるものだけが残っている。

 「変化」は「変化前」にあるわけでもなく、「変化後」にもあるわけでもない。もしも、どちらか一方しかなければそれは「何も変わっていない」。もしも、前に後があるか、後に前があればそもそも両者を区別することは出来ない。変化はその「前後」を俯瞰する「視点」の中だけにある。

 しかし、「前」は存在するだろうか?「変化」においては「世界それ自体」が変わる。「前」は変化以前に「想定される過去の世界」であり、記憶による表象でしかなく、それはもはや「世界それ自体」ではない。「前」は世界それ自体には存在しない。「前」は常に何らかの痕跡(=観測、記録できるある物体を「媒体」とし「比較」によってそれに過去と現在、つまり差異化の「前/後」を差異づけるもの)として扱うものとの「比較」を経て得られるしかない。そして痕跡と現在の「比較」を経て得られる「情報=変化」はもはや「世界そのもの」では決してない。つまり、「変化」は世界それ自体には存在しない。

 ところで、変化の「前後」とは「時間」を構成する最も基本的なユニットである*1*2。しかしながら、「変化」は「世界それ自体」には存在しない。故に、「時間」は「世界そのもの」には存在しない。情報は、認識は、世界それ自体に存在しない変化、時間――その根源は「比較」である――を基に構成されている*3。

*1...「過去/現在/未来」の方が根源的だというかもしれないが、「過去/現在/未来」の中にはより基本的な構成として「前後」の区別が存在している(過去=現在の前、現在=過去の後であり未来の前、未来=現在の後)。

*2…ここでは時間の「向き」については何も議論していない。エントロピーが増大しようと、減少しようと、それはいずれにせよ「変化」である。

*3…ここでは「経時的な差異(変化)」しか論じていない。しかし、経時的でない「差異」も根源的に情報、比較の中にしか存在しない。経時的でない差異とはある「個物」と他の「個物」の「あいだ(関係)」の中にある差異であるが、それはある一方の存在する「個物」そのもののみにあるのではない。一方しかなければ、そこに差異は存在しえない。厳密に一つの個物だけなら「あいだ(関係)」は生まれない。差異はそれらを俯瞰する視点の中にしかない。

 つまり、厳密には「世界そのもの」には「今」しかないのである。ただし、その「今」は現象学的な「今ここ」ではない。なぜなら現象学的な「今ここ」は意識に再構成されている「現れ」であり、その「現れ」は「変化」の作用によって起こるもので、ここで述べているあらゆる「変化」のないところのそれとは異なるものであるからだ。

 あらゆる「変化」のないところの「今」は決して「現れる」ことのない「世界それ自体」、「世界そのもの」を指すことになる。言い換えれば、「本当に在るもの」だけを見ようとしたとき、「前後」、「時間」、「変化」、「情報」が消えるため、認識からはすべてが消えてしまい、認識そのものが消えてしまうのである。私の関係論の言葉で言えば、それは「存在の真理」と表現されるだろうし、それは「空」と言って差支えないのではないかと思う。

 そのような「今しかない世界」には因果関係が存在しない。なぜならそもそもそこには状態の遷移が存在しないからである。その世界には情報も関係も存在しない。何物も他の何物をも表象せず、それ自体としてあり、伝達という契機が存在し得ないからである。それは満たされたスピノザの神の世界であり、空の世界であり、ものそれ自体の世界、認識そのものに反する世界、それは私たちには決して届かないにもかかわらず、私たちがそこを生きている世界である。

 そして、以上を正しいものとすると、ある特定のタイプの独我論者を論駁することができなくなるという帰結が導かれる。それは「世界は常に同一である」と語る論者である。

 「世界は常に同一である」と主張し、変化の存在を否定する一者に対して、仮に私が変化の存在を証明するためにあるものを痕跡(それは記憶でも構わないのだ)として参照し続けても、その一者は頑として「前/後=差異化以前/以後」の差異の実在を否定し「比較」することを悉く否定するため、その説得は意味をなさない。そのような者は私が「痕跡」として示すものを「痕跡」として認めることがないからだ。

 あるものを「痕跡」とみなす時、この世界を現在と過去(あるいは差異化「前/後」)として差異化し、現在に存在するその「もの」に過去から与えられた影響を見る。それを私たちは「差異」だと言う。痕跡、差異を見るものはそのものに差異化以前以後の区別と同時に同一性を見る。

 しかし、「世界は同一である」と主張するものは同一性こそ見れども、そこに変化の存在を見ない。彼らによればその差異は単に恣意的な二項を――しかも明らかに世界それ自体とは異なっている二項(前後の区別、情報)を――強制的に選択して目的的に指定しており、それはいわば力に任せて世界の在り方を歪めて屈服させることと変わらないのだから。

 すでに述べたことではあるが、それを区別できる可能性との対比においてみればその主張を持つ一者は過去、現在、未来、前、後の区別を持たない、「時間」という概念を持たない。

 そのような者にとって、「過去」とは不確かな記憶でしかなく、「現在」は感官のもたらす幻でしかなく、「未来」は覚束ない予測に過ぎない。「前後」についても同様だ。あるいは、その主張に真に従って生きるものはそのようなことを考えさえもしないだろう。彼はありとあらゆる「比較」を拒絶するため、「考える」とか、「見る」とか「感じる」などということを全くしないはずだから。しかも、この「世界は常に同一である」を私たちは「真」であると言わないわけにはいかない。事実、変化は情報でしかなく、世界それ自体には存在しない。

 そして、「世界は常に同一である」、この命題を認め差異の実在を認めることがない論者は、全ての感覚与件による情報の獲得をまったく否定し、自らの身体の組織性をまったく否定する。

 というのも感官も含めたあらゆる情報は常に差異の比較で得られるためだ。言い換えれば、「世界は常に同一である」を真とする場合、感官の変化をも何も代理せず、何も表象せず、身体自身についても、身体の外界との関係についても、何ものをも伝えないものとして、そもそも「身体」という外界に対し自立した組織性を存在しないものとして扱わねばならない。

 何故なら「身体」「外界」もその物理的な組織性もまた、情報を処理する過程や新陳代謝など、差異の比較やそれによる不要物の代謝によって成立しているからだ。「世界は常に同一である」を真と見なす一者は「世界」と身体に「あいだ」が存在することを否定する。

 極端に言えば「世界は常に同一である」という命題を真であるとみなす場合、それを主張する論者の頬を私が打とうが、その論者の身体が完全に破壊されようが、世界には何の差異も起こらなかったとみなされる。

 そして、この「世界は常に同一である」という主張はまさしく独我論的である。なぜなら、このような主張をする一者は変化、差異、関係の実在、自身とは異なる者、他者の実在を――すべては世界として同一なのだから――否定するからだ。

 ただし、この命題を真とする場合、言語を、より正確には「情報」を使用することが全くできなくなる。それらは変化、差異を前提としているから。

 このように想定された論者を考察する試みについて述べることは非現実的であり、意味がないと思うかも知れない。しかし、この種の独我論者は恐らく歴史上相当数存在しており、中世の神学にはそれに近しいものへの探究があったのではないかと私は考えている。ニーチェは『アンチクリスト』においてそのような者の生きる世界がどのような世界なのかについて詳細に述べていると思う。

 しかし、何が非福音書的なものかといって、およそ英雄という概念ほど非福音書的なものはない。争闘することはなにごとであれ反対、自己が戦闘状態にあるという感情にすべてこれ反対――まさしくこの反対がここ福音書においては本能となっているのだ。抵抗の無能力がここではモラルとなっている。(「悪しき者にさからうなかれ!」は、福音書のもっともふかい言葉であり、ある意味におけるその鍵である。)平和における至福、柔和における至福、敵対不可能における至福、これがモラルとなっている。「福音」とは何を意味するか。まことのいのち、永遠のいのちが発見されているということ。  ――それは約束ではない、それは現に存在している、汝らのうちに在る。愛のなかにあるいのちとして、値引きも見切りもしない正味の愛のなか、距たりのない愛のなかにあるいのちとして。万人が神の子である。――イエスはけっしてなにごとをも一人じめにはしない。神の子として各人は各人と平等である……等々。こんなイエスを英雄に仕立てあげるとは!――そして「天才」という言葉もまったく何という誤解だろう!「精神」というわれわれが用いている概念、われわれの文化概念はイエスが生きている世界においてはまったく意味をなさない。生理学者の厳密さをもって言うなら、ここではむしろ、まったく別の言葉を用いる方がふさわしいといえるだろう。まったく別の言葉、すなわち、白痴。われわれは触覚が病的なほど鋭敏になる状態を知っている。そういう状態になると、なにか固いものに触れたり、掴んだりすることを無暗と恐がるものである。そういった生理的習性をとことんまで論理的に翻訳し直してみるとよい。――あらゆる現実への本能的憎悪、といったものに帰着するはずである。「掴みようのないもの」「捉えようのないもの」への逃避となるはずである。あらゆる形式、あらゆる時間・空間の概念、すべて確乎として風習、制度、教会である処のもの、いっさいに対する反感になるはずである。いかなる種類の現実も、もはや接触しない世界、単なる「内面」の世界、「真」の世界、「永遠」の世界に落ち着くことになるはずである。……「神の国は汝らのうちに在り」(『ルカ伝』17の20)

ニーチェ 西尾幹二訳 『アンチクリスト キリスト教呪詛』 潮文庫 1972年12月1日 p57~58 

「福音」とは、いかなる対立ももはや存在しないということである。天国は子どもたちのものだ。ここに説かれている信仰は、戦いとられた信仰ではない。――信仰は現にここに在る、はじめから在る。それはいわば精神的なものへ退化したところの子供らしさである。退化に引き続いて起こる現象は、器官が発育不全のために思春期が遅れるという症例であり、これは少なくとも生理学者にはよく知られたことである。――こういう信仰は怒りをしらない、他人を咎立てしない、わが身を防衛しない。それは「剣」を携えてはいない(『マタイ伝』10‐34)。――この信仰はいつの日か人の仲をどの程度まで引き裂くことになるか、少しも気づいていない。奇蹟によっても、報酬や約束によっても、さらには「聖書によって」も、この信仰は証明されはしない。信仰自体が、瞬間ごとに、その奇蹟であり、その報いであり、その証明であり、その「神の国」なのだ。この信仰は自己を公式化することもしない、――それは生きる、それは公式をしりぞける。もちろん、環境、言語、先行文化といった偶然が、ある程度は概念での範囲をきめてはいよう。つまり、初期のキリスト教は単にさまざまなユダヤ的セム族的概念を用いているだけである。(――晩餐における飲食がその一つである、全てのユダヤ的なものと同様、教会によってひどく濫用されたあの概念である。)しかし、こうした概念を、どうか一つの記号法、症例学以上のものとは、つまり比喩への機会以上のものとは看做さないように用心してほしい。この反現実主義者イエスにとって、言葉は一つとして文字通りに解されないということこそ、およそ彼が言葉を語り得るための前提条件なのだ。インド人の間にいたら、彼は数論派の概念を用いたろうし、支那人の間でなら、老子の概念を利用したであろう。――しかも、その際、何ら差異を感じたりはすまい。いささか大まかな言い方をすれば、イエスを一個の「自由精神」と呼ぶことが出来るかもしれない。――イエスは固定したものは尊重しない。言葉は殺す。イエスひとりが知っている「生」という概念、生という経験は、あらゆるたぐいの言葉、方式、律法、信仰、教義に反するものである。 イエスはもっとも内面的なものについてしか語らない。「生命」あるいは「真理」、あるいは「光」は、この内面的なものをあらわす彼の言葉である。――これ以外のもの、全自然、言葉そのものは、イエスにとってはたんに記号としての価値、比喩としての価値しかない。――キリスト教的な偏見、つまり教会的な偏見にうかうかと載せられそうな誘惑がいかに大でも、以上の点を掴み損なうことだけは絶対にあってはならない。イエスのような選り抜きの象徴主義者は、あらゆる宗教、あらゆる礼拝概念、あらゆる歴史、あらゆる自然科学、あらゆる処世術、あらゆる知識、あらゆる政治、あらゆる心理学、あらゆる書物、あらゆる芸術の外に立っているのである。――イエスの「知」は、これら各種各様のものが存在するという事実については、純粋な痴愚以外の何物でもない。文化というものを、彼は噂に知らなかった。文化に対する戦いを彼は必要としない。――彼は文化を否定しない。……同じことが国家について言える。市民的秩序と社会全体について、労働について、戦争について言える。――イエスは「俗世」を否定する理由を一度も持ったことがかつて一度もなかったのだ。「俗世」という教会的概念をまったく予感しなかったのである。……イエスには否定するということが、まさしく完全な不可能事だ。――同じように、イエスには、弁証法が欠けている。信仰、「真理」が、いろいろな根拠を並べれば証明できるという観念は彼にはない。(――イエスの証明は内なる「光」であり、内的な快感および自己肯定であり、すべては「効力の証明」(『コリント前書』2の4)に尽きるといってよい。――)こういう教えは、他の教えに対して反駁を加えるということすら出来ないだろう。反対の判断というものを想像するすべをまったく知らないのだ。…反対の判断に出会えばもう衷心からの同情をもって相手が「盲目」であることを――自分には「光」が見えるのだから――悲しむことであろうが、――しかし、かくべつ相手に異議を唱えることはあるまい。……

三十三

 「福音」の心理学全体には、罪と罰の概念が欠けている。報いという概念もない。「罪」、すなわち神と人との間の隔たりの関係はすべて、取り払われている――ということこそまさしく「福音」にほかならない。浄福というのは約束事ではないのだ。それは条件に結びつけられてはいない。「浄福」は唯一の現実である。――それ以外のことは、浄福について語るための記号なのである。……

 このような状態の結果は、一つの新しい実行、本来的に福音書的な実行の中に投影されることになる。キリスト者は「信仰」によって他から区別されるのではない。キリスト者は行動する、キリスト者は違った行動によって他から区別されるのだ。自分に悪意を抱いている者に対して、言葉によってもまた心の中でも決して抵抗しないということ、異邦人と同国人、ユダヤ人と非ユダヤ人を何ら差別しないということ(「隣人」とは昔の信仰仲間、ユダヤ人のことである)。法廷に訴え出ることもせず、法廷に喚問されることもないということ。(「誓う勿れ」『マタイ伝』5.33である)たとえ妻の不貞が証明された場合でも、事情はどうあろうと、妻を離縁にしないということ。――すべてこういったことは、もとをただせば一つの命題なのであり、一つの本能の結果なのである。

 救世主の生涯とは、ほかでもない、こうしたことの実行であったのだ。――彼の死もまた、実行以外のいかなることでもなかった。……救世主は、神と交わるために何らの方式、何らの儀式ももはや必要としなかった。祈りさえ必要ではなかった。救世主は、ユダヤ的な悔い改めと贖いの教えをことごとく清算したのである。自分が「神的」で「浄福」にみち「福音的」であると感じ、自分はつねに「神の子」であると感じているためには、ひとえに生の実行による以外にはない、救世主はそう心得たのである。「悔い改め」も、「赦しを求める祈り」も、どちらも神へ至る道ではない。ひとり福音的な実行のみが神へ至るのであり、実行こそはまさに「神」である。

ニーチェ 西尾幹二訳 『アンチクリスト キリスト教呪詛』 潮文庫 1972年12月1日 p62~66

 ――「時刻」、時間、肉体的生命とその危機というようなものは、「福音」の師にとって全然存在しない。……「神の国」は待って得られるようなものではない。そこには昨日もなければ明後日もない。「千年」たっても来るようなものではない。――「神の国」は心における一つの経験である。それはいたるところにある、それはどこにもない。……
 
三十五
 
 この「福音の使者」は、彼が生きてきた通りに、教えてきた通りに死んだ。――「人間を救済する」ためでなく、いかに生くべきかを示すために死んだ。彼が人類に残して行ったものは、実行である。すなわち裁判官や捕吏や告発者、あらゆる種類の誹謗や嘲りを前にしたときの彼のとった態度――十字架上の彼の態度である。彼は手向かいしない。自分の権利を擁護しない。最悪の事態にならぬよう身を護る処置を全然講じない。そればかりではない、彼は最悪の事態を挑発している。……彼は、自分に害を加える人びとと一緒になって、その人たちの中に立ち混じって、嘆願し、悩み、愛している。彼とともに十字架にかけられた罪人に、彼がのべた言葉は福音の全体を含んでいる。「誠に此の人は神の人なり、神の子なり」と盗賊が言えば、「汝此事を悟りたれば、汝は楽園に在るべし、神の子になるべし」と救世主は答える。わが身を護ることもなく、怒りも見せず、責を問うこともしない。……悪人に手向かいせず、――これを愛する……

ニーチェ 西尾幹二訳 『アンチクリスト キリスト教呪詛』 潮文庫 1972年12月1日 p69~70

 ニーチェの読解するイエスが、本当の歴史上のイエスに対してどれほどの正確さを持っているのか私は知らない。しかし、この記述それ自体には私が「関係の外部」、「存在の真理」とよぶところに触れる、ある特定のタイプの宗教の心理的な真理が記述されていると思う。

 そして、今回龍樹の『中論』を読んで、以上で述べてきたようなこと、「時間は存在しない」ということが書かれているのではないかと思った。

 それは「文学のふるさと」のように、大人の帰る場所ではない。しかし、優れた社会はその場所を知っている。そのようなものだと思う。

 この小論を龍樹に捧げる。


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