見出し画像

都会暮らしの秋 上

午前9時30分。私は知人から招待を受けて、上総一ノ宮行きの特急電車に揺られていた。
その人は大学時代にアルバイトで知り合ったイタリアンのシェフで、レストランを惜しまれながら退職したあとは、奥様と一緒に千葉の片田舎で個人のレストランを開いていたそうだ。伝聞調なのは、私もすでにそのアルバイト先を退職していて、彼の連絡先も知らない状態だったから。
 正確に今の状況を記述するとなると、「私が退職した後に入れ替わりで入った年下の従姉妹に今回の旅行の話を聞いて、同行することになった」というのが正しい。
「え、なんで外に出るのにもこもこの靴下履いてるの。それルームウェア用のやつでしょ」
「うーん。そう思ったけど向こうは寒いっていうから。一応ダウンも持ってきたよ。あなたは寒くないの?」
「カイロ何枚か持ったから平気。ダサいじゃんいろいろ荷物持ってくの。」
大きな黒いリュックサックに衣類や消耗品を入れた私はどうやら5歳下の女性にとっては見るに堪えないものであるらしい。彼女はその言葉通り、顔くらいの大きさのエナメルバックをひとつと、片手にホッカイロを持っているだけだった。彼女はこの会話の途中、私に一線もくれずに猫背気味にスマートフォンをいじくっている。彼に会うのも数年ぶりだが、従姉妹に会うのも親戚の正月で顔を合わせたくらいのものだったので、絶妙に気まずい。用意してきた話のネタも案の定彼女のスマートフォンに吸い込まれてしまった。
 「あ、つぎ。」と一言だけ彼女がそう口に出すので、落としていた目を上にあげると、目的地の駅が電車内の電光掲示板に映っていた。東京駅から1時間半くらいでこんなにものんびりした風景が広がることに驚きつつ、関東平野を一望できる千葉らしい地平線を私はぼんやりと窓越しに眺めた。

「おー!よく来たね二人とも!」
「こんにちは!お久しぶりです。」
改札を出たロータリーでしばらく待っていると少し泥のついた品川ナンバーの車で背が小さく、分厚い体の男性が窓から手を振って私たちを歓迎した。その人が紛れもなく、今回私たちを家に招待した張本人だった。人懐っこい笑みを浮かべながら、彼は挨拶もそこそこに後部座席に乗り込んだ従姉妹と既に会話を楽しんでいる。私も急いで乗り込み、2人が車の中で近況報告を話している声を聞きながらなだらかな田園風景を車窓からながめた。私と話す時よりも2トーンほど高い声で話している親族の顔は車内の湿気で少し汗ばんでいた。
30分くらいすると車はなんども急カーブを描き、やがてゆっくりと森の一角に止まった。目的地に着いたのだ。
 森、のような木が茂った区間を抜けると、真っ白なレンガで出来た夫婦の家がそこにあった。2匹のレトリバーが私たち3人を迎えた。
「東京にいたときよりも野生化してさ。いろんなところでトイレしちゃって、困るよなあ。」
 呆れた顔をしながらも愛犬をなでる手は、当時と変わらない優しい人柄を体現していた。
「でも、ほんと田舎ですね此処って。人来るんですか?」
「割とくるんだよそれがさ。今は場所が多少悪くてもSNSで呼び込めば来てくれる人たちも多いしね。県民はみんな車持ってるし」
「確かに!車さえあればどこにでも行けちゃいますもんね。」
「そうなのよ」
これも知らなかったことだが、この2人は仲がいいらしい。招待されたのは実は染色では従姉妹と私だけで、他の人は個人で店を開いたことすら知らない人が少なくないらしい。2人の会話にはいれる気もしなかったので、手持無沙汰になった私は綺麗に整えられた生け垣をぼうっと見つめていた。黄色と紫と、いっぱいの若緑色が玄関を彩っていた。賑やかな2人の足元には一匹のレトリバーが黒い瞳をきらめかせながらしっぽを振っている。綺麗な花々、玄関の近くにもう一匹のレトリバー、そのすぐ横に、白い厚底のスニーカーとすらっとした白い足が見える。顔を上げると二人の会話をニコニコしながら聞いている女性と目が合った。
「あ…初めまして。前からお世話になっていて…。」しどろもどろになんとか会話の先頭を私が着ると
「はじめましてー!主人から聞いてます。あなたもあそこで働いていたのよね?」
あそことは、あの東京のレストランである。彼女は快活な笑顔で犬の手綱を牽きながら私のほうに近づいた。
「あ、そうです。私がアルバイトやめて入れ替わりで」
言い終わるより先に既に玄関に入っていた元気な二人が私と女性を手招きする。彼女は夫とアイコンタクトを交わすと、
「寒いでしょうから、中に入って話しましょ。」
と私を促した。
 4人の団欒はお昼過ぎまで続いた。シェフである彼が作る料理はどれもおいしかったし、その妻である女性がデザインしたフラワーアレンジメントは家の雰囲気にすとんと収まる素敵な作品だった。そしてなによりも、2人の間に流れる距離感が心地よかった。2人の世界に入ることもなく、だからといって愛し合っていることを隠すようなそぶりもない。
知らぬ間に顔が柔らかくなっていたようで、従姉妹にそのことを指摘された。
「なんでそんなににやついてるのよ。」
「あ、ごめん。お2人がその、素敵だなあと思って。」
私がそういうと、2人は顔を見合わせて、ふっと笑いあった。その光景を見てさらに、心が温かくなる。話題がとめどなく右に左に流れ、時に笑ったり、驚いたり。
そんな時にふと、気づくか気づかないかくらいの短い間が訪れた。落とされた会話のボールを拾い上げたのは彼の奥さんで、一つの質問として私の方向にそのボールが投げられた。

「そういえば、あなたは何をしてらっしゃるの?」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?