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ロシア・バルトめぐりー二年前の日記を掘り返してみる

推敲をほとんどせず毎日投稿をしている。さすがに首が回らなくなってきたので、今日は休息日として、2年前の2020年3月(パンデミックの直前である!)から約二週間、友人と駆け抜けたロシアとエストニアでの奮闘を記録した日記を掲載することにする。なお、内容には若干の偏りと日記ならではの鬱々しさがありそうなので先に謝罪を入れておく。

ロシア・エストニアの旅


3/2 東京→モスクワ 雨とか曇り
 家に洗濯ネットとコートにつける帽子を忘れた。雨がちらついていた為、適当にトランクに突っ込んだレインコートの出し入れに戸惑ったがそれでも何とか9時過ぎの電車に乗ることはできた。東京の雨はぬるく、電車の中は汗の臭いが充満している。駅で友人と落ち合い、2人で成田空港に向かう。メッセージには既に返信をしてある。チェックインを済ませて(預け入れ手荷物の入れ替えに手こずった。)適当に家電などを見て回り、入国審査もさらりとかわし、ロシアの旅路に付いた。
 飛行機は思ったより何十倍快適でサーモンのお寿司が美味しかった。あとはモルスというベリーのジュース。ヨーロッパの味がした。
 正直、飛行機内でどう過ごしたかは覚えていない。降りた後の疲労感たるや。まず入国審査では気怠そうな金髪の女に無言で審査をされる。ロシアでのSIMカードは日本で購入をしていないため、現地で調達しようと前々から決めていた。インターネットで軽く調べた時に出てきた日本語のサイトを信じて、ある携帯ショップに目的地を定める。『15 Day 5GB』と書いたメモをスタッフに見せると無言でパスポートとスマートフォンを要求され、なすがままにサインをした。最後の設定も全て小柄な男のスタッフがしてくれた。ロシアで受けた初めての気遣いだった。荷物を受け取った後の出口を誤解し、アエロエクスプレスでは乗る前のエレベーターでせっかちな男に舌打ちされた。乗る前に落ち着かせようと飲んだザクロのジュースは土の匂いがした。
 会話のまったくない列車に1時間揺られてベラルスカヤ駅に着く。ヤンデックスタクシーを必死の思いでオーダーするも、位置情報があやふやで二度もキャンセルされた。空気はどんどん暗くなる。バッテリーも底をつき、同行人のスマートフォンでタクシーを呼ぶことに成功する。あの時の安堵は忘れることはできない。
 ホテルでは大男と金髪巻き毛のスタッフが対応してくれた。ろくに話も聞かずに写真を撮って寝た。暖房のリモコンはマイナスではないので貸し出さないとのことだった。

3/3 モスクワ 曇りのち雨
 ロシアについて最初の朝はとても眠い。stolleというパイのチェーン店でキノコとポテトのパイを食べた。初めてのまともなロシアの食事に泣きそうになった。道路はとても広く、大通りは3車線だ。途中でブランコを見つけたので、2人で乗ってみる。歩道橋はなく、代わりに地下道がある。トヴェルツカヤをまっすぐ進みながら、体で車との距離感、歩く速さ、目線の合わせ方などを学んでいく。クレムリンは思ったものと違うが、公園のツンとした寒さが好ましい。はじに進むと大きな像があったのでそこで写真を撮った。ベンチに座ってクレムリンの中に入るためにどうすればいいのかを調べる。私は何もせずにじっと待った。鳩は冬毛でまんまるとしていた。なんとか通り過ぎたチケット売り場でチケットを購入し、クレムリンのエントランスに進む。なかなか列が動かない。前には次々と団体客が割り込む。後ろの女性の目線が痛い。何かスタッフと揉めているようだ。同行人がスマートフォンを取り出して何が起こっているか訊くと、もう1人の女性は辿々しいキーボードフリックで、金属探知機システムのエラーだと教えてくれた。1時間ほど待ち、手は震え始め、足の感覚がなくなってくる。列が動き始めるとさらに女性たちは詳しいエントランスの入り方を教えてくれた。あんなに待った入場は2分で終わり、その先にいた男性にチケットを軽くちぎってもらう。さらに進む道の行く先を間違えて大統領府に入るところで、若い警官に無言で止められた。あの警官が格好良かったことはサンクトペテルブルクにいる今でも忘れられない。
 外はとても寒く、凍えるようだが、教会の中はとても暖かい。中にはマフラーを頭に巻いて入る。スカーフを持っていないからだ。壁、天井ありとあらゆるところにイコンが描かれている。目が回りそうだ。教会のドアは小さく、中は広い。ロシアの人々とよく似ている。
 クレムリンを抜けると聖ワーシリー聖堂が見える。なるほど私はクレムリンとこの聖堂が同じものだという勘違いをしていたらしい。雨が降ってきたのですぐにグム(百貨店)に向かう。こんな時期でもアイスを食べるのはロシア人の性質の一つなのだろうか。博物館のような店を後にし、帰路に着く、体はもうくたくただ。トヴェルツカヤのマックでハラペーニョバーガーとデリでポピーシードケーキを購入した。雨がひどくなってきたが、スーパーでもベリーとヨーグルト、それにチップスなどを購入した。
 夕食は最高に美味しく、酷く安心した。入浴後は泥のように眠った。

3/4 モスクワ 曇り
 朝は澄んだ水色の世界だ。昨日行けなかったクレムリンの武器庫を見るために11時にチケット売り場に到着、カウンターの女性が気を利かせて、12:00入場のところを1時間早めにしてもらった。イコンに必ずと言っていいほどある後光の金属がお気に入りの一つとなった。この日は武器庫の後が大変でグムの中で1時間ほど今日やることのリストを作り、アルバート通りで少し遅い昼食を取ろうとするも、通りの観光客向けに作られた土産物の外観とのちぐはぐさに気が遠くなった。あの文化はロシア人ではない。やっと入った定食屋ではペリメニをチョイスした。少しだけ落ち着いた。救世主キリスト大聖堂に向かう。もう歩く気力はなかったのでタクシーで向かった。クレムリンとは違い、今も使われている教会だからだろうか、重苦しさが私には耐えられなかった。黒と鈍色がどこまでも続いていた。同行人は1番感動したようだが、私はこんな世俗的なものには感動を覚えることはできない。今を生きている人々の魂に分け入って入るようで気が抜けない。だからこそ、その後の橋の上から見たモスクワ川の美しさには心を打たれた。私はまだ、美しさに震える心を失っていないのだと安堵した。それからはただひたすら歩き、クレムリンのエントランスが見えるところまでヘトヘトになりながら歩いた。帰りはタクシーで夕食のマリ・ヴァネのところまで案内してもらった。
 ホテルから近いロシア料理のお店で、ボルシチがキノコベースの優しい味でとても美味しかった。マッシュポテトは生クリームとバターがたっぷり入っている。予約をしていないので、ショートでのディナーだったが、落ち着いた夕食だった。ブラックカラントの自家製リキュールは度数が間違いなく高かった。ほろ酔い気分でホテルに戻り、明日の予定を立ててから泥のように眠った。(後友人から。私は友人に丸投げして、寝ていたらしい。)

3/5 モスクワ 曇り
 今日は朝からタクシーで蚤の市に向かう。開いていないかと心配になったが、寂れた遊園地の先に少しだけ市場が開いていた。友人はマトリョーシカとトランプ、ピアスを買った。私はソ連時代の紅茶入れスプーンを購入した。価格は10000p。まあ妥当だろう。クレジットカードがあって本当によかった。そして今日はメトロに乗る日。市場の最寄のパルチザンスカヤからトヴェルツカヤに向かう。緊張したがトロイカカードは問題無く購入、使用できた。メトロは地下深くまで繋がっており、ドアは閉まるのが早い。そして日本よりも格段に速く、正確だ。ロシア人は降りる駅の前の駅でもう席を立つ。歩くのが早いのもあるが、常に忙しいのはロシアの気質だろうか。それともモスクワだけか。システムが日本や韓国と類似していたので乗り換えも問題無く進んだ。トヴェルツカヤでは昨日上手く頼めなかった定食屋でリベンジを果たした。(その直前パスポートチェックがあったのはとても焦った。)牛肉の上にマヨネーズがかかったものはロシアのジャンクフードのようで、美味しい。ロシアの食事はとても口に合う。トヴェルツカヤでは加えて大きな高級スーパーにも訪れた。友人が買ったチョコレートは甘さ控えめで美味しかった。苦味も少ない。
スーパーで軽く夕飯を買ってホテルに戻る。今日は1日通して有意義だった。明日は最後のモスクワだ。時の流れは早い。

3/6 モスクワ 曇りのち小雨
とうとう9都市の中でお別れをする都市ができた。最後のモスクワの朝は少し肌寒い。朝ご飯のキャラメルヨーグルトはかなり美味しかった。箸でも食べることができる。今日はドストエフスカヤにメトロで向かい、ドストエフスキーの家博物館に訪れる予定だったが、生憎の工事中で見ることができなかった。コロメンスコエの自然公園に向かった。寒すぎて途中で断念したが、荒寥とした教会と大量のカラスがノスタルジックだった。
トヴェルツカヤに戻って最後の赤の広場へ行く。軍歌隊が演奏をしていた。モスクワの淀んだ曇り空によくあっている。最後には小さい子(おそらく孫)の手を引きながらロシア語の歌を1人の軍人が歌っていた。歌詞は全くわからなかったが、ロシア人の生活のあり方を垣間見た気がする。
明日は女性の日という祝日なので演奏の後にはチューリップのブーケを軍歌隊が女性に手渡しをしていた。心が温まる出来事であった。アルバート通り(二回目)で遅い昼食を食べる。意外にも美味しく頂けた。ヌードルスープはマリアさんの味がした。
アルバート通りを抜けた先に本屋があるのではらぺこあおむしとモスクワ川のポストカードを買う。スイミーは残念ながらなかった。徒歩でホテルへ帰る。チェックアウト次に荷物を置いていたので受け取ってからヤンデックスを呼ぶ。タクシーの中で言語学の授業を思い出していた。私たちはあの建物を表す記号を知らないから作品としてモスクワの街を見ることができるのだろう。芸術家たちは記号を知らぬまま新たな記号を生み出すのだろう、と。
大渋滞のレニングラード駅に着いたところで私たちは駅に入る。金属探知機もお手の物だ。3時間の長い待機時間の後、不安になりながらもロビーで待つと「23:55」の文字盤が見える。私は赤の列車に乗り込んだ。

3/7 モスクワ→サンクトペテルブルク 曇りとか晴れ
 寝台列車は快適で、ゆったりと左右に揺れる動きを楽しんだ。
 サンクトペテルブルク駅まではあっという間だった。着いた瞬間にタクシーのぼったくりの洗礼を受ける。なんとかヤンデックスに乗って、ホテルに着くと、actually を多用する男性スタップがおり、ホテルの滞在証明を受け取ることができなかった。エルミタージュ美術館が近いので徒歩で向かう。10:30からチケットを買えるようで1時間ほど寒空の下でまった。不安は感じなかった。朝焼けがとても綺麗で泣きそうになった。アレクサンドルの像が、道を照らしていた。
 美術館は空腹と眠気に支配されていたといっても差し支えないのかもしれない。その位の膨大な美術作品と豪華絢爛な内装の数々だった。ヒエロニムスボッシュがあったのは私にとっての感動だった。地図が複雑で二階だけ回るので5時間以上かかった。ラファエルの回廊は写真に収めると映える場所だったので是非家族には見せたいと思う。適当に最後は見て回ると皆が言っていた意味がわかった。ミケランジェロの石像は一瞥にとどまったし、ダヴィンチは思ったよりも小さいという感想しか湧かなかった。オランダの絵画の展示が1番私にとっての意義のある展示だった。現代美術館にも行った。モネやルノワール、ゴッホなど錚々たる面子が並ぶ。ひとつだけ心惹かれる絵を見つけた。名前も時代も知らない、1人の女の絵画だった。暗い背景に青白い顔がより一層神秘さを際立たせていた。頭を使ったので甘いものが食べたい。あと単純にお腹の空きが限界を迎えている。近くのスーパーでカップ麺とパンを買う。マトリョーシカキャラメルも購入できた。
 ホテルに戻ってチェックインを済ませた後(電話で確認すると滞在証明は明日の朝には渡してくれるそうだ。あのactually男め。夕食をゆっくりいただき(友人はよりにもよってカレー味のラーメンを盛大にぶちまけた。火傷がないのが唯一の救いだ。)、手早く風呂に入る。モスクワのよりも暑くて気持ちが良い。体が温まる。厚手のバスローブに腕を通し、日記を書く。短い1日だった。

3/8 サンクトペテルブルク 曇りのち晴れ
 日曜日である。宮殿広場まで続きエルミタージュ美術館の入場待機列に驚きながら、駅に向かう。今日は友人きっての願いである、ドストエフスキーの旅である。トークン(コイン)を使ってドストエフスカヤ駅まで行く。文学博物館は本当にそのまま(であろう)の生家があった。青緑の壁紙とタバコと時計が記憶に残っている。友人が存分に浸っている間にエストニアの観光地にピンをつける。この博物館は居心地がとても良かった。女性の笑顔は記憶に新しい。
 ドストエフスキーの墓は入場に200ルーブルかかり、少しだけ観光地化されているのが残念だったが、日向ぼっこの場所としては最適だった。冬技の隙間から太陽の光が差し込んでくる。歌いながら歴史の偉人たちに話しかけてみた。失恋したから歌わせて、と。日本語のメロディーはお気に召したでしょうか。友人が白と赤のカーネーションを持って献花しに戻ってきた。手を合わせる。耳が少しだけ痛くなった。
 ドストエフスキーの罪と罰の聖地にも赴いた。正直地図との睨めっこは辟易としたが、友人が楽しいなら良いだろう。寒くなってきたのでセンナヤ広場裏の大きなスーパーに行って夕食と朝食を買う。エビの陳列が新鮮だった。
 今日は女性の人なので街ゆく女性たちはミモザやチューリップの花束を持っている。モスクワで見たのは男性が花束を持っている姿。私たちは生憎渡されることはなかったが花束が移動したことがわかるのは微笑ましかった。夕方の川から見た風景はとても美しい。美しい意外にもっと表現力があればいいのだが、私はその術を知らない。夕方の風景とライトアップした建物はペテルブルクの週末の終わりを予感していた。エルミタージュ美術館の週末最後の夜は幻想的だった。人々が語り合い、飛び跳ね、ぼったくりが機会を伺う。宮殿広場であるカップルがプロポーズをしていた。心からの拍手を送った。夜も深まってきたのでホテルに戻ろうとする。おる1人の男のせいで気分は悪くなったが、夕食の豪勢さに舌鼓を打つ。インスタントのマッシュポテトもかなり美味しかった。
 蚤の市で買ったトランプで大富豪をする。今日はとても充実していた。

3/9 サンクトペテルブルク 曇りのち晴れ
 今日はサンクトペテルブルクを1日使える最後の日だ。血の上の救世主教会、カザン大聖堂、イサーク大聖堂に行った。カザン大聖堂の聖歌隊には心洗われた。ずっと聴いていたい。音が私の心臓を揺らした。昼食を予定していた場所が閉まっていたので急遽調べたお店に向かう。かなり美味しい昼食が頂けた。共有で食べる旨を伝えるとボルシチを2人分のスープ皿に分けてくれた。気遣いがとてもありがたい。1人1500ルーブル程だった。ゆっくりとイサーク大聖堂の周りを回り、ネヴァ川に沿って歩く。一匹の烏が助走をつけて橋の天辺に向かい、軽やかに上に急上昇して先端に足をかけた。烏もこの風景に感動するのか。それともただの川なのか。市民のように。
 イサーク大聖堂の中を歩き、展望台に通じる螺旋階段を登ってゆく。まだ外は明るい。
友人がロシア人と思われる人に写真を求められていた。美に関しては努力を惜しまない友人だから、きっととても嬉しかっただろう。恐らく私のネイルも褒めてくれた。富士フィルムのポラロイドは残念ながら反転してしまったが、人の好意を直接受けた出来事であった。土産屋でスプーンを買う。自分のドイツ語力が下がっていることに焦りを覚えた。夕食はニシンのオイルづけて簡素に済ませた。明日のためにパッキングを済ませる。もっと荷物を軽くしたいと常々思った。明日の朝は早いので、すぐにでも眠りに付きたい次第である。

3/10 サンクトペテルブルク→タリン 晴れとか曇り
 ペテルブルク最後の朝は早い。6時には起きて朝ごはんを済ませる。友人は朝に強いのでご飯を済ませているが、私はまだベッドから起き上がることができない。なんとか着替えをして朝の支度をする。どうやら手袋を何処かに落としてしまったらしい。どこにも見当たらない。ついでにボールペンもどこかに置いてきてしまった。私は物をなくす天才らしい。最後のロシアのタクシーのドライバーはとても笑顔が素敵な男性だった。バスに乗り込む。ロシアの出国は特に聞かれることもなかった。ロシアからの観光客が邪魔で休憩がしづらい。
 大変だったのはエストニア入国の方で、私の英語力が単純にないことが問題なのだが、帰りの飛行機のチケットを見せるまで審査官に疑いの目を向けられたのが辛かった。コロナの影響で体温を測られた。カイロで顔がほてっていたので焦ったが、何事もなくて安心した。その後のロシア人の視線が辛く、無表情かねるしかなかった。逃げるようにバスを出てからタクシーを呼ぶ。珍しく女性のドライバーだった。自分たちでトランクを入れて、すぐにホテルに着く。簡素なビジネスホテルといったところか、すぐにチェックインを済ませた。すぐにホテルを出てタリンの旧市街を歩く。少しだけ海の匂いを感じたかったが、残念ながらそれは叶わなかった。タリンに来たという思いが私の心を駆け巡った。遂に来たのだ。タリンの地に降りたのだ。
 夕食はオルデ・ハンザという中世をモチーフにしたレストランで食事をした。特にスープとパンは絶品で、ひよこ豆とほうれん草のパテは日本でも作ってみようと思う。クレジットカードでチップを要求されたのは新鮮だった。白鳥ガチョウではない(swan is not goose)はなにかことわざのようなモノだと思うが、私たちには分かりにくいデザートの名前であった。満腹のままホテルに戻り、ゆったりとした夜を過ごした。

3/11 タリン 雨
ずっと雨の日は今日が初めてかもしれない。喉が痛い。ホテルの朝ごはんは意外にもバラエティ豊かで美味しかった。今日はタリン旧市街で買い物をした。私は琥珀のピアス、蜂蜜をかけるためのスプーン、失恋を癒す薬と
不眠に効果のある薬を買った。市議会薬局は本当に由緒ある薬局のようで、蜥蜴のホルマリン漬けや、謎の液体であふれていた。長寿のお酒も気になるところだが、今後の荷物のためにもやめた。あとでそれを後悔することになる。失恋の薬は2個買った。もっと買えばよかった。雨がだんだんと冷たくなってくる。凍えなから本屋に入るもお目当てのはらぺこあおむしは見つからなかった。カフェと併設している本屋はおしゃれだが、本の状態が少しだけ気になった。寒いのでスーパーに向かう。軽井沢のアウトレットパークのような場所で、屋根があるのがとても嬉しい。スーパーでは夜ご飯を買って、そうそうにホテルで夕食を済ませた。必ずびちょびちょになるバスルームからでて、日記を書いて眠る。少しだけ眠れない夜だった。

3/12 タリン 曇り時々雨
 喉が痛く、鼻水が出る。とにかく暖かくて喉を潤すものが買いたくて、近くの薬局で蜂蜜入り喉飴を買う。今日は市場(TURG)に来た。雨は降っていないが、今日もどんよりとした鼠色の雲が広がっている。2階に上がる。ここもロシア同様右側が止まり、左側が歩くために空いている。やはり関西人の方が北欧では生きやすいらしい。古着はセンスが良く、格子柄の緑のスカートがとても私のクローゼットに合うと思った。すぐに決めるのは良くないので明日もう一度行こうと決めた。同行者は布と陶器でできたブローチを買っていた。ソ連時代の骨董品屋でしばらく唸ったあと、何も買わずにホテルに戻る。昨日の夕飯用に購入した燻製肉の余りとドーナツを買って食べる。ヨーグルトの風味のクリームが中に入っており、美味しかった。
 サウナに行くことはかねてより強く切望していたので、今回はスパにいく。ホテルに併設されているスパでぶっきらぼうな男が対応した。シリコンリングを受け取ってその中に入っている電子パットのような板でロッカーを開閉する。壊れているロッカーが多く、閉めるのに苦労をした。ジャグジーとサウナが併設されており、軒並み観光客はジャグジーで賑わっていたので、私たちはサウナに向かった。一番よかったのは寝転がって蒸気を受ける形式のサウナ。天井がプラネタリウムの星のように点々と光っていて、いくらでも入れる心地がした。プールで体を冷やして、スチームサウナで喉と体を潤す。そしてプールに入る。2時間ほどいただろうか。バスローブで体を拭き(借りるのを忘れたので途中でレセプションにいった。3€)、保湿を確実にする。鏡の前で化粧品を広げていると、隣の老女がドライヤーの使い方を巡って格闘している。助けを求められたので対応すると、エストニア語で、お礼の言葉を言われた。もちろんなんと言っているかは何もわからないが、何を伝えたかったのかはわかる。温かい気持ちだった。雨のタリンは好きだが、外には出たくない。予約をせずに菜食主義の料理店に向かったが、満席とのこと。隣の伝統的な料理店は常連らしい男2人組がいるのみだった。そこで飲んだスープとパンの美味しさを私は生涯忘れることはないだろう。鮭とジャガイモとディルのシンプルな魚のスープ。黒パンとバジルを混ぜたバター。優しい女店主と慣れない英語。タリンの全てがそこにあった。ゆっくりと食事を堪能し、外に出た。雨は止んでいた。

3/13 タリン→タルトゥ 晴れ時々雨
 最後の朝食を食べる。市場の古着は空いていなかったので、スカートを買うという目標は絶たれた。激しい後悔を覚える。大使館からの連絡のメールにはもう慣れた。タクシーでバス乗り場まで向かう。優しい男性だった。そういえば未だに乗車拒否を私達はされていない。口づけを交わす交際3時間目のカップルを視界の隅に置き、バスを待つ。同じバスではないことが確認できて心底安心した。タリンからタルトゥにいくには森を抜けなければならない。針葉樹が私の瞳を覆った。森が多い国に来たと思った。タルトゥについてからは歩いてホテルに向かった。地図を間違えたが、友人には言わなかった。ホテルは隠れ家のようで、ドアの立て付けは悪く、受付は小さい。ホテルは可愛らしい部屋を用意された。バスタブが恋しい。スーパーでこれから必要な分の食事を買いに行く。食費が安くなりそうだ。夕食は間違いのない美味しさで、お酒を入れて談笑した。ラトビアは行けるだろうか、リトアニアはきついだろうか、大使館からのメールを読み合いながら、旅行の続行を昨日決定したばかりだった。ポーランド大使館から緊急の連絡が入る。15日からの外国人の入国禁止措置。私達はすぐに帰国することを決意した。急いで全てのホテル、移動手段の予約を取り消す。航空便はフィンランド経由のものに変えた。ヨーロッパから自由が消える。歴史的瞬間に私達は東欧の片隅で、朝を待つ。


3/14 タルトゥ 晴れ時々雨
 遅めの朝食を食べて、買い物に出かける。残り少ないエストニアの滞在を無駄にはしたくない。2人で行動するのを控えて、1人行動をしてみる。ゆっくりと自分のペースで商品を見るのは落ち着いた気持ちになれる。2人になると途端に重い気持ちになるのは、きっと目線が私達に集中しているからに違いないだろう。誰もいない木造の家屋は爽やかな匂いが鼻腔をくすぐった。古本屋では気が遠くなるような歴史の重い匂いと、可愛らしい笑顔を見つけた。いつも以上に重苦しく、神経を使う。今まで優しかった目が、私達を見ると強張る目つきになる。久しぶりに家族と連絡を取ったが、安心はできなかった。刻一刻と変わる世界情勢を前に、私達はただ情報を待つことしかできない。フィンエアーが航空便を減らしたので代替便を使用する。日本航空なので、確実だろう。ラベンダーに包まれて眠りたい。そのまま目覚めなくても良いのに。嫌な汗をかいた。

3/15 タルトゥ 晴れ
 憎らしいほど晴れていた。今日は外に出るのは自粛して、荷造りの作業を進める。ラトビアは既に国境を封鎖し、エストニアは17日からの停止を発表した。終わりの時が近づく。旅の終わりではなく、ヨーロッパ連合の急激な終焉である。そこに立ち会えた後ろめたい喜びと緊張感を同時に味わう。スーパーの買い出しは私が1人で行った。トイレットペーパーと牛乳はもう残り少ない。
夕食は特に代わり映えのするものもなく、お腹いっぱい食べた。朝食が思ったよりも量が出てしまったので、まだお腹に残っているらしい。今は日記を書きながら少し恋愛漫画を読んだ。なんとなく人が恋しい。
 最後のビデオを録画し、寝床に着く。帰国したらもう一度日記を見返して、追加で書くだろう。

3/16、17 タルトゥ→ヘルシンキ→東京 雨とか晴れ
 最悪の夢を見た。恋愛漫画の主人公になっている夢を見る。最後の朝だった。無理やり6時50分に起床したため、口の中が気持ち悪く、吐き気がする。前日の夜に設定した7時5分のアラームはクリスマスソングだった。間違いなく起きれる曲のため、少しだけ前日の私に感謝の意を込めた。前日に荷造りは済ませていたため、ベッドの隣の棚に置かれているピン留めやペンをリュックに押し込む。7時36分に携帯を一度見た。カードキーを握りしめ、イヤフォンがあることを確認してホテルから出る。早くにチェックアウトをしたため、フロントの爽やかな男性が軽い朝食を紙袋で持たせてくれた。バス停に徒歩で向かう。雪が地面を覆っていて、まさに雪化粧という言葉がふさわしい。滑りつつも8時頃にはバスの待合室まで到着した。リュクスエクスプレスのシステムにはもう慣れた、車窓からタルトゥの街並みを見る。また来ると胸に誓った。さようなら愛しい街、貧しい街。鳥と森の国。タリン国際空港はこぢんまりとしていて、エストニア人らしい人は見かけない。17日からエストニア政府は国境を封鎖し、フィンランドはエストニアを往復する便を取りやめる。私たちの日程の運の良さに堪らなくなった。朝ごはんを食べながら昨日開けたスナック菓子を食べる。お手洗いにアルコール消毒があったのはとてもよかった。同行者がコーヒーを買いに空港内のカフェに行った。私はその間ラジオ配信を聴きながら携帯を見ていた。同行者から1通のインスタグラムメッセージが来る。持ち帰りというのを忘れたため、戻ってこれないとのことだった。仕方なく2人分の手荷物を見ながらタイピングに勤しむ。目の前にバックパッカー風の男がたった。何事かと思い、急いでイヤフォンを外すと、写真を撮らせてくれとのことだった。初めは男性自信を撮るのかと思ったが、一眼レフを構えていたため、勘違いではなく私が被写体になれということらしい。戸惑いながら椅子に座り、普段どおりに携帯をいじった。物凄い勢いで2つの画角から撮られて、物凄い勢いでさっていった。ペテルブルクでの事件と言い、私たちはヨーロッパ人になにか来るものがあるらしい。
 入国ゲートを通り過ぎ、免税店で買い物をしようと思ったが、軒並み閉まっていた。恨めしい気持ちでヘルシンキ行きの飛行機を待つ、チャーター機のようなとても小さい機体でプロペラが外部についている。とても心配な旅の始まりだった。40分ほどでヘルシンキに到着し、乗り換えの飛行機を待つ。割とお店は開いていて、免税店もテスターはできないものの、カウンターは開いていた。ここから日本語が聞こえるようになってくる。親しんだ言語に嫌気が差した。特にバーガーキングにいた女子大生5人組には2人とも視線を逸らしていた。
スナックを食べ終わってから、ベンチで休憩する。最後のフライトの時間が始まった。JALの旅は快適だった。成田空港に着いた。乗り換えで親切な初老の男性にトランクを運んでもらった。優しさが心に染みた。駅では弟が向かえにきてくれた。久しぶりに見る弟の顔に少しの安堵とこの旅の終わりを悟りながら帰路についた。

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