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御伽怪談第四集・第七話「迷い出る女房」

  一

 延宝六年(1678)、時代は徳川様に代わって七十年ほどが過ぎた。ある春の敦賀での出来事であった。
 旅籠はたごの主人・七右衛門が大袈裟に語りはじめた。
「ここは古くからある町で、まだ海の向こうに新羅しらぎの国があった古代のこと、王子・ツヌガアラシトがこの地を訪れたことから、この土地を敦賀つるがと呼ぶように……」
 五人の旅人たびびとが宿に泊まっていた。気比けひ神社の参詣なのか、貞吉は他の者の理由を知らなかった。
 貞吉の前に太郎兵衛が座っていた。彼は越中富山の薬売り。彼と同じような姿をした横の喜作は大阪・道修町どしょうまち薬種商やくしゅしょう。薬の種を売る商いである。
 やはり大阪の材木問屋・木曽屋藤兵衛と丁稚の佐平どんが、貞吉の横に座っていた。そしてこの貞吉の五人のお客であった。
 木曽屋のふたりと貞吉は相部屋である。相部屋は互いに知り合うことが出来、旅の楽しみのひとつであった。
 敦賀は、神社と共に気比の松原が有名で、虹の松原、三保の松原と並び、三代松原と表されていた。

 この松原にはたくさんの伝説があった。夕食の前に主人の七右衛門の講釈があり、これは宿の名物であるらしい。
聖武しょうむ天皇の頃にござりまする。外国そとぐにの大船団が、にわかに海を覆いつくしたことがござりました。もちろん侵略のことなれば、その恐ろしげな船上に、たくさんの蛮族が乗っておりました」
 と、睨みをきかせた。
「やつらは、手に手に武器を持ち、見たこともない甲冑を幾重にも着こんで、今か今かと、上陸の機会を狙っておりました」
 刀を抜く真似をした。
 その時、薬売りがつぶやいた。
の悪いことじゃ」
 丁稚の佐平どんが小さな首を傾げた。
「ふのわるい?」
「あぁ、むかっぱらの立つことやね」
 貞吉が答え、七右衛門は続けた。
「民が恐れおののく中、翌朝のことじゃった。なんと、一夜にして海辺にたくさんの松林が現れ、気比神社の使いとされる白鷺の群れが、松のいただき数多あまた止まったのじゃ」
「おぉ……」
 歓声が上がった。
「それを目にした蛮族は、それ、敵大軍勢の旗物指はたものさしなりと思い込み、怖れをなして逃げ帰ったのでござりまするぞ」
 貞吉は、昔話を聞かされて、少々うんざりしていた。と言うのは、他の者は今夜が聞きはじめかも知れないが、彼は数日前から泊まっていたのである。仏の顔も三度までと申すごとく、毎回の同じ話に飽きていた。
 主人の講釈が終わると、いよいよ夕食の御前が運ばれて来た。
 その時、また、七右衛門の昨夜と同じ講釈。
「ちょうど運悪うんあしく、越前蟹の季節も終わり、名物のなれ寿司には早い頃。やはり当地名物の、なつめの炊き込みご飯、これは仏に備える林檎りんごのごとき香りがして、ぜひ食べて頂きたい物なれども、こちらも秋の食べ物でござりました、とさ」
 と笑った。
 それから、
「今宵は、名物の食べ物とてなく、普通の四十物あいものばかりと存じまするが、どうぞ、ごゆるりと……」
「あいもの?」
 佐平どんが、またまた首を傾げた。
 木曽屋の旦那が笑った。


  二

 木曽屋の旦那が話を続けた。
「ああ、海産物や塩魚、乾物のことを申し、ここいらの物が上等とされておるわい」
「へぇ、わてらの口には、あまり入るもんではありまへんなぁ」
「たまには出すであろう」
「さいで」
 佐平どんはペロリと舌を出して笑った。
 海が近いからか、やはり魚は旨かった。三日や四日で飽きるものではなかったが、話の方は飽き飽きしていた。
——明日はここを出たいものだ。
 そう思いながらも実家に頼んだ金が来なければ旅籠代すら払えない貞吉であった。彼には複雑な事情があった。しかし、この物語には無関係である故、語ることはないだろう。

 さて、七右衛門は客あしらいを済ませて奥に引っ込んだ。仏壇の前に座ると、蝋燭ろうそくに火をつけて、線香の煙をくゆらせた。両の手を合わせると、ゴニョゴニョと南無阿弥陀仏なんまいだぶと唱えていた。チーンとおりんを鳴らすと、また手を合わせた。それからおもむろに、
「おりく、明日はお前さんの命日。夢で良いから幽霊となって、どうか目の前に出て来ておくれ」
 と言ったと思うと、また、チーンと鳴らして南無阿弥陀仏を唱え続けた。その時、部屋の隅に白い影がぼーっとさした。しかし、七右衛門は気がつかなかった。元々、彼に霊的なものを見る才能はなかった。たとえ見えたとしても、分からなかったかも知れない。人は理解出来なかったことを記憶に残さない。見ても分からなければ、見た瞬間から忘れてしまうのである。記憶とは曖昧なものだ。心に引っかからない物事の多くは忘れられる運命にある。だが、認識すら出来なかった物事は、見ている端から忘れてしまうのである。
 おりくはすでに幽霊の姿で七右衛門を見ていた。残念なことに、彼には分からなかった。おりくは悲しくてシクシク泣いていた。成仏出来なかったことを悲しんでいたが、やがて、なぜ悲しいのかも忘れてしまった。
——どこかへ行がなければならない筈。
 時々、そんな胸騒ぎのような感覚があった。しかし、すぐに忘れた。
 七右衛門の思いが強すぎて、この世に縛られ、成仏出来なかったのだ。身内が亡くなった悲しみは、時として死人しびとの成仏を邪魔する。身内の心が強すぎて追善供養もきちんと行われはしない。もちろん七右衛門は仏事を行なっているつもりである。だが、仏壇の前に座る度に想いはおりくのことばかり。気は入っていなかった。おりくは流行り病で亡くなってから、成仏することだけを願っていた。
 死んだ亡者は、とりあえず賽の河原へ到着するが、幽霊になった者は賽の河原へ逝くことすら出来ずに、この世を|彷徨さまようのである。
 地縛霊は土地に縛られた霊である。死んだ時に発した強いネガティブな感情が、土地に記憶され再現される現象である。囚われた土地の力で、見る人は見てしまう。
 浮遊霊は、あたりに浮遊している霊のことだ。地縛霊よりは霊的に強い存在だが、数は少ない。自分が死んだことが分からず、あたりを彷徨《さまよ》っている。自殺した者の霊も浮遊霊となる。基本的にはどこにでも移動出来るが、生前に知っている場所に限定される。
 だが、おりくの場合はどちらとも違っていた。夫が妻の死を悲しむあまり成仏出来なかったのである。生きている者が死を悲しめば、死んだ者は浮かばれなくなる。亡者の心が残るだ。もちろん、普通の悲しみのことではない。尋常ならざる悲しみが起こった時、亡者は成仏の機会を失うのだから。


  三

 皆が寝静まった夜半の頃、貞吉は静かに部屋を抜け出した。夜逃げなどではない。単に廁へと向かっただけだが、相部屋の者たちを気使ってのことであった。
 厠は離れにあった。暗い廊下を過ぎて階段を降り、奥の厠に向かうと、常夜灯の明かりが揺れていた。雨戸の隙間から月明かりがもれていた。春先のおぼろ月であった。
 厠の窓から、ふと、外を見ると……裏口にぼんやりと人影らしきものが見えた。良く見ると、うっすらと光っていた。その時は月明かりかと思った。そこには死装束を着た美しい女が、肩を落として佇んでいた。人魂らしきものも漂っている。
 女の額に三角の紙がついていた。これを〈紙烏帽子〉と呼ぶ。わが国のみの仏教では、人が死ぬと紙の烏帽子をつけられる。これは烏帽子であり、死後、人が神の国へ逝くと考えられていた頃の名残りだ。死者を棺桶に入れる際、三角の紙烏帽子をつけて埋葬する。だから幽霊がこの世に迷い出る時、この紙がある。紙烏帽子には本来〈卍〉が描かれている。しかし、それは死体のこと。幽霊になったら無地になるとも言われていた。幽霊は着物を左前に着ていた。足はある。足のない幽霊は絵の中の話である。

 死装束の女を見て貞吉はゾッとした。背筋の毛が立つのを感じて寒くなった。額から眉間にかけてムズムズする。目眩めまいがして虫酸むしずが走った。まわりで虫の鳴き声が響いた。さわやかな風が吹いていた。貞吉は黙って見ているしかなかった。金縛りにあって体が動かなかっただけかも知れない。
 幽霊は宿へも入らず、こちらに近づく様子もなかった。貞吉はいよいよ怪しく思ったが、不思議な違和感があった。幽霊と呼ぶにはあまりに普通に見えていたのである。
 貞吉は首を傾げた。
——これは幽霊の姿をしているだけの生きた人ではあるまいか?
 と思うようになっていた。
——人魂は、芝居でやるように、竿か何かで吊っているのであろう。
 とも思った。
 厠から出ると、思い切って確かめてみることにした。
 霊山立山では、偽幽霊を見せて亡き人のフリをすると聞く。これもその類かと思っていたのである。幽霊はこちらを見ていなかった。気がついていない素振りだった。
 貞吉は息を殺し、
——化けもんのフリして騙すなど、どうれ、ひとつ懲らしめてやろう。
 意気込んで静かに近づいた。
 そろりそろりと足音を忍ばせ静かに近づくと、不安そうな女が見えた。しばらく息をひそめて眺めていたが動く気配はなかった。ハッキリとは見えなかった。
——もう少しで見えるかも?
 と思いながら、足を進めてみた。すると、女の顔がハッキリと見えた。悲しげな表情で舐めるように貞吉を見上げたのである。
 女の顔はどこまでも美しかった。白く儚さもあり、近くで見ると透けていたのだ。
「あっ」
 貞吉は小さく叫ぶと息を飲んだ。
——透けている? 人が透けるなんてあるもんか?
 頭が混乱した。その瞬間、女は掻き消すように消えてしまった。
「こ、これは、やはり……」
 思わず声が出てしまった。本物の幽霊だと思うとガタガタと震えた。眉間がムズムズする。このムズムズした感じが新たな霊を呼ぶことを貞吉は知らなかった。


 四

 冷や汗が吹き出して、手足がぎこちなく動いた。夜中のこと、やっとの思いで部屋に帰ると、相宿あいやどの誰にも言わず黙って夜具を被った。目を閉じると、幽霊の姿が瞳に焼き付いていた。朝まで一睡も出来ず震えていた。この幽霊の正体は、七右衛門の亡き女房・おりくであった。
 おりくは悲しかった。夫は妻の死を悲しみ過ぎていた。だからなかなか成仏出来なかったのである。成仏をせず、この世を彷徨い歩く日々は単に悲しいだけだ。

 ようやく夜が明けると貞吉は主人の七右衛門に挨拶した。それから昨夜の出来事を話すかどうか悩んだ。ふと、七右衛門を見ると仏前に線香と花を手向けている。
 七右衛門が貞吉を見つけて涙を落とした。
「今日はわが妻・おりくの命日にござります。昨夜の夢に、おりくが背戸口へ来て佇んでおりました。まざまざ見申したが、夢とは思えなかったでござりまする」
 貞吉は、昨夜のことを思い出して背筋が寒くなった。瞼を閉じると幽霊の姿を思い出した。怖ろしく思いながらも、主人には何も語れなかった。
 七右衛門は、ただ青い顔をして眺める貞吉を見て少し苦笑いした。
「幽霊話は苦手で……すまぬ、すまぬ」
 人によっては怪談を嫌う者がいる。恐ろしさのあまりに拒絶するのだ。七右衛門は貞吉がその手の者だと思った。
 その時、大阪木曽屋の旦那と佐平どんが現れた。旦那があくびをすると、七右衛門はふたりを見つけた。
「これはこれは、おはようござりまする」
「やぁ、おはようさん」
 佐平どんが元気よく叫んだ。
「おはよう、ございます」
 木曽屋の旦那が笑った。
「おう、まんまんちゃんあんですな」
「懐かしい。よくご隠居さまが、仏壇の前で申しておられました」
 佐平どんが仏壇の前に座って両手を合わせた。それからまた、あんと言いながら両手を合わせた。
「はて、あんとは?」
「ここらでは申しませぬか? 仏壇にお子たちが祈る時に申すこと」
「へぇ、一向に存じませぬなぁ」
 薬種商いの喜作と、薬売りの太郎兵衛も起きてきて、喜作が笑った。
「おぉ、あんですなぁ」
「喜作はんのとこでも言いますか?」
「わても道修町の生まれやさかい」
 眠そうな目の太郎兵衛は首を傾げていた。
「富山では申しませぬか?」
「聴きはじめで……」
 喜作は笑い、両手を合わせた。
「お子たちが祈る時のやっちゃねん」
 太郎兵衛は首を傾げた。
「今日は誰ぞの命日か何かで?」
 七右衛門は、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに涙を浮かべて申した。
「はぁ、亡き妻・おりくの……」
「それはそれは」
「ところで、死んだ身内にこだわり過ぎれば、亡者もなかなか成仏も出来ませぬぞ」
「えっ?」

 はじめて幽霊を見ると、幽霊だと分からないものだ。普通に見えるため、人ではないかと疑いたくもなる。現実は、見ている人にしか見えていないのだが、そんなことは分からない。現実と区別もつかなくなっているのである。幽霊はこの世のものではない。しかし、現実に影響を与えることもある。恐怖のあまりに見た人の体調が狂うこともしばしばあると言う。『諸国百物語』より。〈了〉

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