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御伽怪談短編集・第五話「犬を恐れる男」

第五話「犬を恐れる男」

 予・宮川政運の父がまだ若かった頃、江戸の本所石原町に播磨屋惣七と言う人足の世話人が住んでいた。これはその男から聞いた体験談である。
 晴れた秋の日のこと。そろそろ紅葉が色づいて、落ち葉も舞う季節。惣七たち数名が両国からの帰り道に、ひとりの男が近寄って来たと言う。
「どこへ参られまするや?」
 声をかけたのは痩せた貧相な男であった。顔は嫌な感じであったが、着物は新品のようで、糊がきいてパリパリしていた。言葉は下町の江戸弁などではなく、なんだか丁寧な印象があった。
 惣七は男の姿を不審に思いながらも、
「われらは石原町へ帰る途中である」
 とだけ答えた。
 すると、男はモジモジしながら申した。
「それならば、なにとぞ、この私を連れて行ってくだされ」
 惣七は、その言葉に首を傾げた。
「それは良うござんすが、何故《なにゆえ》に?」
「私くしどもは、たいそう犬に嫌われておりまする。すぐに襲われるのです。もし、途中に犬にでも出逢ったらと考えると、もう、怖くて怖くて……」
 男は震えながら、両手を合わせて何度も頭をさげ、
「どうか、ご一緒にお連れくだされ……」
 と、切に頼むのであった。
 惣七は男を気の毒に思い、
「それなれば、われらと一緒に来られよ」
 と、連れて行くことになった。
 連れ立っての道すがら、突然、カラスの群れが飛び立った。まるで悲鳴をあげるかのように鳴くと、そのまま飛び立って行ったのである。風に黒い羽根が舞う中を、惣七は驚いて顔をしかめた。
「カラスに何があったと申すのじゃ?」
 配下の五郎左・三郎・喜七も、風に巻かれて驚いていた。
 件の男は、
「カラスにも嫌われてござる」
 と肩をすぼめて笑っていた。
 嫌っていたのは、カラスばかりではなかった。野良猫たちが遠巻きに見ては、唸り声をあげた。男が猫を見ると慌てて逃げ出した。
 惣七が笑って申した。
「猫までであるか?」
 男も苦笑いするしかなかった。
 人を恐れる猫は珍しいことではない。しかし、常に人を小馬鹿にするカラスが、人を恐れるなど稀なことだ。しかも、このような貧相な男を恐れるのだから、不思議と言うしかなかった。
 男は案外、うちとけていた。見た目よりは明るい性格らしく、時々、笑いもした。しかし、何を申しても、絵に描いたような貧相な雰囲気は消えなかった。
 惣七は、男と語りながら、
——これだけ貧相ならば、さぞ、犬も吠えつくであろう。
 と思ったと言う。
 男には無精髭もなく、頭も結ったばかりのようであった。日焼けのあとすらなく、青白い顔が印象的であった。
 惣七は、
——この男は職人か何かか?
 と思って手を見たが、職人らしき風情もなかった。まるで白魚しらうおのような綺麗な指をしていて、それが一層、不思議であった。人と言うものはその体に特徴が出るものだ。人足の世話人を生業なりわいとする惣七には、それらの特徴を見極める特技があった。しかしである。この男にはそれがない。何の特徴もないのである。たとえば職人なら職人らしい腕の筋肉がある。商人なら算盤そろばんに慣れたタコもあるだろう。だがこの男と申せば、まるで先ほど生まれたばかりの大人のように何ひとつ特徴らしきところがなかった。しかも、この男、名を何と申すのか? 名乗る気配すらなかった。袖振り合うも他生の縁。たとえ僅かな道すがらとは言え、名乗らないのは不自然だった。だが、どうしたことか? 不思議にもこの男、自然に惣七たちに溶け込んでいた。
 ずいぶんと歩いた頃であろうか、男は突然、震え出した。
「この先のお屋敷では、まことに恐ろしきことに、かの土佐犬を飼ってござる」
「土佐犬?」
「私くしどもが最も恐れる犬畜生にござる」
 言葉も震えていた。
 配下の五郎左が眉をしかめた。
「それはお気の毒にござんす」
 まだ、屋敷が遠いにも関わらず、土佐犬の吠え出す声が聞こえた。誰もが屋敷の建物が揺れ出すのではないかと思える激しさであった。
 男は震えて、惣七の影に隠れた。
「こ、これが、恐ろしかったのでござる」
 反ベソをかきながら、手足をぎこちなく動かしていた。土佐犬の激しい鳴き声で、屋敷は大騒ぎとなっていた。
 惣七は男に背中を押されながら、
「それにしても、見事に嫌われたものであるのぉ」
 と笑っていた。そこからしばらく歩いても、まだ遠くに土佐犬の吠える声が響いていた。
 やがて一行いっこうが、石原町入川の所まで着くと、先の男がぺこぺこしながら申した。
「さてさて、ありがたく存じまする。私くしどもは、このお屋敷へ参る者……」
 大きなお屋敷を指差すと目が潤んでいた。やっとの思いでここに来れたのであろう。惣七も貰い泣きとでも申すのか、少し目が潤んでいた。
「それは良うござった」
 すると男は笑いながら、
「ここは向坂と言えるお旗本にて千二百石、今は屋敷替えの最中でござりまして……」
 と、満面の笑顔を見せた。そして、目に涙をいっぱいにためて興奮しながら、
「ようやくこの屋敷に辿りついてござる。まったく、あなた様方のおかげで……」
 と、何度も感謝を申した。それから声をひそめて、
「さて、申し上げておきまするが……私くしどもは、世間にては〈疫病神〉と呼ばれる者」
「えっ?」
 一瞬、惣七たちが、ざわめいた。
「や、疫病神?」
 五郎左が震え出した。
 皆、その言葉だけが頭の中で繰り返えされた。
 男は言葉を続けた。
「お礼と申しては何でございまするが、家に疫病神が入らぬ方法をお伝えいたしましょう」
 そう告げると、着物のホコリを払い、襟を正して、
「月はじめの三日に小豆粥を炊いた家へは、私ども仲間一統、入ることはございません」
 そして男はニヤリと笑い深々と頭をさげた。それから頭をあげ、
「これをお礼に申しあげまする」
 と言ったかと思うと、突然、空が暗くなった。男の姿は、まるで立ち込める煙のように薄くなり、消え失せて行った。遠く雷鳴で空が瞬いている。カラスが鳴いた。一瞬、木枯らしかと思うほどの寒い風が吹いた。するとである。消えた疫病神と称する男が立っていたところから、ギシッギシッと足音がした。地面を見ると、足跡の形に、落ちていた木の葉が枯れて屋敷に向かって行った。やがて、足跡が屋敷に入ると、屋敷の中が騒がしくなった。言い知れぬ不安の念にかられたとでも言うべきだろうか? 後で聞いた話だが、増築工事をしていた職人のひとりが、足場から落ちたそうである。この時は不安な気持ちが伝わって来ただけで、騒ぎの原因は分からなかった。
 不思議なこともあるものだが、その日から向坂の屋敷に次々と病人が出はじめたそうである。これは予の父が播磨屋から直に聞いた話である。それ故、わが家では今でも月々の三日に小豆粥を炊いて食している。

小豆は、和漢方では昔から知られており、炭水化物や糖質の代謝を助ける。疲労回復や倦怠感、筋肉痛などの夏バテ予防や、貧血予防に役立つ食材とされている。疫病神を避けるには、夏バテなど季節特有の疲れを予防することも良いかも知れない。
 さて、疫病神は人を頼って目的地へ行くことがある。神とは言え、人間界では人間になって行動する必要があるのだ。
 そんな時の疫病神は、
「まるで生まれたての大人のような雰囲気がする」
 と、いくつかの書物にも書かれている。
 また、犬がいると吠えかかられるので恐れたようである。すべての犬を恐れている訳ではない。犬の中に、疫病神が恐れる嗅覚を持ったものがいるのだ。
 近年、新型コロナ・ウィルスを犬が嗅ぎ分けることが知られている。昔の人々は、病のことを感覚的に知っていたのかも知れない。『宮川舎きゅうせんしゃ漫筆』より。〈了〉

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