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"セルフコントロール"について思ったこと

ふと、思ったこと。

よく耳にするようになって久しい言葉"セルフコントロール"や"セルフマネジメント"。
その術を身につけるためのたくさんの本やセミナーが、ありとあらゆるところで出版されたり、開催されたりしている。
自分の"コントロール"や"マネジメント"が出来ることが、大人になること、成功する人間になること、の条件みたいにもなっている。

でも、私にはこれが、その言葉が、どうもしっくりこないのだった。
ただ単に、私が私を"セルフコントロール"出来ない人間だから、それを認めたくないために、受け入れられないだけなのかもしれない。

しかし今日、ふっと、思ったことがある。
"コントロール"や"マネジメント"という言葉は、見てわかる通り、日本語ではない。外来語(英語 )である。
ということは、外来語が入ってくる前の日本には、その概念がなかったのではないかと思う。

"コントロール"を直訳すると"制御する、支配する"であり、"マネジメント"は"管理する"ことである。
ということは、"セルフコントロール"、"体をコントロールする"、"気持ちをマネジメントする"ということは、自分を、体を、気持ちを支配する、制御する、管理するということになる。

んん??
ここに、私はものすごく大きな違和感を覚えるのだ。なぜなら、自分の体や気持ちというものは、いちばん身近な"自然"だと思っているから。
その"自然"を"コントロール"や"マネジメント"するという発想が、どうも私の感覚とは違うような気がしてならないのだ。

その"違う"感覚は、そもそも"自然"に対する価値観の違いから来ている気がする。
西洋的発想では、自然は"支配するもの、制御するもの"であり、立ち位置としては人間が上、自然が下。
一方、日本的(東洋的)発想では、自然は"畏れ敬うもの、共生するもの"であり、立ち位置は自然が上、人間が下。
その日本的発想の根源はもちろん、日本という国が豊かな自然に囲まれると同時に、その自然が起こす地震や台風などの多くの災害に見舞われてきたからだろう。だから、山や海や川に神が宿ると感じて、それを畏れ敬い、鎮め、祀ってきた。

話が少し逸れたので、元に戻す。
では、"コントロール"という言葉が外国からもたらされる以前の日本には、そのような考えはなかったのだろうか。

日本語には、"己を律する"、"身体の声を聴く"、"気持ちを鎮める"という表現がある。

"己を律する"の"律する"とは"一定の規範や基準を設け、それに照らし統制、管理すること"であり、そもそも"律"とは"掟、法則"のこと。
では、その照らし合わせるべき"法則"とはそもそもなんなのか。それは、"自然の法則"だったのではないかと思う。
また、"身体の声を聴く"とは"自分という自然に耳を傾ける"ことであり、"気持ちを鎮める"とは"自分という自然の中にいる霊を祀る"ことだったのではないかと思う。
だから、全てが自分を中心とした"セルフコントロール"発想には、繋がらないのだ。

私がそう感じるようになったのは、たくさんの社寺仏閣を訪れるようになってからのような気がする。
先人達が畏れ敬い祀った"自然=神のいる場所"の中に自分の身を置き、はっきりとした理由はわからないけれど、恐怖を感じて体が重くなったり、涙が溢れたり、急に気持ちと体が軽くなったりする経験をした。
そこには、コントロールなどできない、抗いようのないものがあるということを、"自然"の中にいる"自分"という存在もまた、"自然"なのだということを、何度も感じたからだと思う。

と、ここまでつらつらと書いたけれど、私に"セルフコントロール""セルフマネジメント"という言葉がしっくりこないのは、やはり、私がそれを出来ていないから、といいうことが、1番の大きな理由な気がする。
おいおい。