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映画『オッペンハイマー』へのアンサー

今月末から、日本でもようやく映画『オッペンハイマー』が公開される。
世界では昨年公開され各国で大ヒットしたにも関わらず、日本での上映が見送られたこと、今年に入ってゴールデングローブ賞、アカデミー賞などの名だたる映画賞を総なめにしたこともあり、日本公開に向けての注目度は否が応にも高まっているようだ。
私としても、できるだけ多くの人に、日本人に、この作品を観てほしいと願っている。

私自身は昨年7月に、ボランティアとして働いているロンドンの映画館で『オッペンハイマー』を観た。上映中に何度も涙が頬を伝い、唇をかみしめ、エンドロールが終わった後はしばらく座席から立ち上がることができなかった。それほどに、この映画は私にとって衝撃的な作品だった。英語があまりよくわからず、作品の半分も理解できていなかったにも関わらず。

そして、ただ衝撃的だっただけでなく、私にとって非常に大きな意味を持つ映画となった。
これほどまでに心を揺さぶられ、何か行動を起こさなくては、と思わされた映画に、私はこれまで出会ったことがない。
ある意味で、この映画は私にとって”人生を変えた映画”になりうるかもしれない。
そして私だけでなく、日本人にとって『オッペンハイマー』は、”観なかったこと”を後悔することはあっても、”観たこと”を後悔する映画ではないと、私は思っている。

クリストファー・ノーラン監督による映画『オッペンハイマー』は、そのタイトル通り、ロバート・オッペンハイマーという人物についての伝記映画である。
“原爆開発の父”と呼ばれた物理学者が原爆を開発するまでの過程、日本に原爆投下した後に苛まれる苦悩、そしてその経験から後世は水爆開発に反対したことで、今度は旧ソ連のスパイではないかと疑われる姿、そうした彼の半生を描いた映画である。
つまり、その主題は原爆投下や、反戦・反核ではない。映画は、オッペンハイマーが経験した心の葛藤を中心に描かれている。
ノーラン監督は、この作品をオッペンハイマーの主観から描くことによって、彼が経験したジレンマを観客も体験し、自分がオッペンハイマーの立場だったならどうするか、を考えてほしいと願っていたようだ。
その監督の意図は理解できるし、実際に映画を観た多くの人が、監督の意図通りに映画を受け止め、考えただろう。
しかし、私はそのように受け止めることができなかった。私は「自分がオッペンハイマーの立場だったら」ということよりも、この映画では描かれなかった「被爆者の立場だったら」の方を、強く体験し、考えたのだ。

私は被爆者遺族でも広島出身者でもなければ、今まで平和や核兵器について真面目に考えるようなタイプでもなかった。
日本の学校教育の中で戦争や原爆について一通り学び、夏になればテレビの終戦記念特番や金曜ロードショーで『火垂るの墓』を見るくらいのものだった。
広島の原爆ドーム、平和記念資料館を初めて訪れたのもつい数年前のことだし、長崎へはいまだ訪れたことがない。
そんな私が、「被爆者の立場だったら」と考えたのは、異国の地ロンドン(戦勝国であるイギリス)で『オッペンハイマー』を観たということが何よりも大きいと思う。
これまで感じたことのなかった‟日本人としてのアイデンティティ”を、驚くほど抱いたのは、ロンドンの映画館で唯一の日本人観客としてこの映画を観たからだった。
そして、この映画を観た人にこそ、オッペンハイマーが生み出した原子爆弾によって、広島と長崎で何が起こったのか、ということを伝えなくてはいけない、と強く感じた。
日本で、日本人に囲まれて観ていたら、この感情は決して湧き起らなかっただろう。

そしてその感情に突き動かされ、広島原爆のもたらした惨状を描いた映画『ひろしま』をロンドンで上映するという行動を起こした。期待していたほど多くの人に届けることはできなかったけれど、それでも30名ほどの方が映画を観に来てくれた。
私が行動を起こしたことで、少なくとも30人には、オッペンハイマーの苦悩の末に生み出された原子爆弾によって、心身ともに地獄の苦しみを味わった人たちがいるこということが伝わったことは、意味のあることだったと信じている。

アカデミー賞授賞式後、クリストファー・ノーラン監督と、『ゴジラ-1.0』の山崎監督の対談が行われた。
その中で山崎監督は『オッペンハイマー』をたたえるとともに、「日本が返答の映画を作らなくてはいけない、という気がすごくしました」と語っていた。それを聞いて、昨年『オッペンハイマー』を観た後に私が感じたことは、この感覚に通じるものだと思った。
『オッペンハイマー』に対する私なりの返答(アンサー)が、「被爆の実態を伝えること」であり、その手段として『ひろしま』を上映することだったのだ。
きっと、これから映画『オッペンハイマー』をご覧になる方も、それぞれにこの作品に対して感じることがあり、それぞれの解釈、問題提起、そしてそれに対するアンサーを抱くことだろう。そこには善悪も正解もない。観た人みんなが感じたこと、自分なりの答えを大切にしてほしいと思う。

大江健三郎氏の著書『ヒロシマ・ノート』の中に書かれている中国新聞の論説委員(1964年当時)金井利博氏の言葉がある。

原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。(中略)平和の敵を明らかにする論争のなかで、まず被爆の原体験を国際的に告知する基礎的な努力がなおざりにされてはいないか。(中略)広島、長崎の被爆者が、その死亡者と生存者とを含めて心から願うことは、その原爆の威力についてではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』

この文章は、1964年に書かれたものであるが、60年経った今も、たいして状況は変わっていないのではないだろうか。
先人たちが努力をなおざりにして伝えてこなかったわけではなく、世界の関心が結局、その人間的悲惨よりも威力の方にしか向けられていなかったということだろう。
そして、映画『オッペンハイマー』が世界に知らしめたものも、やはり“威力として”の原爆である。
ならば、私たち日本人が今一度、世界に発信すべきは、間違いなく“人間的悲惨として”の原爆であろう。

ロシア・ウクライナ戦争はいまだ終わらず、ガザでも日々犠牲者が増え続けている。
ロシアやイスラエルは核兵器の使用をほのめかし、核の脅威が改めて高まっている。
このタイミングで『オッペンハイマー』が日本で上映されるからこそ、それに対するアンサーとして、核兵器の”人間的悲惨”を、日本から世界中に向けて改めて周知徹底していく必要があるのではないだろうか。
1人でも多くの人が『オッペンハイマー』を観て、その人なりのアンサーを見出してほしいと、そしてそれが核のない世界に、こどもたちが笑顔で暮らせる日常に、繋がってほしいと、切に願っている。

3時間という長い映画なので、仕事や家事育児に追われている人にとっては、映画を観る時間を確保することは難しいかもしれない。
1日24時間の内の3時間、映画館までの往復時間を含めれば5時間以上かかるという人もいるかもしれない。
しかし、“残りの人生のうちの数時間を『オッペンハイマー』を観るために使う”と考えれば、そう長い時間でもないとは感じられないだろうか。
大げさだと感じられるかもしれない。
けれども、現代を生きる私たち日本人にとっては、それほど意味のある時間になりうる可能性を、この映画は持っていると思う。
私はこの映画を“素晴らしい映画”だと手放しで評価することはできないけれど、“観るべき映画”であると強く感じている。

最後に、私自身としては、できれば今年も原爆関連の映画をロンドンで上映したいと考えている。
それが私のアンサーだから。