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文章への羞恥心

Diaryと名付けた自分のインスタグラムに、無言で写真ばかり上げているのは自らの文章への羞恥心に勝てないからだ。

写真はいい。わたしの目に見たものを切り取っているにも関わらず、どこか客観的な冷静さを失わない。

文章はそうはいかない。言葉選び一つ一つ、漢字の「ひらき」方一つ一つ、句読点の打ち方一つ一つにその者のすべての自意識が現れる。残念ながらわたしは恥知らずではなかった。

わたしはいつも自らの至らなさを恥じている気がする。昔から自分になにができるのかよくわからなかった。少なくとも大抵のことにおいて、それができないという人よりはできて、できるという人よりはできなかった。


勉強などその最たるものだと思う。勉強しようとしまいと、常に真ん中。授業さえ聞いていれば赤点は取らなかったし、それ以上を求める熱量もなかった。ただわたしのまわりには勉強のよくできる人がたくさんいたので、「気が乗らない」のを言い訳にとったパッとしない点数を彼女たちのそれとくらべて、毎度小さく自分に失望したものだった。

運動もあまり好きではなかった。運動神経自体は案外悪くないのだが、運動の得意な人が嫌いだ。例えば体育の授業でバスケットボールをした時に、ディフェンスしようとしたらバスケ部の女に「邪魔」と吐き捨てられ、これそういうスポーツじゃないの?と大変困惑したことがある。彼女の名誉のために付け加えると、別に彼女はバスケのルールを理解していないわけではなく単純にわたしのことが嫌いだっただけである。ただこれ以降わたしの中では運動の得意な人間はそういういけ好かねえ奴という認識になった。

だから何だ、という話だが。

結局わたしはうらやましいだけだ。自らに確固たる一貫性のある人々が。
自分の能力がよくわからないわたしは周りの人間と比べるしか自分を形どる術を持たないのだけれど、それがとても不健康なことだというのは薄々気がついていた。

仕方の無いので、わたしは輪郭のぼやけたまま生きるしかない。

ふと、結局のところわたしの持つ文章への羞恥心は、ふだん曖昧なままにしている自分を否が応でもクリアにさせられてしまうからかもしれないと思った。


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