「頑張ります症候群」のわたしが見つけた「しない3箇条」
ローカル×ローカルのインターンが3週間目に突入した。
SNSでわたしの投稿を見た知人から、「ローカル×ローカル楽しそうだね」と連絡をもらうことも増えてきた。
たしかに楽しい。めちゃくちゃ楽しい。
毎日みんなで朝ごはんを食べる時。わたしが作った夕ご飯を、「おいしい」と言って完食してくれる時。南伊豆にくらす人や、宿のゲストとおしゃべりする時。ローカル×ローカルでの時間は、すごく濃密で、幸せで、心地いい。
だから、ここでの時間を一言で表すのなら、一番はじめに思い浮かぶのは「楽しい」だ。
しかし、同じくらい「苦しい」とも思っている。
それは、今まで気づかなかった本当の自分をまざまざと見せつけられ、自分の弱い部分を嫌というほど思い知ることになったからである。気づかなかったというより、見ようとしてこなかったのかもしれない。
事件発生
ただただ楽しい気持ちでいっぱいだったインターンが、4日目くらいから、ちょっとずつおかしくなっていった。「ああ、わたし今こう動くべきだったな」とか、「わたし、今こんなふうに思われているんだろうな」とか、時間は巻き戻せないのに、過ぎたことをくよくよ後悔することが増えていった。(もちろんローカル×ローカルの人たちはこんなこと思っていないし、わたしの勝手な思い込みである)
7日目のことだった。いつものように午前中に宿の掃除をしていたら、ふと、「このまま周りを気にしすぎていたら、社会人になったときに鬱になってしまうんじゃないか」と思ってしまった。一度思い浮かぶとこの不安がずっと頭の中をついて回って、「どうしよう、なっちゃうかもしれない、どうしよう」と焦り始めた。
突然でてきた「鬱になっちゃうかもしれない」の不安が抜けないままリビングに戻ると、外から帰ってきたローカル×ローカルのオーナー、イッテツさんが、わたしの顔を見るなり「カレン、疲れてる?」と言った。
張り詰めていた何かがプチンと切れる感覚と同時に、涙が出てきた。
実は前日、イッテツさんにゆかりのあるゲストと話していた時、「カレンちゃんは人の気持ちに敏感だから、傷つきすぎないようにね」と言われ、思わぬボディーブローに泣きそうになっていた。そして翌日の「カレン、疲れてる?」である。ものの見事に伏線が回収され、涙腺は崩壊した。
<自分自身>と<他者>の間で、<自分>のバランスを取る
後日、イッテツさんはこんなものを見せてくれた。西村佳哲さん著『自分をいかして生きる』の一節である。
<自分自身>と<他者>の間にいる<自分>のバランスをいかに取るか。
<自分>が<他者>に寄りすぎると、他人の都合に合わせて自分が疲れてしまうかもしれないし、<自分>が<自分自身>に寄りすぎると、自分勝手になって他人を疎かにしてしまうかもしれない。
例えば、友達から飲み会に誘われたとする。
<他者>に寄った<自分>は「せっかく誘ってくれたのに断ったら、ノリ悪いって思われるかなあ」なんてことを考えて、<自分自身>に耳を傾けると、「明日提出のレポート、まだ全然手をつけてないや。飲み会に行ったらレポート終わらないかも」みたいな声が聞こえてくる、ということである。
そして、<他者>を<社会>に置き換えると、<自分>は、<社会>と<自分自身>の両者の間でバランスをとる必要がある。
例えば、「本当はやりたくない」仕事を持ちかけられた時。「本当は行きたくない」場所に異動を命じられた時。<社会>からの要求に応えることはできても、<自分自身>の声に耳を傾けられなかったら。
いつの間にか、<自分>が<社会>に飲み込まれるかもしれない。
イッテツさんの話を聞いて、わたしは<自分>が限りなく <他者>に寄っていたんだな、と思った。
思い返すと、わたしは「自分の言動によって周りがどう感じるか」を過剰に気にしていた。相手が実際にどう思っているかにかかわらず、「あの時こうしていれば」「あの時こんなことを言わなければ」と後悔しては凹み、自分を責めていた。
相手がなんとも思っていないことが、後から判明することもよくあった。というか、ほとんどの場合、相手はなんとも思っていない。相手にとっては些細なことでも、1人で勝手に落ち込んで、心をすり減らしていた。心の無駄遣いである。
「頑張ります」が無意識に口から出てくる
事件はさらに続く。今まで気づいていなかった癖を自覚することになったのである。
どうやらわたしは、相手の考えや助言を聞くと、「そうなんですね」「わかりました」といった相づちではなくて、「頑張ります」と口走ってしまうようだ。
なぜ「頑張ります」と言ってしまうのか、原因はなんとなく察しがついた。
わたしは子どものころ、家族から「頑張ったね」と認められた記憶がほとんどない。
小学生のとき、妹がテストで80点を取ると褒められるのに、95点と書かれたわたしの答案を見ると、母は「どうして100点じゃないの」と言った。
中学生のとき、定期テストで160人中32位を取ったら「どうして30位以内じゃないの」と言われた。「そうか、わたしはもっと頑張らないと褒められないんだ」と思って、次のテストで14位を取った。今度こそ「すごいね」の一言を期待していた。しかし、期待とは裏腹に、母はこう言った。「どうして1桁じゃないの」。
当時最も身近な<他者>から認められず、わたしより頑張っていない(ように見える)妹ばかり、もてはやされることがずっと納得できなかった。
こうして妹と比べ、比べられるうちに、クラスメイトと自分を比べ、部活の同期や先輩と自分を比べるようになった。褒められたり、認められることを期待してはその通りにいかず、気づけば無意識に「認められないのはわたしがダメだからだ。もっと頑張らなきゃ」と自分自身を陥れるようになった。
「頑張ります」という言葉は、<自分自身>の声を完全に遮断して「わたしはこうあるべきだ、こうならなきゃ」と自分を縛りつける鎖になっていた。
ここまで書いて、自分でもドン引きした。相当こじらせている。わたしはこれを、「頑張ります症候群」と名付けた。
「頑張ります症候群」のカルテを出してくれた、ベぇさん
「頑張ります症候群」を自覚した日。ローカル×ローカルに、「ベぇさん」が泊まりに来た。ベぇさんは熱海でゲストハウスのスタッフをしており、仕事や恋愛の相談など、よくゲストの話の聞き役になっているそうだ。
藁にもすがる思いで事の顛末を話すと、ベぇさんはこう言った。
びっくりした。
わたしにとって、自分が頑張ったか頑張らなかったかの判断基準は、他人ありきだった。
「頑張る」ことの意味を掴めず、扱い方もままならない今、「頑張る」という言葉を使うことがちょっと怖い。だから、まずは言い換えてみる。
「頑張る」んじゃなくて、「役割を全うする」、「相手に真摯に向き合う」、「自分の掲げた目標を達成する」、「今できないことをできるようにする」。
「しない3箇条」
ベぇさんと話す中で、「期待しない、比べない、頑張らない」という言葉がひらめいた。
<他者>の行動を期待しない。
<他者>と比べて、<自分自身>を陥れない。
<自分自身>の声を無視して相手に合わせない。
これが、「頑張ります症候群」のわたしが見つけた「しない3箇条」である。
「頑張ります症候群」から抜け出すために、絶賛リハビリ中である。今は手すりがないと歩けない。でも、歩けていないこと自体が無自覚だった状態から、歩けていないことに気づき、手すりをゲットして、歩こうとしていることそのものが、わたしにとっては大きな一歩だ。
P.S.
3000字を超える長文を最後まで読んでくださったあなた、ありがとうございます。疎遠になった知り合いがこの記事をきっかけに連絡をくれることが続いていて、発信することの力を感じています。
ところで、イッテツさんが、「これ読んだ人が、<ローカル×ローカルってやばい場所なんじゃないか>って思いそう」と心配しています。大丈夫、ローカル×ローカルでのインターンはとっても楽しいし、わたしは来たことをちっとも後悔していません。
あの日、泣きながら話すわたしの話を聞いてくれたゲストのみなさん。深夜2時まで付き合ってくれて、ここには書き切れないくらいたくさんのことを語り合ったベぇさん。こじらせまくっているわたしを見捨てず、向き合ってくれるイッテツさん。出会えたのは、紛れもなく、ローカル×ローカルがあったからです。
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HP
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