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こどもの視点は神の視点

ずっと、こどもが欲しいとか、母親になりたいという気持ちがわからなかった。
20代も後半になると「結婚しないの?」的な質問は自然にされたし、「したい相手が見つかったらします」という回答にはそれ以上のツッコミもない様子だから、そう言いきることで境界線は保てるのだと知って、時は過ぎていった。

改めて、憧れや抵抗を含めて、そのあたりの思いには人生のテーマが秘められているんだろうと思う。

ある時、付き合ってた彼に突然「こども欲しい、とか思う?」と聞かれたことがある。たあいない会話の中だった気がするし、彼もこの先を考えてたのかな、とも思うけれど真意はわからない。
その頃の私なら「思わない」と言いそうだった気がするけど、咄嗟に「う〜ん、未知だから、産む経験はしてみたいと思うかな」と答えたのは、それはそれでとても正直だったと思う。

相手やシチュエーション、タイミングなんかも含めて、出てくる答えはきっと違う。言葉になったからといって、それが全てでもない。けれど私がそれをいまだに記憶しているのは、それ以上ないくらい本音に近い思いだったからだ。そして、瞬間的に恥ずかしい気持ちがあったのも、覚えている。

あの頃の私は、未来を予見してしまうのが怖かったのだと思う。無意識を意識化することでリアルに近づく怖さ。どちらかに答えが出てしまうくらいなら、答えが出ないまま望洋としたものである方が、目的に到達するという満足や幸せにもならない代わりに、傷つくこともない。

そのくらい、私にとってはセンシティブな話題だった。単なる疑問のようにして投げかけられることの裏には、さぞあたり前のことを選択しないことへの違和感や好奇が隠れているようで、こちら側に寄りそう様子も、この複雑な心境に解をもたらす何かが見出される様子も感じられないのだった。誰かの「当たり前じゃねぇからな!」の勢いで叫べたらよかった、なんて思う。昔は知らないけれど、私が生きる現代は、結婚や出産は「あたりまえ」なんかじゃない。「自然なこと」でもない。
ただ、自分でも触れがたい感情や感覚は、時に土足で踏み込まれることで不快を伴いながらも、気付かされることを待っていたりする。不快から逃げ回っていたけど、そうしていることに疲れてきたら、イライラや悔しさがつのってきたら、ある種チャンスかも知れない。

10代の終わり頃、わが家に犬がきた。
以来、私は身近な存在を愛でることを覚え、どんどん愛着は湧いていった。そして20代後半から30代を迎えるあたりでようやく、従姉妹のこどもや甥や姪に出会い、新しく小さな存在のもつ力に生きる栄養をもらっていった。
身近にこどもや動物がいるというのは、優れたシチュエーションだと思う。彼らはたいてい純度の高い視点と愛情を備えていて、無条件あるいは少ない条件で接してくれる。ただ存在してなかよくしていると、より「私らしさ」を発見させてくれる、頼もしい存在。

それと同時に、私は私の幼少期の感情と関わり直すことを覚えた。
非力だった過去に、安全な環境やエネルギーを与えていくと、それは決して非力なんかではなく、力強い意思や尊厳があって、ただその意思を認める時間や場面がなかったのだと知った。自分で自分を守り、許し、励まして、尊重すると決めてから、私はようやく少しずつ「大人」になれていったように思う。

そうしてだんだんと、シンプルに「こどもってかわいいな」と思う感覚が湧いてくるようになった。
はじめから自然に思えるのなら、それがいい。ずっと私はこどもというものが「わからない」存在だった。

また、自分の過去との統合が進むにつれて、身近なこどもたちからの応援が届くようになった。
それは時に明確な言葉であったり、時につたない言葉でありながら、ハッキリとした表情で感覚をとおして、たくさんのメッセージをくれた。私は悩みや不安をうち明けたわけでもないのに、なぜか彼らは私の心なんか何も言わずともお見通しで、的確にポイントを突いてきた。

彼らの目は、キラキラと輝いていた。

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