見出し画像

夏風邪(二)

2016年 7月  東京  紗和

目を刺すような強い夏の陽光が、まるでカプセルかのように、大学のキャンパスを熱気で包む。

キャンパスは学期末最後の授業や、テストを受けにきた学生でごった返していた。
私もそのうちの1人。もうすぐ大学3年生の夏休みが始まろうとしていた。

テストを終えれば、しばらく大学に来ない学生が大半である一方、私は今学期から始まったゼミが忙しく、研究室三昧になりそうな予感だ。
他の学生たちが、待ちに待った夏休みに沸き立ち、清々しい顔で教室を去るのを尻目に、私はそそくさと研究室へ向かった。

研究室への道すがら、同級生の奈々に「紗和は今年の夏休みどうするの?」と尋ねられたが、私は普段と変わらぬ平凡な学生生活をするに留まりそうだ。
奈々はバックパッカーかのように海外の山々を登るタフな子だ。夏休みは尊敬するアルピニストと、インドネシアでの登山に挑戦すると張り切っている。

奈々としばし別れ、研究室に向かう途中、糖分補給という名目で好物のメロンパンを一つ買った。
キャンパスは緑で溢れ、うだるような夏はいよいよ盛りを迎えようとしていた。

研究室にはまだ誰も来ていないらしく、私が一番乗りだった。窓を開け放ったままの部屋はとても暑かった。やれやれと窓を閉め、冷房で気怠い頭を冷やした。他のゼミ生が来る前に、早速教授から出された課題に取り掛かるべくPCを開いた。

PCを開くと、懐かしい中学の同級生である由佳からメッセージが届いていた。私は頬張っていたメロンパンを机に置いた。
「今度GMで集まるんだけど紗和も来ない?今週金曜日の7時に東松原。」
突然の連絡が素直に嬉しいとともに、今週のゼミの進み具合によるなあと、ぼんやり考えていた。

GMとはGOD MEMBER (神メンツ)の頭文字を取ったLINEグループ名だった。
実際に仲良くなるまでは、なんて変てこで、おかしなグループ名だと思っていた。
そのGMたる、私を含む男女6人組のグループで、私は思いがけない出会いをすることになった。

私以外の5人は中学当時から仲が良いらしく、ほとんど初見の私は少し気まずいような気持ちがして、ためらった。しかし由佳の勧めもあり、何度か逡巡した末、東松原での飲み会に行くことにした。

待ち合わせに着くと、私以外は全員揃っていた。私の緊張は皆の明るい気さくさと優しさで、すぐにほどけた。

そこに、彼はいた。
私の夏休みを180度変えてしまう人。

周りにいる人間を惹きつけてやまない笑顔。彼は青空の良く似合う人だと思った。
私は中学校3年生の時に彼と同じクラスだったが当時、思春期真っ盛りの私には、男の子と話すことがそれはそれは恥ずかしかったため、まともに話したのは、その日がはじめてだった。
しかし私は否応なしにそのおおらかな雰囲気に気圧され、どうしようもなく惹かれた。自分にはないものを持っていると、私の直感は察知した。
大人になった彼は私にとってとても特別な存在に思えた。

皆との会話の中で、彼が獣医師になるために北海道の大学に通っていることを知った。
夏休みの帰省中で今回の集まりに来ていたのだ。

「今度皆で北海道においでよ。僕、一人暮らししているし。この人数なら泊められるよ。」彼の誘いに、行こう行こうと、他の友人も浮き足だった。
「紗和も来るでしょ?」といつも乗りの良い由佳の問いに、私は「うん」とその場の雰囲気で答えてしまった。
ほとんどはじめて会ったような男の人の家に、皆と一緒とはいえ泊めてもらうのは気が引けた。
彼は私の心を見透かしたかのように「北海道来たことないでしょ。案内してあげる。」と人間以外の生き物ですらも虜にしてしまいそうな笑顔で微笑んだ。

夏休みは退屈になりそうだと、たかを括っていた数週間前とは裏腹に、めくるめく想定外の出来事が私を取り巻いた。ゼミでの成績や、勉強だけが取り柄の私が、その夏大学生活を謳歌したのだ。

彼とはその飲み会以降、2人で映画を観に出かけたり、上野や池袋に飲みに繰り出した。下町で飲んでいると、その場で出会ったご夫婦が、「君たちみたいなアベックは自分の青春時代を思い出すかのようで好きだよ。」と言って、驚くことに勘定を払ってくれたりもした。
カップルと言われたことに私たちは照れもあって笑顔でやりすごした。それでも私にとっては満更でもなく、不整脈が起こったかのように、心臓が喜びで妙に早い脈を打った。

私たちはお互いに夢中だったと思う。彼といると、自分がとても自由で、どこまでもこの夏が続くと根拠もないのに自信たっぷりでいられた。つい最近出会ったばかりにも関わらず、彼と過ごす日々が不思議なくらい自然に思えた。
どこに行くとでもなく、単純に待ち合わせだけをして、気の赴くままに遊びに行った。
普段とても内気な私には想像もできないことだ。

私たちはどこにでも行くことができて、何だってすることができる。可能性に満ち溢れていると思えた。ただひたすらに、2人で笑い合える今この瞬間を享受し、自由と若さに身を委ねた。彼の溢れんばかりの活気と夢に向かうひたむきさは、私には痛いくらいに美しかった。

1ヶ月後、私は本当に北海道に行くことになる。恥ずかしいことに東京からほとんど出たことのない私は、飛行機にすら乗ったことがなかったのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?